――一照先生は山下良道先生との共著『アップデートする仏教』の中で、仏教を1.0、2.0、3.0という3つのバージョンに分けておられますが、それについて改めて教えていただけますか。
1.0、2.0、3.0というのはこの本のもとになった良道さんとの対談の時に単に便宜的に使った仮の表現なんです。ですから、最近はあまりそういう言い方はしていません。彼と僕が、日本や海外で見聞してきた仏教には、いくつかタイプがあったよねという流れで、まず僕らが日常的に見ている現在の日本仏教の主流のあり方を、とりあえず「仏教1.0」という言い方で指そうとしたんです。日本に生きていて仏教に関心を持ったときに、周りを見渡したらまず見えてくる仏教の現状のことです。
お寺というのは本来は修行道場であり、仏道を実際に修行するための場なんです。仏教はもともとはこの世を生きている人のための宗教であり、それは修行の宗教でした。仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの最期の言葉も「不放逸にして、修行を完成させなさい」でした。しかし現状では、多くの寺院は葬式や法事のための場になっていて、死者の葬儀や先祖の供養をするのが仏教の主な仕事になっている感があります。それを良道さんはいみじくも「治療が行われていない病院」のようだと言っていました。もちろん日本の仏教の全部が全部そうだというわけではありませんが、一般の人が仏教と聞いてまず思い浮かべるのもお葬式や法事の光景です。禅に出会うまでの僕もそうでした。
もちろん、死は仏教にとって非常に重要なテーマですが、この自分がどう生きて、どう死ぬかという実存的な問題は、死んだ人をどうとむらうかということとはいちおう別のことじゃないですか。死者の葬送や先祖の供養の問題は、日本においては社会習俗というか、伝統的なしきたりとして重要な意味を持っていて、仏教がそれを担っていることは確かです。東日本大震災のときに明らかになったように、その意味と役割は重要です。しかし、それが主な役割になっている仏教なら、少なくともいまの僕たち二人にはアピールしないよねという話になって、そうした仏教を仮に「仏教1.0」としたわけです。
――仏道修行を志す人には物足りないわけですね。
物足りないというか、当時のわれわれは二人とも仏教に伝わってきた伝統的な修行を実践したいと思っていたのですから、そういう仏教では僕らのニーズには応えてくれそうもありません。昔、ある有名なお寺に、「唯識(ゆいしき|あらゆる対象は心のはたらき(識)によってつくり出されたものであり、識以外に実存するものはないという考え方)を実践的に学びたいのですが、そちらで住み込んで学ばせてもらえますか」という手紙を書いたら、「ずいぶん昔には勧学院があってそういうことができましたが、もうありませんので、唯識が勉強したかったら仏教系の大学で学んでください」という返事をもらったことがありました。
下手したら僕たちはオウム真理教に近づいていたかもしれません。当時、瞑想をしたり、荒行みたいなことをやったりして、修行としての仏教を前面に押し出していたのが彼らでしたからね。教祖の麻原彰晃や彼らのありようにはまったく魅力を感じなかったのでけっきょく近づきはしませんでしたが、やっていることや言っていることに関心はあったので、本屋でときどき彼らの本を立ち読みしていましたよ。
――それは危ない所でしたね。
有難いことに、縁があって兵庫県にある安泰寺という変わった修行道場につながりました。この寺は檀家が一軒もなく、葬式や法事はやりません。自給自足の共同生活をしながら坐禅と作務と勉強ができるので、僕には理想的なところでした。そこで修行している限り、米や野菜、味噌、醤油など食べるものはほとんど自分たちでつくるので食べる心配もしなくていいし、住居費も要りません。だから、個人的にはお金を使うことがありません。
そのせいで、山から降りてヒッチハイクで街まで行ったら、財布を持ってくるのを忘れていたことがよくありました。それでもやはり自分のために現金が少々は必要になりますから、夏や冬の休みの時に交代で都会へ出て托鉢をしたり、お盆の時に檀家の多いお寺の手伝いをすれば、なんとか賄えるんです。もうずっとここで気がすむまで修行していようと思っていました。
