――今回ちょっとお聞きしたいと思っていたのが仏教や禅における自然観というか、自然をどう捉えているのかということなんです。仏教ではよく「生かされている」とか「いのちがあなたを生きている」といったことが言われますが、自己と自然との関係はどのようなものだと考えられますか。
「しぜん」と読むか「じねん」と読むかで少しニュアンスが変わりますけど、いずれにせよ自然の働きを実感できていなかったら、修行や坐禅は自力でやるしかありません。いちばん身近な自然はこの体です。それも他人の体ではなく、この自分の体こそが自然そのものです。この体は僕がいちいち意識で操作したり制御しなくても、意識を超えたところで立派に生きているじゃないですか。
心臓はいつもとくとくと動き続けているし、寝ているときにどうやって息をしようかなんて僕らは一切考えてないけど、呼吸はちゃんと維持されて、食べたものは消化され、細胞は新陳代謝し、老廃物は適切に処理されている。それに関して、僕としては何も特別なことをやっているという意識はありません。自我意識としてはただ食べたり、寝たりしているだけなのに、エネルギーが補填され、朝になって目が覚めると元気が回復して、また新しい1日が始まるわけです。そうしていのちが継続していく。こんなことは誰もが当たり前だと思っているけど、このことに僕らはもっと驚き、感謝しないといけないんじゃないでしょうか。
この自然の働きに徹底的にまかせる営みが坐禅の特徴だと僕は思っています。こういう自然の働きというものが実感できなければ、坐禅は俺(吾我)がやるしかありません。俺が頑張って痛いけど脚を組み、俺が頑張って背筋をまっすぐにする。坐禅における理想の呼吸の仕方というものがあらかじめあって、俺が体に命令して、その理想の呼吸をさせる。心も「意馬心猿」とか言われるようにじっとしていないで動き回るから、この困った「モンキーマインド」を俺がうまく調教して、おとなしくさせる。完全に自我意識主導の努力になります。
これらの努力はぜんぶS+V+Oという文法構造になっています。俺(=S)が、体や呼吸や心(=O)を、正しい状態にもっていく(=V)という構造になっている。それが坐禅や修行であって、Vの腕前を上げていくのが修行の成果なんだと多くの人は思っているけど、僕はこの構造自体が坐禅にそぐわないと考えています。というのも、道元禅師はこういう枠組みで行うことを「習禅」と呼んでいて、「坐禅は習禅にはあらず」と言ってはっきり区別しているんです。
では、習禅的ではない坐禅独自の取り組み方としてどういう可能性があるのかというと、自然の働きにまかせ切ることです。そのとき自分は、文法用語を使って言うなら主格的(「私が」)ではなく与格的(「私に」)になっています。つまり、自分は自然が働く場所になっています。呼吸に関して言うなら、「私が呼吸する」ではなく「呼吸が私に起きている」と言うことになります。
ティク・ナット・ハン師の「瞑想の偈頌(げじゅ)」というものがあって、そのはじめに「ブッダはあなたのなかにいます。ブッダは呼吸の仕方も優雅に歩む方法もご存知です。あなたが忘れていても、ブッダよ来てくださいとお願いすればすぐに駆けつけてくださいます。待つ必要はありません」という一節があるんですけど、これこそがまさに坐禅の仕方だと僕は思っているんです。私の中にいるブッダは坐禅の仕方をすでにご存知なのです。このブッダにお出まし願って、私はブッダが坐禅をする場所、あるいは容器になる。このあと5つの偈頌が続いているのですが、「ブッダが呼吸している、私はそれを楽しむだけ」「呼吸しながら、安らいでいる、安らぎは呼吸」という表現があります。道元禅師も「坐禅は習禅にあらず。ただ大安楽の法門なり」と書いていて、坐禅には「安」と「楽」と言うクオリティがあるとしています。つまり「安楽の門」が開くには、「ブッダよ来てください」とお願いして、ブッダに坐ってもらう必要があるのです。
――吾我が坐禅をするじゃなくて、内なるブッダに委ねる。
そう、一言で言うなら、坐禅は自我意識主導ではなくて、ブッダ主導の営みです。その内なるブッダは大自然の働きのことだと僕は理解しています。禅では、大自然の働きが「仏」として敬意を込めて人格化されて呼ばれている。狭い意味でのブッダ(=目覚めた人)というのは、この大自然の働きに乗託して生きている人だというのが僕の考えです。
日本語には大文字・小文字の区別がありませんが、英語的に言うなら、大いなる自然の働きが大文字のブッダBuddhaで、これに精密にチューニングして、それと一体となって生きている人が小文字のブッダbuddha、つまり個人個人のブッダであるという風に考えてはどうでしょうか。
――なるほど、面白いですね。
清沢満之が「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。」と書いていますが、坐禅というのは、絶対無限の妙用、つまり大文字の仏の働きにおまかせしている姿勢なんですよ。だから坐禅のときは、小文字の仏が与格的な私を場所として顕現していることになります。道元禅師はそれを「坐仏」と呼んでいます。
――その仏の働きというのは、最初からこの体に備わっている。
はい、体はその働きによって「体している」んです。僕はその働きのことを般若(智慧)とも呼んでいます。これはもう般若、偉大な智慧と呼ぶしかないくらい精密に、精確に行われています。つまり、坐禅はまだ手にしていない般若の獲得を目指してやるものではなく、すでにして恵まれている般若を用いてやるものだったのです。これもやっぱりThere is no way to happiness. Happiness is the way.と同じような道理で、般若への道はない。般若が道、つまり坐禅という修行であるということです。般若の表現が坐禅なのです。
――般若が坐禅という形で表れている。
