文明開化の象徴として

――明治維新を境に、それまでのいわゆる公家的な天皇像ではなく、男性化・軍人化された近代の天皇像がつくられていったというお話でしたが、そうした天皇の存在はどのようにして国民に広まっていったんですか。

 大きな役割を果たしたのは「行幸」や「巡幸」です。天皇が皇居を出てどこかに赴くことを「行幸」、その目的地が2箇所以上の場合は「巡幸」とも言うわけですが、明治天皇は1872年から85年にかけて「六大巡幸」といわれる大規模な巡幸を行っていて、北海道から九州まで全国各地を回りました。

 ――それは軍事のリーダーとして各地の軍事施設を見て回るわけですか?

 軍事施設もですけど、県庁や裁判所、学校、工場、鉄道の駅などにも行っています。これらのほとんどは明治になってからつくられたものですが、そういう場所を天皇が視察することで、民衆に、天皇による文明開化を印象付けようとしたわけです。身分の差がなくなり、生活が便利になったのは天皇陛下のおかげだと思わせることで国を統治しようとしたわけですが、これはいわゆるイデオロギーではありません。

 イデオロギーというのは要するに物語で、たとえば儒教だと、森羅万象を司る「天」があり、その天から命を受けてこの世界を統治するのが天子であるという話なんですけど、このときの日本の場合はもっと即物的なんですよ。支配者としての正統性云々ではなく、鉄道が開通することで誰もがそれに乗って早く移動できるようになったり、電信やガス灯や電気なんかもそうですけど、東京から地方に西洋文明が波及し、誰もがその恩恵に浴することで、生活がどんどん便利になっていく。それは新たな支配者となった天皇のおかげで、だから天皇は偉いんだという理屈です。

 ただ、政府の狙いがそうだとしても、誰もがその通りに受け取っていたわけではなかったようです。というのも、当時の人びとにとって天皇は「生き神」や「生き仏」のようなものなんですよ。東西本願寺の法主(ほっす)や出雲大社の国造(こくそう)とあまり見分けがついていない。なので、行幸の際に天皇が浸かった風呂の水や、天皇が乗った馬車が踏んだ砂利を、民衆が持ち帰るという現象が起こっています。

――私は鳥取の出身なんですけど、鳥取にも明治の終わりに皇太子(後の大正天皇)がやって来たという話を小さい頃に聞いた覚えがあります。 

 1907(明治40)年の「山陰行啓」ですね――皇太子の場合は「行幸」ではなく「行啓」といいます――。この行啓に合わせて山陰線が開通し、皇太子の宿舎として建てられた「仁風閣(じんぷうかく)」には鳥取で初めて電灯と電話が設置されたそうです。皇太子の来訪にタイミングを合わせるようにして、西洋文明が一気にもたらされたことになります。

――「仁風閣」の由来を聞いた時は、皇太子が数日泊まるだけのためにわざわざ邸まで建てたのかと思いましたが、もしも自分がその時代を生きていたら、感激して、皇室を崇めていたかもしれません。それこそ政府の思惑通りに。 

 街に電灯がともされた時の人びとの感激というのはすごかったみたいですよ。それは今日のわれわれの想像を絶するものであり、天皇や皇室への崇敬の土台にあるのは、そういった「文明」を地方にもたらしてくれる有難さなんです。そしてそれは抽象的なイデオロギーよりも、圧倒的にわかりやすいんですよ。

 祝日と神社

――その有難さを身近に感じられる、政府からすると感じさせるのが巡幸や巡啓だったわけですね。一方で、子どもたちにとっては教育勅語の暗唱をはじめとした学校教育の影響も大きかったのではと思うのですが、そのあたりはいかがですか。

  教育勅語ができたのは1890年ですけど、あれはいきなり暗唱させられていたわけではなく、最初は紀元節や天長節などの祝祭日に校長が読み上げるものだったようです。そもそも、「朕惟(おも)うに 我が皇祖皇宗(こうそこうそう) 国(くに)を肇(はじ)むること……」とか言われても、小学生には難しくてわからないですよね。なので、教育勅語が国民の天皇崇敬に影響してくるのはもう少し後になってからだと思います。

 ――さっき話の出た明治天皇の御真影というのはどういう所に下賜されていたんですか。

 最初は東大をはじめとする帝国大学ですね。そこから高等学校、中学校、高等女学校、小学校とだんだん降りていったので、多くの人が目にするまでにはかなりの時間がかかっています。

 ――じゃあ、明治時代の国民は必ずしも、天皇の存在を具体的にイメージできていたわけではなかったんですね。巡幸で全国をまわるといっても限界があると思うのですが、国民の大多数が天皇を意識するようになったのはどうしてですか。 

 大きな成果を上げたのは、祝祭日を新しく定めたことです。江戸時代は中国と同じ旧暦で、五節句(人日〈じんじつ〉、上巳〈じょうし〉、端午〈たんご〉、七夕〈しちせき〉、重陽〈ちょうよう〉)などが幕府によって祝日に定められていました。しかし1873(明治6)年の元日に太陽暦が導入されると、それがもっぱら天皇絡み、皇室絡みの祝祭日に変えられていきます。

 現在の天皇誕生日にあたる「天長節」や、記紀で初代天皇とされる神武天皇が即位した日である「紀元節」、その年の初穂をアマテラス(天照大御神)に捧げる「神嘗(かんなめ)祭」などですが、これらはぜんぶ宮中祭祀が行われる日なんですよ。学校や仕事がなぜ休みなのかといえば、天皇陛下が宮中で大切なお祭りをやっているからということになると、天皇の存在感はいやでも増しますよね。

 それともう一つは神社の体系化・階層化です。天皇の祖先であるアマテラスを祀る社格のない伊勢神宮を頂点として、その下に熱田神宮や出雲大社、宇佐神宮などの官幣(かんぺい)大社を配置するという具合に、全国のすべての神社をランク分けしてヒエラルヒーを形成し、国民に参拝を奨励した。歴代の天皇はアマテラスの子孫ということになっているので、これも天皇を崇敬する感情の醸成に寄与したということが言えると思います。また明治以降には、神武天皇をまつる橿原神宮、天智天皇をまつる近江神宮、桓武天皇をまつる平安神宮、後醍醐天皇をまつる吉野神宮、明治天皇をまつる明治神宮など、天皇をまつる神社を新たに創建し、これらもまた官幣大社にランク付けしました。

――天皇のおかげで学校や仕事が休みになるというのはたしかに大きいですね。しかもそれが天皇誕生日だけじゃなくて何日もあるとなると、「天皇陛下万歳!」となる気持ちもわかります。 

 宮中祭祀の日は新聞でも報道され、昭和初期になると一面トップを飾っていましたからね。影響力は絶大だったと思いますよ。