平清盛は悪人か
前回は、琵琶法師が『平家物語』を語っていたことに触れました。その『平家物語』の主人公は誰でしょう? 平家一門の興亡を描いた物語ですので、普通に考えれば平家の一族ということになりますが、前半では何と言っても清盛の存在感が目立ちます。
『平家物語』は冒頭で、中国では安禄山、日本では平将門など謀反を起こした者どもを並べ立て、これらの者は皆なおごり高ぶっていたが、清盛には遠く及ばないと断言しています。となれば、清盛は大悪人ということになりそうであって、確かにそうした扱いをしている箇所もありますが、基本は「不思議」の人という認識です。
この「不思議」という語については、「とんでもなくひどいことばかりする」と解釈されることが多いのですが、こうした場合の「不思議」は梵語の acintya の漢訳であって、常識では考えられないという意味です。つまり、桁外れすぎる存在だった、というのが『平家物語』の清盛観なのであって、善悪の判断を超えていたと見ているのです。
そのことを良く示しているのが、清盛について「不思議の事をのみし給へり」と述べている、有名な「祇王[ぎおう]」の段です。有名な話ですが、ざっとまとめておきましょう。
男装して今様などを歌い舞う遊女である白拍子[しらびょうし]の祇王[ぎおう]は、清盛に寵愛され、妹の祇女[ぎにょ]も母親も手厚い保護を受けていました。そこに、16歳であった評判の白拍子、仏御前[ほとけごぜん]が清盛に芸を見せたいと邸宅に押しかけてきます。清盛は生意気だと怒って追い返そうとしますが、祇王は同じ道の者であってしかも若いということで、気の毒がって清盛をなだめ、仏御前に芸を披露させてやります。
すると、清盛は仏御前に夢中になってしまいました。仏御前が祇王に申し訳ないと気にすると、清盛は祇王を追い出してしまいます。しかし、仏御前がそのことを気にかけてふさぎがちになってしまったため、清盛は仏御前を慰めるためにやって来て歌うよう祇王に命じます。祇王は無視しようとしますが、清盛を怖がる母に泣きつかれ、やむなく清盛邸におもむいたところ、粗雑な扱いを受けます。
傷ついた祇王が、皆の前で仏御前の「仏」と仏教の開祖の「仏」をかけ、「仏」と「凡夫」は本来等しいとする今様を詠い、寵愛されている仏御前と捨てられた自分との大きな隔たりを歎くと、人々は感泣しますが、清盛はこの場の歌としてはうまく詠ったと誉めるのみでした。
悲しみを深めた祇王は、自殺も考えますが、母にとめられたため尼となると、妹の祇女も母も出家し、嵯峨の山奥の庵に隠棲して念仏に励む日々を送ります。そこに17歳の若い身で尼となった仏御前が尋ねて来て、これまでの心苦しさを語ると、祇王も仏御前のことだけを恨めしく思いがちだったと告げて詫び、以後は修行仲間となって皆な往生しました、という話です。
『平家物語』では祇王が仏御前に語った言葉は、「ともすれば、わごぜ(あなた)のことのみ恨めしくて」このままでは往生は難しいと思っていた、というものでした。つまり、仏御前については恨めしく思いがちであったものの、清盛については責めていないのです。
「昨日今日」という表現
実際、追い出される時の心情については、「もとより思ひ設けたる道なれども、さすがに昨日今日とは思ひよらず」と述べています。「もともと、寵愛が他の白拍子などに移って冷たくされるようになると予想していたが、さすがに昨日今日のことになるとは、考えてもいなかった」と記されているのです。
これだと、必ず台風が来ると予想していたものの、あまりにも急にやって来たことに驚いているみたいですね。台風はすさまじい猛威を振るいますが、人の力でどうにかできるものではないのと同様、圧倒的な存在であった清盛については、恨む対象とは見ておらず、ただ、心変わりが急すぎることに愕然としたのです。