でも、あるとき師匠に「アメリカにお前の先輩たちが建てた小さな禅堂があるんだが、そこに住んで修行を続ける気はないか?」と言われて、思いがけず渡米することになりました。アメリカ合衆国東部のマサチューセッツ州の雑木林の中に建つ小さな禅堂にやってくる人たちは、僕や良道さんが求めていたのと同じタイプの仏教を求めていました。だから彼らとは非常に話が合いました。
――つまり修行をする仏教ですね。
そう。彼らにとって、葬式や法事の仏教、つまり仏教1.0は関心の外で、坐禅を中心とする禅の修行を実際にやることと、その修行をガイドする教えを学ぶことの二つがやりたいことなんです。その点が、僕らと共通していました。結局、僕はアメリカに足掛け18年くらいいたし、良道さんはそこに3年一緒にいて、その後はイタリアとか高知とかミャンマーなどいろいろな所に行ってましたが、大体同じ頃に日本に帰ってきました。
そのときに驚いたのは、書店の仏教書コーナーに行ってみると、以前は見かけなかったスマナサーラ長老やダライ・ラマ法王の本がたくさん並んでいるんです。僕らが日本を離れる前は仏教経典の解説書や仏教学者の研究書、あとは僧侶の法話集くらいだったのに、怒りはどうすれば鎮まるかとか、あなたの人生に役立つ仏教の教えといったタイトルの本が大きなスペースを占めていて、しかもかなり売れているようなのです。日本を離れている間に、大きな変化が起きていたんですね。
そういう本は、生きる上で仏教はちゃんと役に立つということが前提になっていて、あなたの抱えているこういう問題はこんな風に考えてこんな実践をするとこういう効果があるということがハウツー的にわかりやすく書かれています。ブッダの智慧は信じるものじゃなくて実際に行じるものであり、在家だろうが出家だろうが、こういう風にしたらこういう結果が得られるよという語り口です。
いうなれば「人生メソッドとしての仏教」です。仏教は人生の諸問題を解決するのにとても有効なメソッドで、しかもそれは2500年の歴史が証明しているとされる。英語ではtime-testedという言い方があって、「長期間の使用で保証済みの」とか「長年かけて有効性が実証されている」という意味なんですが、そういう自信にあふれた感じで語っているんですよ。これは新しい潮流だなと思いました。
――2500年の風雪に耐えた問題解決法。それは説得力がありますよね。
しかもそれを仏教の本場から来た長老が語っていて、説明もうまいし、あげている例もわかりやすい。仏教用語をあまり使わずに書かれているので、なるほどこれは「はやる」だろうなと思いました。
ただ、それでいいのならここで話は終わりなんですけど、僕も良道さんも、そこには何か本質的な問題性があるのではないかと感じていました。それで、僕らが海外にいる間に日本で広がっていた新しいタイプの仏教を「仏教2.0」と呼んで、それをめぐって僕たちが感じた問題について話し合ってみようということで彼と対談をしたんです。
僕たちが海外で見聞した仏教も、そういう「仏教2.0」的な受け入れられ方をしていました。仏教や禅は人生の諸問題の解決に有効だからそれを熱心に学んで身につけようという人たちが多かったのです。日本でもそういう形で仏教にアプローチする人たちが出てくるようになっていたんです。
――仏教2.0では1.0と違って、ちゃんと「治療」が行われているわけですよね。
そうですね。診断と治療法がちゃんと書いてある。しかもそれはわざわざ「病院」に行かなくても自分でできるようになっている。
――通信教育みたいな。
そうそう。さらに、今までのような漢字の仏教用語ばかりの古風な仏教ではなく、西洋の医学や認知心理学の知見もちゃんと踏まえて、とてもモダンな仕様になっている。最近話題になっている「マインドフルネス」なんかがまさにそうですね。マインドフルネスは仏教の教えや実践をベースにしてアメリカで新たに開発されたもので、一定の訓練プログラムを受けて資格を取った人が本を書いたり、ワークショップで教えたりしています。これも「仏教2.0」、つまり問題解決のメソッドとしての仏教と呼んでいいと思います。