般若を丸出しに表現していると言った方がいいかもしれません。坐禅すると不思議なことに私の身心が般若の表現になっている、般若の現れる器になっているということです。般若が今ここで現に働いている。「いつかどこかで」ではなくて、まさに「今ここで」坐っている自分に直接働いている。そういう理解というか信心の上でなされるのが坐禅だと思うんです。だから、坐禅は自然そのものです。
――そう考えると習禅的な、S+V+O的な坐禅というのは仏教2.0的ですね。S自体は変わらずに、悟りや般若を目指してV=坐禅をする。
自分が主格である以上、自力的なんですよ、仏教2.0は。それに対して仏教3.0は自分が与格的になるので他力的と言えますね。
――そうなりますよね。
でも私のやることがないわけじゃない。私の分担というか役割というか、器となるには条件があります。それを表現しているのが『正法眼蔵』「生死」の巻の中にある「ただわが身をも心をもはなちわすれて仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」という一節です。
これは坐禅の文脈で書かれたものではありませんが、「ただわが身をも心をもはなちわすれて仏のいへになげいれて」というのは、普段の身構え、心構えを解除するということですから、一言で言えば「手放し」です。そうすると、仏の方から何かが行なわれてくる。これは大自然の自己調整的働きということだと思います。それに逆らわず迎え入れて「したがひもてゆく」、つまり随順ですね。そうであってこそ、余計な力を入れる必要もなく、できているのかいないのか、もっといいやり方はないのかと心を費やすこともなく仏になると道元禅師は言います。これが坐禅の肝(きも)というか、坐禅のHow(いかにして行うか)の部分です。僕たちは坐禅を通して、手放しと随順の稽古をしていると言えます。南無阿弥陀仏の南無(「帰命」の意)というのは、この手放しと随順のことを指すのだと思います。
――意図的・操作的な思念を手放して、自然に委ねることが修行だと。
僕らは放っておくと自己を運び出して、主格的にあれこれやってしまう傾向があるので、思わず自力的な努力になります。自然の働きが自分に働いていることを信用しきれていないから、俺が何から何までやらないとダメなんだと思い込んでいる。それがよくわかるのが呼吸です。
呼吸はさっきも言ったように、寝ているときや意識していないときでも自然の働きでちゃんと行われていますが、自分でコントロールすることもできますよね。だから、坐禅をしているときにはどうしても操作的な呼吸をしてしまいがちなんですよ、熱心な人であればあるほど。私の呼吸は短いからもっと長くしなきゃとか、浅いから深くしなきゃとか。でもそれは自分が勝手に深いとか、良いと思っている呼吸であって、それがそのときの身心にとって適正であるという保証はありません。自分が考えてやっている呼吸はあくまでも人工的、人為的で、自然な呼吸ではないのです。
修行は引き算
坐禅では自分勝手な、こうあるべきという理想やこうありたいといった欲求で、自然の働きの邪魔をしないという努力が必要になります。つまり、坐禅の努力の方向はless we doなんですよ。The less we do, the deeper we see. やることを少なくすればするほど、より深いものが見えるという意味ですが、このより深いものが見えてくるようにというのが坐禅の方向性であり、そのための前提条件がthe less we do です。このパートは私が引き受けなければなりません。それを、さっきは、手放しと随順とか、南無と言いました。
放っておくとわれわれはthe more we do、つまりもっともっとという頑張りをやりがちなんですよ。the less we doというのは努力そのものをやめるのではなく、努力の仕方の根本的な刷新なんです。それが仏道修行なんです。この刷新という反転が起こらなかったら、われわれは「修行」の名のもとに、単なるあがき、もがきをしているだけになります。もがきというのは英語で言うとstruggleですけど、下手をすると、そのストラグル感が高ければ高いほど、自分は修行に打ち込んでいると思い込んでしまいます。「俺はこんなに苦しい修行に耐えているんだぞ!」という自己陶酔的な状態になってしまったりする。こういうのはそもそも修行に取り組む態度が間違っていると思います。修行態度の入れ替えがあるかないかということがすごく大事です。
――たしかに自力でやるよりも委ねるとか手放す方が、勇気というか、ある種の覚悟がいりますよね。
修行というのは、エゴの余計な頑張りや緊張に気づいて、それをやめていくから、引き算的なんですよ。成果重視の「仕事」というよりも、むしろ過程そのものが大事な「遊び」に近いんです、修行って。真剣な本気の遊びです。必死に仕事をするのとは違います。基準になるのはtension(緊張) ではなくcomfort(心地よさ)。tensionは「俺がやってる感」を生み出しますから、エゴを満足させます。エゴってtensionでできていますからね。「俺は誰にもできない困難なことに取り組んでいるんだ、どうだ、偉いだろう」と手応えや承認を得ようとしているのなら、それは修行とは呼べない代物です。
――やってる感がほしいからやる。それこそway to happinessと同じ構図ですね。では、一照先生が坐禅をしているときっていうのはどういう感覚なんですか。
坐禅という行為が開いてくれる世界に浸り込んでいるというか、こうやって坐っていると自分の内外でいろんなことが絶え間なく起きて来ますが、それをポカーンと味わっています。ボーッとではないですよ。何か特別なことをしている感じじゃなくて、当たり前が当たり前しているだけ。そこにくつろいでいるという感じですかね。僕の場合は、そういうときなんだかすべての出来事が自分ごとだという気がして、道元禅師の言った「自受用三昧」とか、「万法すすみて自己を修証する」という表現はこういうことなのかなあと勝手に思ったりしています。
――一坐禅というと「無になる」みたいなイメージがあると思うんですけど、それとはまた違うんですか?
