――悟りや涅槃は名詞ではなく動詞的に理解すべきだというお話ですけど、たとえば「境涯」なんかも、何かそこに到達することを目指す山の頂上のようなものをイメージしちゃいますよね。

 境涯と言ってもガチっと固定した完成品みたいなものではなく、いつでも動いているというか揺らいでいるものだと思うんです。その揺らぎみたいなものがあるから成長していくわけです。境涯には成長していく方向性があるんですよ。ある一定の境涯が得られたとしてもそれは一時的なもので、通過点でしかない。成長というか深まりというか、とにかくそういうダイナミックな動性そのものを境涯とよんだ方がいいと思うんです。どこかに到達するために境涯を頑張って深めているのではなく、自ずと深まり続けるような境涯であることこそが大事です。その変化の方向性の正しさや精度、精密さこそが重要なのであって、もう動きようのない完璧な境涯にたどり着くかどうかなんて問題ではないんです。

 先ほどのHappiness is the Way.というのは一歩一歩がすでにhappinessに触れているということなのですが、それで満足して立ち止まるのではなくて、歩き続けていくことでhappinessがどこまでも深まっていく、それが悦びになって次の新しい一歩が踏み出される、その連続が道になっていくということだと思います。

――一歩を踏み出した瞬間に、もう幸福に到達していると。

  はい、一歩一歩が到達なんですけど、それで歩みは止まらないんです。むしろ、前へと押し出されていく。あるいは、前方から呼ばれて足を踏み出すといってもいいかもしれませんね。このことを僕は「登山」のメタファーで説明しています。

 山には二つの登り方があります。ひとつは山頂に立つことが最優先で、その山を征服するために登るという「山頂到達型」の登山。これは多くの人が持っている登山のイメージではないですか? もうひとつは何型って言えばいいのかまだよくわからないので、いい言い方があれば教えてほしいんですけど、たとえば、今ここで富士山に登ろうと思ったら、たとえそこが東京の自宅であったとしても、もう登山は始まっていると考えるような登山の考え方です。富士山に向かう正しい方向性で一歩を踏み出したら、それがどこであっても、富士山の裾野がずーっとそこに延びて来ていて、その一歩でもうすでに富士山に触れているという理解なんです。

 このタイプの登山では、途中で何かの事情があって頂上まで行けなくても別に登山の失敗にはなりません。頂上に立たないと登山は完結しないと思っている人からすれば、何を言ってんだということになるでしょうが、これはまったく別の考えに立ったもう一つの登山なんです。5合目で引き返しても、堂々と、富士山に登った、富士山に触れた、富士山を味わったと言ってもいい道理があるんです。悟りや涅槃もこれと同じで、正しくそれに向かって日々の生活を調えたら、悟りも涅槃ももうすでに自分の所にやって来ている。だから安心してその一歩を踏み出せばいい。そして、そのように安心して丁寧に歩き続ける。

 頂上だけが富士山なのではなく、そこに至る路の傍に咲いている花々だとか、ふもとでやっているお茶屋さんだって、あるいは道でたまたま出会う人たちだって、富士山の立派な一部じゃないですか。そう考えると、富士山に登るということのビジョンはぜんぜん違ってきますよね。道もそれと同じように、幸福や悟りというゴールにたどり着くための手段と捉えるのか、幸福や悟りの一部であると考えるのかによって歩く光景がまったく違ってきます。

 もしも修行や人生が最終の目的に向かって突き進むだけのものだとしたら、その目的を果たせずに終わったらすべてが無意味だったということになってしまいます。でも、修証一等やHappiness is the Way.のように考えるなら、正しい方向に向かって踏み出す一歩一歩にすでに幸福が感じられます。修行それ自体に証(さと)りの味わいとか香りが感じられるのです。道の途上でありつつ同時に幸せや幸福に触れていることになるんですよ。

――すごくよくわかります。私もそれと似たことを考えたことがあって、たとえば甲子園をめざして毎日練習をしていた高校球児が、県予選で敗退して、甲子園に行くことができなかった。じゃあ彼のその練習は無意味だったのかというと、絶対そんなことはない。物事をなんでも目的と手段の二項対立で考えること自体がよくないと思いますが、今あえてその図式に従うなら、日々の練習は甲子園に行くという目的のための手段なのではなく、実は練習こそが「目的」であり、甲子園はその「目的」を賦活するための「手段」だと言うこともできるんじゃないかと思うんです。

