――男女平等ということを考えていくために、まずはフェミニズムについて教えてください。フェミニズムには「個人的なことは政治的である」という基本的なテーゼがあるそうですが、これはどういう意味なんですか。
フェミニズムの「個人的なことは政治的である」というのは、一言でいえば、個人的な性愛の領域である「親密な関係性」にも――主には「家族」ですが――「支配‐被支配」の関係性がある、という主張です。
――「支配―被支配」の関係性のことを政治的と言っているわけですね。
そうです、つまりは権力関係。相手が抵抗しても自分の意志を通すことができる能力が権力です。近代社会は性別役割分業によって男性が経済力をもっていますから、家庭のなかでも両者は対等ではなく、妻は夫の言うことに反対したくても、最終的には従わざる得ないみたいなことがあるとすれば、それは権力関係ということになります。
時代を遡れば、たとえば古代ギリシアのような奴隷制のあった社会では、女性も奴隷とほとんど同じようにまったくの無権利状態に置かれていて、物のように扱われても、極端にいえば殺されても文句は言えなかった。文字通り生殺与奪の権力を、家長である男性だけがもっていたわけですから。もちろん一つひとつの個人的な関係性に分け入ってみてみれば、そこに親密な情愛というものがあった、という場合もあると思いますけど。
――フェミニズムというのはどのようにして生まれたのですか。
フェミニズムは、すぐれて近代の思想だと言われます。フェミニズムは近代社会の基本的な理念である「自由」や「平等」の思想に根拠をもっているからです。近代社会では、人々の間に均質的な平等が分けもたれている、誰もが人権を持つものとしては同じだと考えます。だから男性も女性もそうした個人として平等であるというフェミニズムの主張が正当性をもつことになったわけです。近代以前の社会では、男女の間はもちろんですが、男性の間でも、身分や出自によってさまざまな不平等があって、それはもしかしたら男女間の格差よりも大きかったかもしれない。
――男性のなかにもすごく差別されている人がいたわけですね。
そうです。でも「みんなが平等」になったのに、その「みんな」のなかに女性は含まれていなかった、女性は一括して社会から排除されてしまったんですね。そこから女性の権利が主張されるようになった。まず参政権ですね。男性であれば全員が持っているのに、女性には誰ひとり与えられてないのはおかしいと。20世紀に入って婦人参政権問題として世界に広まって、日本でも大正デモクラシーの時期に運動が起こりました。いわゆるフェミニズムの第一の波です。
――平塚らいてうとか。
そうですね。欧米ではそこで女性の参政権が認められました。
でも、それから50年くらいたって、いくら参政権を獲得して、女性の権利がいろいろ認められるようになっても、実質的には女性の地位はなかなか上がらなかった。女性たちの「差別されている」という不平等感はなかなか解消されなかった。そこでフェミニズムに画期的な視点の転換が起こったのです。性差別の根源は、女性を「劣ったもの、汚れたもの、取るに足らないもの」とみなす視線そのもの、つまり「女であること」そのものにあるのではないか、と。1960年代にフェミニズムの第二の波において中心的な役割を果たしたラディカル・フェミニズムの「個人的なことは政治的」というテーゼは、まさにこのことを示しています。個人的・私秘的な関係性の中にこそ差別が、「支配‐被支配」の関係がある、ということです。
いくら制度を変えても、権利を獲得しても、それだけでは平等にはならない。男性と女性の関係性そのものの中に分け入らないといけないんだ、という考え方になってきたという経緯ですね。
――それでラディカル=革新的なわけですね。
制度を支えている性――男性と女性の性愛関係、親密な関係性――のほうにこそ問題がある。これは「制度から性愛へ」と性差別の根源を180度転換した画期的な思想です。
たとえば、ドメテスィック・バイオレンスという現象は、ずっと昔からあったわけですが、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことは政治的」というテーゼのもとで、初めて告発可能になった。それまでは、妻を殴るような男とたまたま結婚してしまった女性の個人的な不幸、ということで片づけられてしまっていたものが、もし女を殴ることでしか――女性に対して暴力という権力をふるって何とか男性としての優位を示されなければ――男として生きていけない、ということなら、それは社会の、制度上の男性優位の構造が、個人的な領域にまで貫徹しているということです。だからけっして個人的なことではなく、まさに社会的=政治的なことなわけです。まさにものごとを「根源的に」ラディカルに見ることを可能にした、という意味で、画期的だったわけです。
ただ「女性は女性だから差別されている」という考え方は、トートロジーで、論理的には「女性である限り差別されるしかない、差別されないためには女性であることをやめるしかない」といった結論を導くことにもなります。そうなると実践的、現実的に難しい問題がいろいろでてきます。