雑念を取り除こうとしたり、自分が想像している「何にもない無」になろうというのも余計なことなんですよ。それは坐禅中の経験を自分の都合のいいように改変することだからです。今ない何かを追求すれば必ず緊張が生じます。本当にくつろげるのは、今起きていることをそのまま受け入れているときだけです。禅で無というのは、何にも無いということではなくて、その反対の「全部ある、なんでもある」ということなんです。だから、変な言い方ですが、「無=全」。
――一じゃあたとえば坐っていて、今日の夕ご飯何かなとか、これが終わったら何しようかなみたいな考えが浮かんできてもいい?
浮かんでくること自体は別にそれでいいですよ。それは自然にポッと浮かんできたんだから。起きたことは起きたことで、それだけなんです。思いが浮かんだら、そこで、あっさり手放して、考え事にしていかない。曹洞宗では思いが浮かんでも「追うな、払うな」と言います。相手にするなということですね。「あ、考え事をしているな」と気がついたら、やめればいい。それに拘泥しないで、構わないで、また坐禅にもどればいいんです。思いというのは手放そうと思えば、手放せると体で知ることがなにより大事です。思いがまったく浮かばないにしようというのは無理ですよ。無理というか、それは典型的な「頑張り」じゃないですか。
――一自然の働きに逆らうことになる。
思いが浮かぶには何かそれなりの理由があって浮かんできたわけですからね。どこからかポッと浮かんできた思いはfirst thought(「初念」)と言って、first thoughtは自然現象なんですが、それをsecond thought, third thoughtとダーッとつないでいって考え事にしているのは僕の習慣的な行為なんです。だから、ポッと浮かんできたfirst thoughtに対し、second, thirdと鎖みたいにつないでいっていることに気づいたらそれをやめて思いを手放す。手放したら思いは落ちます。
禅では「二念を継がない」と言います。思いが落ちるのは僕の力じゃなくて、自然の働きです。何か考え事をしているときでも、誰かに後ろから肩をポンとたたかれたら、はっと我に帰りますが、そのときさっきまでの思いは自然に手放されていますよね。あれが思いの手放しの具体的な感触です。坐禅ではそれを自分でやるのです。
僕がよくするたとえ話なんですけど、坐禅を30分間するとして、坐禅になっていたのは最初の1分だけで、あとの29分間ずっと大好きな女性のことを妄想していたとします。まず喫茶店で待ち合わせをして、お茶を飲んで、いっしょに映画を見て、その後手をつないで歩き、次はいよいよいいムードになってきたのでキスを…というところでちょうどチーン(坐禅の終わりを知らせる鐘が)が鳴ると、その瞬間にふっと我に帰らされて、その妄想がかき消える。29分もかけて作りあげた僕の妄想物語なんですが、それを手放すのには29分もかからない。ほんの一瞬で消えてしまうんですよ。夢も同じですね。
こういうことができるのは、それを相手にして、頑張って消そうとしないからです。消そうと頑張ったから消えたのではなく、生理的に注意がふっと別なところに移った結果なんです。つまり肩をポンと叩かれることや、鐘がチーンと鳴ることがやってくれることを、他人にしてもらうのではなく、自分でやればいいんです。そういうことをやりやすいのがあの坐禅の姿勢なんです。
どっしりと坐り、柔らかく背筋が伸びて、穏やかに呼吸している状態というのは自ずとのぼせが下がって、思いを手放しやすいからです。「考える人」みたいな背中の丸まったポーズで息を詰めていたのでは、思いの手放しはなかなか難しいでしょう。そういうところから坐禅というものが発見されたんだと思いますし、ブッダが悟りを開いたのがこの姿勢で坐っているときだったというのもおおいにうなづけます。