よく分からない天狗
前回は、西北インドやシルクロードでは翼のある天人が描かれていたのに、中国では天人の翼が消えており、毛だらけで翼を持つ異域の怪物などの伝説の影響なのか、翼をつけているのは下級鬼神などだけになるとし、日本でも翼を有しているのは怪鳥のような天狗くらいだと書きました。そこで、今回は、天狗を取り上げましょう。
天狗は不思議な存在であって、鋭いクチバシを持ったトビのような姿で描かれる烏天狗と、赤ら顔で鼻が長く、白いあご髭を生やした鼻高天狗がいます。「あいつは天狗になっている」と言われるのは、自慢して鼻を高くしているということであって、鼻高天狗のイメージに基づくものですね。ところが、この鼻高天狗にしても烏天狗にしても、由来は良く分からないのです。
というか、そもそも天狗は最初から正体不明の存在でした。日本で最初にこの語が見えるのは、『日本書紀』の舒明天皇9年(637)春二月の条です。大きな星が東から西へと流れ、雷のような音がしたため、世間の人は「流星の音だ」と言い、あるいは「雷の音だ」と言ったものの、唐に留学して幅広い学識を有していた僧旻[そうみん]は、「流星ではない。これは天狗だ。その吠える声が雷に似ているだけだ」と説いたと記されます。
これだと、天にいて吠える動物が天狗ということになります。しかし、地獄の描写が詳しいことで有名な『正法念処経[しょうぼうねんじょきょう]』では、空から大きな光を放って落ちてくるものを天狗と呼んでいますので、むしろ「流星だ」という世間の人の意見が正しいことになります。
中国では、流星だという説と雷だという説があったうえ、唐代の仏教百科事典である『法苑珠林[ほうおんじゅりん]』では、別の説をあげています。中国古代の伝説的な人物であった師曠[しこう]はこの現象を占い、「春分に雷の音がするのは、雷のようだが雷ではない。音は地中でしているのあって、地下で兵乱が起きているのだ。雲が無いのに雷音がするのを天狗と名づける」と述べたというのです。要するに、諸説様々であって良く分からなかったのですね。
鎌倉時代の天狗
日本では天狗は、平安時代以降になると、山の中で起きる怪異現象、あるいは、人を惑わす存在と考えられるようになった由。さらに鎌倉時代になると、羽が生えた怪しい姿の生き物とされるようになったようです。『平家物語』の長門本では、「天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬にもあらず、足手は人、かしらは犬、左右に羽生えて飛びあるくものなり」と記しています。
これに近いのは、インドの伝説上の生き物であるガルーダですね。漢訳経典では「迦楼羅[かるら]」と音写されるガルーダは、アジア諸国の様々なガルーダ像が示すように、鷲が両翼を大きく広げたような姿だったり、その形で顔と体だけがやや人間風になっていたりします。
日本の迦楼羅像の中には、顔が鳥で体は人間、背中に小さな羽が生えている姿をしているものもありますね。こうしたものが天狗のイメージの素材になったのでしょう。
問題は、そうした天狗は、うぬぼれた人間が生まれ代わってなるとされたことです。博学な僧であった無住(1227-1312)の『沙石集』では、天狗というものは経典には確かな説明は見えず、日本で言われているものであり、何かに執着し、俺が俺がという態度をとる「憍慢」な者が来世で生まれ落ちる境界だ、と説いています。
鎌倉時代に、そうした「憍慢」な者とされたのは、伝統ある大寺院に属して自分の宗を誇る僧たちでした。永仁4年(1296)頃の作と考えられている「七天狗絵」と題する7巻の絵巻では、法相宗の興福寺、華厳を中心とした諸宗兼学の東大寺、天台宗の園城寺・延暦寺、真言宗の東寺・高野山(金剛峯寺)・仁和寺・醍醐寺、修験道の山伏、大寺から飛び出した遁世僧[とんせいそう]たちについて、その歴史と現在の有様を述べ、この者たちが自分たちの素晴らしさを誇る様子を天狗になぞらえて批判しています。
よほど目に余ったのでしょう。作者は不明ですが、この当時、盛んに活動していた律宗については詳しく論じておらず、批判もしていませんので、戒律を守りつつ困窮した者たちの救済にあたっていた律宗の関係者が、伝統を誇るばかりであった諸宗の大寺の僧たちを批判した可能性があると推測されています。
なお、「七天狗絵」の絵の部分では、諸宗の高慢な僧侶たちは、坊主頭の普通の顔であって袈裟を着ており、鼻の部分だけが鳥のくちばしのようになっています。また、鳥の頭で袈裟を着て背中に羽が生えている姿の天狗、つまり烏天狗のタイプも絵の端に描かれていますが、この時代には鼻高天狗の類は見られません。
鼻高天狗の登場
では、そりかえった長い鼻を持ち、白くて長いあご髭を有する赤ら顔の鼻高天狗は、いつ登場したのか。烏天狗より後に生まれたことは確かですが、その成立時期や成立事情は分かっていません。容貌が似ているものとしてあげられているのは、法隆寺などが保持してきた古代の伎楽面[ぎがくめん]のうちの酔胡王などの面です。これは可能性がありますね。
酔胡王の面は、名が示すように西域の胡族の王が酔った様子ですので、顔は赤く塗られています。また、胡人というとインド人ではなく、ペルシャ系の人を指すことが多いのですが、その系統の人は中国の壁画などでは鷲鼻で描かれることが多く、それを誇張して大きくするとくちばしのようになります。
鼻を細長くして前に伸ばせば天狗の鼻のようになるでしょうし、実際、酔胡王や酔胡王にお仕えする下僕の酔胡従の伎楽面には、鼻が棒のようになっているものがあります。また、酔胡王の面には、髭をつける穴が空けられていました。
奈良国立博物館が正倉院宝物中の逸品を復元する展示をおこなった際、陳列されていた酔胡王の面は真っ赤に塗られ、鍾馗[しょうき]さまのような真っ黒な髭が付けられていました。この髭を白くすると、鼻高天狗に近くなりますね。
ただ、現在の日本人が「天狗」と聞いて思い浮かべるイメージは、兜巾[ときん]をつけ、山伏姿で高下駄を履き、団扇を手にした姿でしょう。これは深山を跋渉[ばっしょう]して修行する修験者たちが天狗を守り神としたため、山伏自身と似た姿で造形されるようになった結果と思われます。
団扇は鳥の羽が変化したものと言われています。これによって空を飛ぶということになれば、山伏姿の天狗には背中に羽があるものだけなく、羽がないものも登場するのは当然です。天狗には人を、特に子供をさらうというイメージがあるのは、子供の守り神となる前に、子供をさらって食べていた頃の鬼子母神(第8回参照)の配下の鬼神の性格が残っているのでしょう。
このように、天狗には諸国の様々な要素が混合しているのです。ただ、我々が日常で「天狗」という言葉を最も使うのは、「天狗になる」という言い回しでしょうから、鎌倉時代の天狗の性格が今でも残っていることになります。