バカンス好きの天皇

――明治天皇や昭和天皇に比べると、大正天皇の印象は薄い感が否めません。在位期間が15年と短かったのもあると思いますが、どのような天皇だったんですか。

 明治天皇と違っていたということは確かです。さっきも言いましたけど、明治天皇は表向きは非常にまじめで、ほとんど休みませんでした。一度だけ、明治初期にいまは無き箱根宮ノ下の奈良屋という旅館に皇后と一緒に行っていますけど、私的な休暇はそれ以外とっていない。

 それに対して大正天皇は、もちろん体が弱かったということもありますが、皇太子のときから毎年のように避暑や避寒に行っていました。皇室の別荘である「御用邸」が明治中期以降、日光、葉山、沼津、塩原などにできるのでそれらを利用するんですけど、天皇になってからもその習慣を続けるんですよ、皇后と一緒に。つまり、夏と冬に1、2か月くらい、天皇が東京にいない状態が当たり前になるんです。

 ――その間の宮中祭祀はどうするんですか?

  東京にいったん戻る場合もありましたが、代拝で済ませることもありました。大正天皇はその他にも、行幸の際の道順を自分で決めようとしたり、京都で行われた1915(大正4)年の即位大礼の日程を短くしたうえで大礼自体も簡素にしろと言い出したりと、とにかく先例や決められたことに従おうとしない。山県有朋が明治天皇の時と同じように押さえつけようとするんだけど、ことごとくそれに抵抗するわけです。大正天皇は明治とは違う「大正流」をつくろうとしていたんじゃないかという気がします。

 これは明治天皇もですが、戦争もあまり好きではなかったようです。1914(大正3)年の7月には第一次世界大戦が勃発し、政府は参戦するか否かの判断を迫られました。その時天皇は日光田母沢御用邸に行っていたんですけど、そんな場合じゃないといって東京に連れ戻され、御前会議に出席させられる。そこで嫌々ながら参戦を認めるんですけど、その年の11月に、ドイツ軍が拠点としていた青島(ちんたお)を日本軍が攻略すると、もういいじゃないかという感じで完全にやる気を失っていたようです。代わりに皇后が戦地から帰ってきた軍人と積極的に会っています。

 ――天皇としては、せっかくの休暇を台無しにしやがって、という感じだったんですかね。

  1918(大正7)年8月に起きた米騒動の時もやっぱり日光に行っていて、東京に連れ戻されています。そんな感じでバカンスをエンジョイできなくなったせいもあってか体調がだんだんおかしくなり、1921(大正10)年11月25日、皇太子(後の昭和天皇)が摂政になったことで強引に引退させられてしまいました。

 これによって「大正流」は挫折するわけですが、昭和というのは明治の揺り戻しなんです。大正と同じ轍を踏んではいけない。明治天皇を理想とし、大正天皇を反面教師として、昭和天皇を厳しく育てるというのが政府の意向であり、昭和天皇もそれに応えていく。倫理担当の侍講、杉浦重剛(1855―1924)らが中心となって儒教的な教育をしていくわけですが、そこも明治天皇と同じなんですよ。大正天皇の場合はそれがうまくいかなくて、儒教より漢詩の方に興味がいってしまったようです。

 「君民一体」の光景

――天皇と国民の関係性という面で言うと、大正末期から昭和初期にかけて両者の理念的な一体化、いわゆる「君民一体」を理想とする潮流が生まれてきます。皇居前広場に集まった民衆が天皇に向かって日の丸を振る戦前の映像には狂信的なものを感じますが、こうした国民感情が醸成された理由としてどのようなことが考えられますか。 

 ポイントになったのは1921年(大正10年)に実施された皇太子裕仁のヨーロッパ訪問です。これは東宮御学問所(皇太子が学問を修めるための御所)の卒業旅行として実施されたものですが、このときに政府は国民に対する皇室の見せ方を大きく転換したんです。それまでは、明治初期の六大巡幸の時期を除いて天皇の実像を国民になるべく見せないようにしていました。明治天皇の御真影が写真ではなく絵画だというのもそのひとつですが、いわゆるイメージ戦略ですね。巷には活動写真も出始めていましたが、皇室を映すことは禁じられていました。ましてや、大正天皇は徐々に姿勢を保てなくなっていたり、挙動がおかしくなったりしていたので、そんな姿はなおさら隠したいわけです。

 ところが、皇太子のヨーロッパ訪問のときにこの方針を一転し、むしろ積極的に見せるようになる。20歳の皇太子とジョージ5世が同じ馬車に乗ってロンドン市内をパレードする様子を撮影し、そのフィルムを空輸して大規模な映写会を日比谷公園で開いています。要するに、病を抱えた大正天皇を隠蔽し、若くて健康な皇太子を前面に押し出すことで、皇室のイメージを刷新しようとしたわけです。

 皇太子は半年かけて5か国を歴訪し9月に帰ってくるんですが、その時に東京市長だった後藤新平の発案で、市民奉祝会が開かれました。会場の日比谷公園には2万5000人もの民衆が集まり、そこで皇室と国民が一つになる光景、まさに「君民一体」の国体なるものが初めて視覚化された。これに触発される形で、天皇のまわりにいる政治家や財閥を天皇との一体化を邪魔する「夾雑物」とみなし、断固として排除すべきという思想が下から起こってくる。「超国家主義」と呼ばれる思想です。

 ――それが五・一五事件や二・二六事件といったテロやクーデターにつながっていくわけですね。

  昭和初期になると天皇が出る親閲式や記念式典などは皇居前広場で行われるようになりますが、そこに集まって天皇陛下を胴上げするというのが、青年将校たちの理想になっていくわけです。

 ――皇室と直接会する場の重要性はもちろんですけど、皇太子の活動写真をきっかけに「君民一体」の機運が醸成されていったとなると、メディアが果たした役割もやはり大きいですよね。

  そうですね。その時に限らず、皇室は常に細心の注意を払いながらメディアを利用してきました。

 ラジオ放送がはじまったのは大正末期ですが、1928(昭和3)年12月に代々木練兵場で行われた大礼観兵式はラジオで全国中継されています。そこでは勅語を朗読する天皇の肉声、すなわち玉音がラジオを通して全国に伝わったのですが、実はこれが問題になりました。というのもラジオというのは、当然ですけど、どんな格好で聞いているかわからないじゃないですか。もしかすると天皇の声に尻を向けてるかもしれない。それで宮内省は「居ながらに[玉音を]拝するはあまりに恐れ多い」として、それ以降、天皇が話すときは無音にするという方針がとられました。

 たとえば1940年11月に皇居前広場で行われた紀元2600年の式典のラジオ中継では、天皇が勅語を読み上げている部分はずっと無音になっています。無音にすることで逆に天皇の神性を高めようという狙いもあったわけですが、それが初めて大々的に破られたのが敗戦時の玉音放送だったんです。

 ――玉音放送の内容はもとより、天皇の肉声がラジオで流れるということ自体が衝撃的だったんですね。

  戦後になると今度はテレビです。当時の皇太子(現上皇)が結婚したのは1959年ですが、その成婚パレードがテレビ中継されるというので、白黒テレビがものすごく売れました。今の天皇と皇后が即位早々、コロナ禍のときに宮内庁が言うところの「オンライン行幸啓」を実施したのは、まだ記憶に新しいところです。明治以降の皇室は、その時代その時代のメディアを活用して危機を乗り越えたり、天皇制の大衆化を図ったりしてきたということが言えると思います。