 そうです、そうです。そうやって反転させてみるのはとても面白いことですね。だから、甲子園は目的というよりはやっぱり方向性なんです。目的というのは「当て」なんですよ。当ては外れることがあるんです。何かを当てにするというのは、それに寄りかかることだから、外れたらずっこけてしまいます。でも、方向性は自分がそっちに向かって踏み出すということだから、当てにしているわけではありません。だから、外れることがないんです。

 甲子園を目指して野球の練習をするという話の根本にあるのは、野球そのものが好きかどうか、練習それ自体が楽しいかどうかということです。毎日のきつい練習も楽しいし、本番でドキドキしながら相手と勝負するのも楽しい。その結果、試合に勝ったり負けたりすることがある。もちろん勝ちたいと思ってやるんだけど、勝敗は野球をするという旅の景色の一つとしてあるわけで、旅の主要なモチベーションではないんです。旅のモチベーションは、そういうこと全部をひっくるめて野球するのが楽しいってことです。ところが、それと違って、未来に当てをおいてそれを手に入れることをモチベーションにしていると、望んでいるものが得られないとやる気がなくなったり、意味がないと感じてしまう羽目に陥ります。

 今やっていることそれ自体が楽しい、僕はそういう楽しさを「愉快」と言っています。勉強であれ、スポーツであれ、何事であれ、それを愉快にやっていくこと、それがとても大事だと思います。そういうのが「本気」ということでしょう。

 ティク・ナット・ハン師にもうひとつ言われたことがあるんです。それは「Issho-san, smile! Practice should be enjoyable.」ということです。 僕はenjoyableを今言った意味での「愉快」と訳して、「修行は愉快なものであるべきだ」という日本語にして、今はそれをみんなにも伝えています。そのとき、ティク・ナット・ハン師は「ブッダという人は、いつも微笑んでいたはずです。彼は無一物の生活をしていましたが、地上で最も幸せな人でした。だからこそ、彼のまわりに人が集まってきたのです。いくら偉い人であっても苦虫を噛み潰したような、いつも機嫌が悪そうな人のまわりには誰も寄ってこないですよ。だからもっと微笑むことを大事にしなさい。」と語りかけてくれました。

ティク・ナット・ハン師の横で通訳をする一照さん

 ティク・ナット・ハン師にこのことを言われたときの僕はまだ40代の前半で、それこそ修行の先を急いでいるところだったので、きっと硬い深刻そうな表情をしていたんでしょうね。あと、禅の修行僧がにっこりなんかしてちゃいけないだろうという思いもどこかにありました。

――禅僧というと、それこそ白隠の達磨の絵みたいな「しっぺい口」を思い浮かべちゃいますよね。

  あれほどはっきりした「しっぺい口」にはなっていなかったでしょうけど、禅僧たるもの常に真剣な顔つきをしてなきゃって身構えていたんですね。まあ要するに、知らないうちに仮面をかぶっているような状態になっていた。それがティク・ナット・ハン師の前に立ったら、優しく「一照さん、スマイル!」と言われちゃったんです。それも無理やり笑うんじゃなくて、そういう取り繕った笑いではなく、体の内側から、腹の底から微笑みが湧いてくるような、そういう修行生活を送りなさいよというアドバイスをくれたのです。自分の修行のあり方というものを根本から見直さないといけなくなりました。A way to nirvanaというパラダイムからnirvana is the Wayというパラダイムにシフトする必要が出てきたわけです。

――いいですね! やっぱり流石ですね、ティク・ナット・ハンさん。

「なにがなんでも、いい学校に合格!」をめざす受験生みたいなマインドセットで修行していたのでは、どうやったって笑えないですよ。希望通りに合格した暁には笑えるかもしれませんが、実際の修行ではその「合格」がいつ、どんな形でやってくるかなんてあらかじめわからないんです。だから、いつかではなくいま微笑みが湧いてくるような修行ってどんなふうにするんだろうとマジで考えるようになりました。