江戸時代の天皇

――天皇制や日本の近代化を考えていく上で、やはり明治維新は大きなポイントのひとつだと思いますが、維新前、つまり江戸時代の天皇というのはどういう存在だったんですか。

 江戸時代は長いので状況は多少変化しますが、基本的には京都の御所に幽閉され、公儀(幕府)の管理下に置かれていました。「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」という法で規制されていたわけですが、三代目の家光までは勅使による将軍宣下を京都の伏見城で受けるために上洛していました。しかしそれが四代目の家綱以降なくなり、逆に勅使が江戸に下向するようになります。これが何を意味するかというと、天皇に対する将軍の権力が絶対化したということです。

 江戸時代の天皇の主な仕事は御所で祭祀を行うことですが、今も行われる新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)といった祭祀は戦国時代に中断していたのを、江戸時代に復活させています。面白いのは、新しい天皇が即位する儀式の際に一般の民衆も御所に入れたことを示す資料があり、その絵を見るとみんな気軽な格好で、赤ちゃんに授乳している女の人までいるんですよ。儀式が一種の遊山になっているというか、非常にざっくばらんな感じで、明治以降の皇室が醸し出す厳かな雰囲気はまったく感じられません。

 ――「禁中」という割にはオープンだったんですね。

 しかし18世紀の後半になると天皇の権威が徐々に上がってきます。その始まりは光格天皇(1771-1840)で、京都御所の中心施設である「紫宸殿(ししんでん)」を現在と同じ規模にした人物です。紫宸殿は1854年の火災で焼けているので現在の建物はその翌年に忠実に再建したものですが、あれだけの大きさのものを建てるというのは、天皇の権威を誇示したいという意思があったからでしょう。天皇号が復活したのもこの光格天皇からで、それまではほぼ○○天皇ではなく○○院と呼ばれていました。これもまた、天皇の権威の上昇に寄与したといわれています。

 ――なぜそれほど権威にこだわったんですか?

  光格天皇は新井白石がつくった閑院宮(かんいんのみや)の系統ですが、その前の後桃園天皇とは7親等の隔たりがありました。要は傍流というか、天皇になる確率が低かったにもかかわらずその地位に就いたことでより一層、天皇であることを意識するようになったのではないかと思います。光格の後には仁孝(にんこう)、孝明、明治、大正、昭和……と続いていきますが、これらはすべて先代の実子です。つまり、光格天皇は今の天皇家の直系の祖先なわけです。

 光格天皇の二代後の孝明天皇のときに黒船が来航し(1853年)、安政の大獄(1858-59年)等をきっかけとして尊王攘夷運動が高まっていくわけですが、そうなると天皇の権威はますます高まり、逆に幕府の力は衰えていきました。それを示すのが14代将軍家茂の上洛です。将軍の上洛が200年ぶりに復活するんです。家茂は孝明天皇と共に賀茂上下社(上賀茂神社と下鴨神社)に攘夷の祈願に行くのですが、その際に天皇の行列の後ろに将軍の行列が付き従ったことで、両者の上下関係が視覚的にもはっきりと明示されました。

――その頃には既に力関係は逆転していたんですね。明治維新は起こるべくして起こったと。

 ただ、孝明天皇自身は――異母妹の和宮を家茂に嫁がせていることからわかる通り――公武合体論者なので、倒幕は考えていなかったと思います。ところが35歳で急死してしまう。すると、薩長や公家はまだ14歳の明治天皇を「玉」と呼び合い、錦の御旗に掲げて明治維新を果たしていくわけです。

 軍人になった天皇

――維新後、天皇の立ち位置や役割はどう変わったんですか。 

 まず挙げられるのは京都から東京に移ったことですが、ここで重要なのは天皇の見た目が大きく変化したということです。江戸時代までの天皇の外見は中性的で、お歯黒を塗っていました。ずっと御所にいて運動する機会がないので、筋肉がつくこともありません。ところが東京に移った明治天皇は、お歯黒をやめて髭を生やす、軍服を着る、馬に乗るといったように、突如として「男性化」していきます。軍事のリーダーとしての天皇のイメージを構築していく必要があったわけです。

