「神罰」としての敗戦
――昭和天皇は幼い頃から明治天皇を理想として――自由奔放な大正天皇を「反面教師」として――教育されたというお話がありましたが、戦前・戦中はもちろん、戦後も宮中祭祀にはかなり熱心に取り組んでいたそうですね。
それには母である皇太后(貞明皇后)の影響が大きいと思います。大正天皇の病気は「脳病」とされましたが、本当の原因は医者にもよくわからなかったんです。そのことに皇太后は非常に動揺し、自分たちが祭祀を疎かにしたから「神罰」が当たったんだと考えるようになった。さっきも言った通り、大正天皇と皇后は祭祀よりも御用邸でのバカンスを優先することが多かったので、それに対する悔悟の念というか、後ろめたさのようなものがあったのでしょう。
それで皇太后は祭祀への態度を改めると同時に、自分たちと同じ過ちを繰り返させないために、息子である昭和天皇には祭祀をしっかりやるよう言い聞かせた。それは母と子の確執の原因にもなるのですが、その結果昭和天皇は熱心に取り組むようになったと考えられます。
――第二次大戦中には危険を冒してまで伊勢神宮に参拝したんですよね。
米英との開戦1年後の1942年のことです。本土への空襲がすでに一回だけありましたが、鉄道を利用して極秘裏に伊勢神宮に赴き、アマテラスに戦勝を祈願しています。ただ、昭和天皇は戦後、このときのことを非常に後悔しているんです。
天皇に言わせれば、アマテラスは本来、平和の神なんですね。にもかかわらず、戦争の勝利を祈ってしまった。その結果、敗戦という「神罰」が当たったんだと――ここで「神罰」という言葉が出てくることにも皇太后の影響を見ることができます――。このことから、昭和天皇が敗戦という事態に対してアマテラスを含む皇祖皇宗への責任を感じていたことは確かですが、国民に対しても同じように思っていたかどうかはかなり疑問です。
――そうなんですか?
敗戦から7年後、1952年の4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して日本は独立を回復するわけですが、その直後、5月3日の憲法記念日に皇居前広場で開かれた「平和条約発効並びに日本国憲法施行五周年記念式典」で、天皇は「おことば」を読み上げています。独立回復を記念して公的に言葉を発したわけですが、その「おことば」の文案というのが公開されているんですよ。
この文案は宮内庁長官の田島道治(1885-1968)が書いたものですが、その中に当初、「祖宗と萬姓に愧ぢる」という言い回しがありました。「祖宗」というのは天皇の祖先つまり皇祖皇宗、「萬姓」は国民のことです。つまり、田島は先の戦争について、国民に対しても反省の意を表すべきだと考えた。しかし昭和天皇は、「祖宗」はいいけど「萬姓」は考え直してくれと言ったのです。最終的には「愧ぢる」という表現が良くないということでこの部分は丸ごと削られてしまったのですが、こうしたことからも天皇の中に、国民に対する謝罪の気持ちというのはなかったように思います。
保たれた国体
――天皇ひとりが起こした戦争ではないにせよ、多大な犠牲を強いられた国民より自分の「祖先」を優先するというのは、個人的には理解しがたいですね。昭和天皇は戦後、革命が起こることを恐れていたそうですが、国民から恨まれているかもしれないという不安があったんでしょうか。
天皇が恐れていたというのは共産主義革命です。大戦中、アメリカとソ連は同じ連合国でしたが、戦後は対立して冷戦になりますよね。その結果、世界が資本主義と共産主義に二分されるわけですが、東アジアでは中国が共産党政権になる。朝鮮半島は南北で分断されて北が共産主義国家になり、朝鮮戦争の際には南下してくるわけですが、それに呼応するかのように日本国内でも共産党が国会での議席を伸ばし、一時は四番目に議席数の多い政党になる。こういった変化を目の当たりにした天皇は吉田茂(1878-1967)や田島道治らに、共産主義者をもっと厳しく取り締まるように言っています。
――昭和天皇がそこまで「反共」だったとは知りませんでした。一方で、マッカーサーには意外にも感謝の気持ちを持っていたようですね。
それは天皇制を残してくれたということに対してでしょうね。天皇制の存続は憲法の条文として明記されたし、宮中祭祀も温存され、結果的には自分も退位せずにすんだわけですから。ただ、共産党に対する認識が甘いという不満ももっていたようです。
昭和天皇にとって憲法の条文は正直どうでもよかったと思います。というのも、天皇は敗戦の翌年から巡幸を再開しますが、訪れた各地で熱狂的な歓迎を受けているんです。終戦の詔書、つまり玉音放送で天皇は「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ……」と言っていますが、本当にその通りだったんですよ。君民一体の国体は今もちゃんと護持されているという確信をもったと思います。天皇制自体が維持され、巡幸ができるのであれば、憲法の条文がどうであろうと別に関係ないんです。
それとは対照的に、天皇の弟の高松宮は憲法改正草案に対し、枢密院本会議で抗議の欠席をしています。こんなものは日本の国体に合わないと。
――それは国民主権がダメだということですか?
