仏敵だからという理由で殺してよいか
前回は、最後の部分で物部守屋に触れました。仏教導入に反対であった守屋は、推進派である蘇我馬子と対立して馬子の軍勢と戦うに至り、初めは優位に立ったものの、少年であった聖徳太子が四天王に戦勝を祈願した結果、打倒されたという伝説は有名ですね。
『日本書紀』では、聖徳太子は14歳であって軍勢の最後に従っていたと書かれています。木に登って盛んに矢を射ていた守屋を射落としたのは、太子の臣下であった迹見赤梼[あとみのあかい]だったと記されているのです。しかし、後代になると、太子は先頭切って勇ましく戦ったとされるようになり、中には太子自ら守屋を射落としたとする太子伝まで登場しています。
さらに室町時代の井阿弥[いあみ]という役者の作と推定されている能の『守屋』では、赤梼はそもそも登場せず、太子が弓で守屋を射ると、放った矢は天に高く上がったのち、落ちて来て守屋の首の周りを回り、口の中に刺さったとされています。凄いですね。
ただ、いくら守屋が仏教導入に反対したためとはいえ、太子自身が守屋を射るなどというのは、殺生を禁じる仏教の教義からするとよろしくないことになります。そのため、いろいろな太子伝では、守屋は殺すほかないほど悪逆だったことが強調されたり、守屋を殺すことによって多くの人の命を救ったといった主張がなされたりしたのです。
そうした説とは異なる解決策も生まれました。守屋は実は仏教を信じており、導入に反対したのは、合戦で負けることをきっかけにして仏教を広めるための方便だったとするのです。
守屋を仏教流布を願う人物に変える
こうした解釈は平安時代には生まれていたようですが、これを明確に説いたのは中世の聖徳太子伝です。たとえば、太子に仕えた調子丸の子孫と称する法隆寺の顕真の説を集めたものとされる13世紀末成立の『顕真得業口決抄[けんしんとくごうくけつしょう]』では、守屋は臨終の際に、「我が願、既に満じ、衆[もろもろ]の望み、亦た足りぬ」と語ったとされています。
この偈は、鳩摩羅什訳『法華経』「授学無学人記品」の冒頭に見えるものであり、阿難と羅睺羅[らごら]が釈尊に向かって、「我々が将来、悟りを得るであろうと予言してくださるなら、我々の願いは満足されるでありましょう」と語ったものです。しかし、『顕真得業口決抄』では、守屋が「自分の願いは既に満たされた」と語ったという意味で利用されています。つまり、自分が死ぬことによって仏教流布の邪魔をする者はいなくなり、仏教が一気に広まるであろうが、それこそ自分の願いなのだというのです。
この頃から、守屋の意義が強調されるようになります。太子と守屋は光と影のように生まれ代わるたびに一緒であったとされたり、守屋は地蔵菩薩の化身だとする伝承まで生まれるようになるのです。
『無明法性合戦物語』
上記の守屋のあり方をまねた合戦物語が、南北朝頃の作と推定されている『無明法性合戦物語』です。この物語が学界に知られるようになったのは、大正時代になってのことであり、注目されるようになったのは戦後からですので、長い間忘れられていたことになります。
私年号である永喜2年(大永7年:1527)に書写された『无明法性合戦状[むみょうほっしょうかっせんじょう]』という写本によれば、永久年間(1113-1118)の頃、駿河の久能寺の見蓮という学僧が盲目のふりをして奥州の忍の里にいた稚児に近づき、『無明法性合戦物語』を語り聞かせたことが、久能寺の歴史を記した『久能寺縁起』に書かれていた由。僧侶が可愛い少年と仲良くなるために、興味深い物語を語るというのが何とも中世らしいですね。
盲目の僧が物語を語るとなれば、半僧半俗の琵琶法師が『平家物語』を語るようなものですが、永久年間は平家が亡びる前、つまり、『平家物語』が作られる前ですので、これが事実なら、『平家物語』より前に琵琶法師が戦記物語を語っていたことになります。しかし、『無明法性合戦物語』は、冗談満載の凝った戦記物語であって、とても『平家物語』以前に書かれていたとは考えられません。
その内容は、生死[しょうじ]輪廻の将軍・元品無明[がんぽんむみょう]の悪王という悪の軍勢と、法性真如[ほっしょうしんにょ]法王がひきいる善の軍勢とが戦うというものです。生死輪廻の将軍とは、無限に輪廻の苦しみが続くことを勇猛な将軍にたとえたものであり、元品無明の悪王というのは、輪廻を生み出す迷いの根源である無明を悪の王としたものです。
一方、法性真如法王の場合、法性も真如も根源的な真理のことであって、様々な現象の背後にある究極的なあり方を指します。それを王とみなしたのですね。善と悪とが戦うというのは、ゾロアスター教のようですが、むろん、これは偶然の一致です。
物語は、元品無明悪王が真実の世界の中にいる者たちをかどわかし、輪廻の牢獄に閉じ込めるため、法性真如法王が武装した諸仏諸菩薩を召集すると、無明王の方も「放逸邪見」「悪口[あっく]両舌」「妄想顛倒[てんどう]」「三宝誹謗」「十悪五逆」といった悪業を擬人化した者たちを武装させて守りを固めるという場面で始まります。
法性真如王は、阿弥陀仏と釈迦牟尼仏が大将軍となって無明王の城に攻め寄せ、観音菩薩や勢至菩薩、さらには「法師武者」となった地蔵菩薩などが無明王の軍勢を打ち破り、最後は阿弥陀仏が自ら無明王を射て落とします。これはまさに、太子が守屋を射落としたとする太子伝の記述を利用したものですね。
射落とされた無明王は、「無明即法性、法性即無明。助け給え、南無阿弥陀仏」と唱えて降参します。「無明即法性、法性即無明」というのは、『般若心経』が「色即是空、空即是色(現象がそのまま空であり、空がまさに現象にほかならない)」と説いているのと同じ図式であって、迷いの根源こそがそのまま真実のあり方であり、真実のあり方こそがそのまま無明なのだ、ということです。これは、大乗仏教の基本であって、日本では天台宗なども盛んに唱えた説です。
冗談のネタとしての守屋
これまで見て来たように、守屋については仏敵とするにせよ、仏教を広めようとした人物と見るにせよ、太子の軍勢と戦ったとされる点は同様です。しかし、そうした守屋を冗談のネタにした話もあるため、最後に紹介しておきます。
浄土信仰を広めたことで有名な瞻西[せんせい]上人(12~13世紀)は、雨漏りがする家での法会の後、袖のしずくを打ち払って次の歌を詠んだと伝えられています。
古[いにし]へも今も伝えて語るにも守屋は法[のり]の敵[かたき]なりけり
雨が漏る「漏り屋」は説法の邪魔になるのであって、昔も今も「もりや」は仏教の敵だったのだ、というのです。くだらない洒落ですが、守屋合戦の話がいかに有名であり、親しまれていたかが分かりますね。