このことを示すのが、「昨日今日」という言葉です。皆さん、読んでいておかしいと思いませんでしたか? すぐに出ていけと言われたなら、「今日明日にも」という表現になりそうなものです。実は、この「昨日今日」は、『伊勢物語』で二度用いられている言葉であって、仏伝である『出曜経[しゅつようきょう]』に基づく表現でした。
『出曜経』では、世間は無常であることを強調し、「 昨[きのう]瞻[み]し所の者も 今夕[こんせき]には則ち無し(昨日見た者も、今日の夕方にはもういない)」と説いていました。『伊勢物語』はそれを利用したのであって、『平家物語』はその『伊勢物語』を踏まえているのです。
熱病になった清盛の苦しみは地獄か餓鬼か
『平家物語』の「入道死去」の段は、にわかにすさまじい熱病になって臨終近くなった清盛について、東大寺の大仏を焼いた罪により、苦しみが果てしなく続く無間地獄[むげんじごく]に落ちることになり、閻魔の使いたちが迎えに来たと記しています。
ただ、注目されるのは、「病つき給ひし日よりして、水をだに咽喉へも入れ給はず。身の内の熱き事、火を焚くが如し」という記述です。これだと、生きているうちに地獄の苦しみを味わっているようであるものの、水すら飲めないというのは、地獄ではなく、餓鬼の特徴なのです。
インド仏教では地獄と餓鬼は別の世界であって、地獄(ナラカ)・餓鬼(プレータ)・畜生(ティルヤッグヨーニ)が死後におもむく三つの悪い世界とされています。『正法念処経』は、プレータは物惜しみなど生前の悪行の報いによって、痩せさらばえて首は針のように細長く、お腹だけが瓶のように膨らんだ姿になっていて、いつも飢えており、水を飲もうとすると炎になる、と説いています。古代インドでは、親や先祖が悪い行いによってプレータとなって苦しんでいるとされることが多く、その境遇から救い出すための儀礼が早くから行われていました。
ただ、プレータについても火で焼かれるなどと説かれることがあるため、東アジアでは地獄と混同されがちでした。そのプレータを、漢訳経典が餓鬼と訳したのは、古代中国では死者の魂を「鬼」と呼んでいたためです。このため、地獄・餓鬼・畜生は、「地獄・鬼・畜生」と訳されることもしばしばでした。
中国では鬼は目には見えないのが普通であり、恨みを持った鬼が時に憎むべき相手に恐るべき姿で現れることがあるとされていました。最初期の漢訳経典では、そうした「鬼」とプレータの違いを考慮し、「飢」という字を上に付けて餓鬼という言葉を作りだしたのです。
地獄に生まれた者たちを苦しめる鬼
現在、鬼と言えば、地獄に落ちた者たちを苦しめる存在ということで、角が生えた赤鬼・青鬼などを思い浮かべがちです。しかし、地獄と餓鬼は違うのですから、地獄に鬼がいるはずはありません。地獄で亡者たちを苦しめるのはインドではナラカパーラ(地獄の門衛・監視人)と呼ばれる恐ろしい様子の者たちでした。
こうした者たちについて、鳩摩羅什や玄奘三蔵などは「獄卒」と正確に訳していました。ところが、これを初期の幾人かの漢訳者が「獄鬼」と訳していたのです。仏教の中国化が進んだ唐代頃になると、いろいろな説法話をする僧侶たちがこの「獄鬼」の言葉を使うようになり、その結果、地獄に鬼がいることになってしまったのですね。
これには、インドの恐ろしい「鬼神」のイメージも投影されているようです。インドの神の中には青い体のものがおり、仏教の不動明王などはその影響を受けているため、像が青色で塗られていることも少なくありません。また、唐代に編纂されていて中国的な色彩が濃い『陀羅尼雑集[だらにぞうしゅう]』には、邪悪な鬼神について「赤鬼」「黒鬼」などの語を用いています。
このように、様々な事情が積み重なった結果、東アジア諸国では地獄に鬼がいるとされるようになり、その鬼にインドの恐ろしい鬼神やその影響を受けた仏教の明王などの姿が反映されたのですね。こうした地獄の鬼たちが虎皮の褌をしているとされたことについては、以前、考察したとおりです。