 ――御所で祭祀を行うのと軍事のリーダーとではとんでもない違いですね。

 京都御所から旧江戸城の西の丸に居を移した天皇は、「主」のいなくなった城に入ってきただけで、そもそもなぜ江戸城だったのかというのが実はよくわからないんです。実際に大久保利通などは、大坂(大阪)への遷都を考えていました。実在が確かな歴代天皇のうち、最も東まで行ったのは三河まで行った持統天皇で、それよりも東に行った天皇はいなかったのです。

 京都御所は街中の通りに面した所にあるので、入ろうと思えば割と簡単に入ることができます。それに対して江戸城は、戦を想定して作られているので当然ですが、二重の濠に囲まれており、大手門から本丸御殿までの道のりも高低差があるうえ曲がりくねっていて侵入が非常に難しい。本丸と二の丸は焼失していたので明治天皇は西の丸に入ったのですが、このような武家政権の原理に則って作られた城を住居にしたということは、ある意味、軍事の最高権力者であった将軍の地位をそのまま引き継いだと見ることもできる。

 もちろん、江戸時代の将軍が敵として想定していたのが国内の大名だったのに対し、明治の日清戦争以降は諸外国との戦争になるので意味合いはすこし異なるんですけど、軍事のトップという面では重なる部分があります。本来であれば革命に匹敵する政権の交代が起こったということで、将軍ではなく天皇による支配の正統性をもっと確立させるべきだったのですが、新政府がそれをあまり熱心にやらなかった結果、将軍のイメージをなんとなく引きずる形になっていったように思います。

 ――明治天皇というと軍服を着た「御真影」が有名ですが、あのマッチョなイメージの裏にはそんな経緯があったんですね。

  「御真影」はキヨッソーネというイタリアの宮廷画家が描いたものです。精巧に描かれているので実写と間違えるんですけど、まさに天皇の男性性を強調するように描かれた絵画なんです。

明治天皇の「御真影」

 なので、明治天皇という人は非常に矛盾したものを抱えているわけですね。15歳までは京都にいて、父の孝明天皇から直々に和歌の手ほどきを受けていました。和歌というのは天皇家に代々受け継がれてきた芸、文字通りお家芸なわけですけど、そういった宮廷の文化、京都の文化を吸収して育ってきた。

 それが突然、自分の意志とは無関係に東京に連れてこられ、漢学担当の侍講となった元田永孚(1818-1891)という儒学者から、『論語』や『書経』を教科書として、仁義礼智信といった徳目を重視する儒教的な教育を受けさせられる。その一方で見かけは西洋風の軍人にされていくわけで、もうごちゃごちゃなんですよ。それでも明治天皇は自分に課された役割を自覚していて、非常にまじめにそれを演じていくわけです。

 ただ、特に戦争の時なんかはそれが嫌になることもあったようです。明治天皇は生涯で9万首以上の和歌を詠んでいますが、そのうちの7千5百首あまりが1904年、つまり日露戦争が勃発した年に詠まれたものなんですよ。一日平均で20首以上詠んでいたことになります。これはある種の憂さ晴らしというか逃げだと思いますけど、明治天皇の根底をなしているものはやはり宮廷文化であり、京都への郷愁はずっとあったと思います。せめて死んだ後は京都に帰りたいという言葉を遺しており、それに従ってつくられたのが京都の伏見桃山陵なんです。代わりに東京では明治神宮が造営されることになります。

 ――「大帝」といわれた明治天皇にそんなセンシティブな一面があったというのは意外でした。

  明治維新を果たした連中の多く、例えば西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、岩倉具視といった人々は、明治中期までに亡くなりますが、長州出身の伊藤博文や山県有朋らはまだ生きていました。彼らには明治天皇を育てたのは自分たちだという意識があるので結構ずけずけと物を言い、天皇が渋々それに従うということもあったようです。たとえば1902年に熊本で陸軍特別大演習が行われたときには、大演習終了後に開かれた宴会への出席を渋る天皇に対して山県が説教し、天皇が出席するということもありました。