では、われわれが仏教2.0の何を問題にしたのかというと、人生上の問題を抱えている人が、その問題を作り出したあり方のままでその問題に取り組もうとしているという点でした。アインシュタインが、問題を生み出したのと同じレベルの意識ではその問題を解決することはできない、というような意味のことを言っていますが、それを踏まえるなら、怒りや鬱といった問題を生み出している自分のあり方自体を変革することなく、その自分のままで仏教のメソッドを運用し、問題を解決しようしているという構造になっているのではないか、それでは本当の解決になっていないのではないかという疑問です。
もしそうだとすれば、自分は相変わらず問題の一部になっているままなのですから、頑張れば頑張るほど問題がこじれていくのではないか。問題の根っこにある自分そのものにアプローチしないとキリがないんじゃないかと、僕には思えたんです。たとえるなら「モグラたたき」です。一回バーンとたたいて引っ込めたとしても、今度は別の所から違うモグラが出てきてしまう。だから、出てきたモグラをたたき続けるより、そもそもモグラが出てこないような構造に変えていかないといけないんじゃないかと。あるいは、そのゲームそのものから降りるというようなもっとラディカルなアプローチが必要なのです。そして仏教の本筋はそこにあるのではないかと二人とも考えるようになっていたんです。
――対症療法ではなく、そもそも病気にならないようにすべきだと。
はい。別の言い方をすると、仏教2.0では青虫が青虫のままで問題を解決しようとしている。青虫には蝶になるという本性というか成長の方向性が潜在的にあって、仏教ではこれを仏性(ぶっしょう)と呼んだり、自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)と呼んだりします。にもかかわらず、仏教2.0では、青虫のままで大きくなろう、うまく生きようとしているように見えるんです。仏教は、青虫が蛹を経て蝶になる道を教えているはずではなかったかというのが僕らの理解でしたから、そこを問題にしたんです。
――蝶にではなく、いい青虫になってやろうとしているんじゃないかと。
そうそう。でも、ゴータマ・ブッダのオリジナルのメッセージは、そうじゃないと思うんです。メソッドそのものが悪いわけではないし、それが受け入れられる事情もよくわかるんだけど、そこに止まっている限りやっぱり「我(が)を主体にしてやっている修行」になっていると僕には見えるんです。我の状態を青虫に喩えているんですが、道元禅師はそれを「吾我(ごが)」と呼んでいて、僕だったらそれに「エゴ」とふりがなを振ります。エゴがエゴのままで、目標達成に有効なメソッドを運用して、今よりましなエゴになろうと一生懸命に努力しているんだけど、根本の問題、つまりエゴがエゴであることは手つかずのままになっている。というより、根本の問題に触れないための口実として、人生の問題の解決に躍起になっている可能性さえあると思うんです。
もしそうだとすると、仏教2.0には弊害すら見て取ることができるんじゃないか。つまり、自我が自分の作り出したあれやこれやの問題から自由になるように仏教を使っている限り、仏教が本当に問題としている「自我からの解放」という問題は放っておかれます。だから、自我の自由のためのメソッドとしての仏教ではなく、自分のあり方のシフト(「自我からの解放」)そのものにアプローチするような仏教を提示することが必要だということで、それを仮に「仏教3.0」と呼んだわけです。
――自我という「青虫」から解放されて「蝶」になるというのが仏教3.0のイメージなんですね。
念のため言っておくと、1.0、2.0、3.0というのは、われわれと仏教の関係のあり方の分類の話だということです。葬式や法事の仏教、メソッドとしての仏教の存在意義を否定しているわけではありません。どちらもそれなりの必然性があって生まれ、現実の社会に定着したものですし、これからも必要だろうと思いますけど、僕らからするとそれが仏教の中核ではないはずだという認識があるのです。1.0、2.0のさらにその先に本丸があると思うのです。仏教が提示する問題解決のメソッドが有効なことは認めますが、そこには大切なもの、仏教にとって本質的なことが見落とされていると僕には思えるんです。仏教1.0にも仏教2.0にもそれぞれ足りないもの、批判すべきことがあるので、それらを乗り越えた仏教というものを構想して、それを仮に「仏教3.0」と呼ぶことにしたのです。