主権在民を強く認めすぎだと。これを許したら大変なことになると言うんですが、そこは天皇の方が「政治家」なんですよ。憲法がどう変わったところで、自分が全国を回ればいつでも、「君民一体」の国体を再現させることができる。国体はちゃんと維持されているから問題ないんだと。だから昭和天皇は、天皇制を残してくれたという事実に対しては感謝していたと思いますが、天皇の地位や役割が条文でどう定められているかについてはほとんど気にしていなかったと思います。象徴という規定についても同様でした。
日本の何が特殊なのか
――戦争でひどい目に遭わされたにもかかわらず、天皇を恨むどころか、変わらず崇敬し続けるところが日本の特殊性というか国民性(?)のような気がします。海外に目を向けると、たとえばイギリスもいまだに王室が存続しているわけですが、日本の皇室との違いとしてはどのようなことが言えますか。
大きな違いは王朝が変わってきたということです。イギリスは最初のノルマン朝から現在のウィンザー朝になるまでに何度も王朝が交代しています。その間にはオランダの王室との交配もあるし、17世紀には革命によって一度共和制にもなっています。
――つまり「万世一系」ではない。
そういうことです。他にも、男系ではなく女系だったり、未だに終身在位のままだったりと、違うところは結構ありますが、いちばんはそこでしょうね。言うまでもないことですが、万世一系というのはイデオロギー性が非常に強いんですよ。そもそも具体的にどの代から天皇が実在したかもよくわかっていない。それなのに、日本という国では、天皇が民を慈しみ、民は天皇を崇敬するという関係が2700年近くも続いてきた。革命は一度も起きていない。そんな麗しい国は他にないんだというわけです。
――そういえば以前、参院選の選挙特番で三原じゅん子氏が神武天皇は実在の人物だと認めて話題になったことがありましたね。ちなみに天皇の実在性は、史実としてはどのあたりまで遡れるんですか?
いろいろな説があってはっきりとはしていませんが、26代の継体天皇(450?-531)以降はほぼ実在しただろうと言われています。ただ、歴代の天皇が確定したのは、実は大正の末期なんですよ。それまでは、江戸時代に大日本史が編纂されるまでは天皇とされてきた神功(じんぐう)皇后を天皇と認めるべきか否かや、在位したかどうかはっきりしない南朝の長慶天皇を天皇と認めるべきか否かという議論もあったりして、ちゃんと決まってなかった。1926年にそれが決着し――長慶を認める代わりに神功は外され――、大正天皇で123代目だということになったんです。
――それだけ長い間続いてきたというのはやはり驚くべきことですよね。鎌倉時代以降は主に武士が権力を握ってきたにもかかわらず誰一人として皇室を廃止しなかったのは、考えてみると不思議です。信長あたりやりそうなものですが、彼らはなぜ天皇家を存続させたのでしょうか。
それは最大の謎と言ってもいいかもしれませんが、一つの理由として、天皇家が保持してきた文化があるように思います。具体的には和歌や一部の祭祀などですが、そうした文化は戦に勝って成り上がってきただけの武家政権にはないものなので、利用価値を認めると同時にある種の敬意を持っていたのではないでしょうか。
――明治天皇が生涯で9万首の和歌を詠んだというお話がありましたが、そのお家芸が天皇家を近代まで存続させてきたと。
明治天皇はそうした伝統的な天皇家の教育を受けて育ちながらも、即位後は近代天皇に求められる大元帥としての役割を自覚し、割り切って演じていた面がありますが、大正天皇にはそれがなかった。「公」より「私」を優先させることも多々あったし、戦争へのやる気のなさを漢詩に読んだりしています。大正天皇の漢詩は率直でかなり面白いのですが、政府や軍部の人間にしてみると天皇がそれでは困るわけです。
――それで無理やり引退させ、明治天皇の再来としての昭和天皇像を作り上げていった。
大正天皇の「失敗」があった分、過度に神格化していった部分はあるでしょうね。もしも大正天皇が体調を崩さず、あのまま「大正流」を確立していたら、日本という国の空気というか国民性はずいぶん違ったものになっていたと思いますよ。忖度せずに思ったことを口にしたり、夏と冬には1か月くらい仕事を休んでバカンスに行くのが当たり前になっていたかもしれません。なんせ、天皇が先頭を切ってそうしているんですから。敗戦直後に坂口安吾が「天皇陛下にささぐる言葉」で描いたような、天皇が銀座あたりを普通に歩いていて、それを見た人が天皇に道を譲ったり、気軽に話しかけたりする光景が現れたかもしれません。
――それは面白いですね! 大正デモクラシーのような運動が起きたのも、大正天皇のそういった気風が影響していたのかもしれませんね。
大いに関係あると思いますよ。でも大正デモクラシーが結局中途半端に終わってしまったのは、繰り返しになりますが、皇太子のヨーロッパ訪問を契機とする転換があったからです。私がつくづく思うのは、あの時点で大正天皇を見限ったことでもたらされた、その後の歴史の負の側面です。
明治という時代は、グズグズしていたら西欧列強の植民地にされてしまいかねないので、無理やり天皇を軍事的リーダーに改造したこと自体は理解できる。でも、大正以降の戦争が歴史の必然だったとは思えないし、石橋湛山のような、経済的な観点からも植民地をもたないほうが得策と考えたジャーナリストもいた。もし大正天皇が「大正流」を貫いていたら、その後の日本は、もう少し違う歴史をたどっていたのではないかと思います。
(取材日:2024年9月4日)