「憲法十七条」の嫉妬禁止

 前回は、自分よりかなり優れた人を見て、自分はそれより少し劣るだけだと勘違いし、高ぶる心を起こすのが「卑下慢」だとするインドの経論の説に触れました。しかし、自分よりかなり優れた人を見た場合、普通の人は嫉妬するのではないでしょうか。

  実際、推古天皇12年(604)に聖徳聖徳太子が初めて制定したとされる「憲法十七条」のうち、第十四条では「智、己[おのれ]に勝るときは則ち悦ばず。才、己に優るときは則ち嫉妬す」と説き、「我すでに人を嫉めば、人また我を嫉む。嫉妬の患、その極を知らず」と述べてその害を説き、「群臣百寮、嫉妬あることなかれ」と命じています。

  「憲法十七条」は戦後の歴史学においては、後代の偽作とされることが多かったのですが、最近になって大幅に研究が進みました。『日本書紀』中で「憲法十七条」だけに見られる語法が太子作とされる三経義疏[さんぎょうぎしょ]すべてに見えており、また三経義疏のうち、『勝鬘経義疏』が重要な箇所で「憲法十七条」と同じ典故を用いていること、社会問題に関する「憲法十七条」の記述が当時の状況と一致することなどが明らかになってきたのです。このため、周囲の補助はあったにせよ、語法の面から見ても思想の面から見ても、「憲法十七条」を書いたのは聖徳太子である可能性が高いとする研究者が増えつつあります。

  その「憲法十七条」の第十四条では、嫉妬してはならないと命じた後、「是[ここ]を以て、五百歳の後にして、乃ち賢に遇うも、千載にしてもって一聖を待つこと難し」と述べています。皆が嫉妬してつぶし合うため、賢人には五百年たってようやく出逢うことができるものの、聖人には千年たっても出逢うのが難しいとするのです。そして、「其れ賢聖を得ずんば、何を以て国を治めん」と続け、賢人・聖人が出現しなければ国家を統治することはできないと断定しています。いかに賢人・聖人に期待しているかが分かりますね。

 「千載一聖」は誰か

 「憲法十七条」にはそのように書かれているため、聖徳太子こそ千年に一度現れる聖人だということで、「千載一聖」と称されることがあります。しかし、これは適切ではないのです。「憲法十七条」は、「群臣百寮」、つまり、有力氏族の長であって重要な合議に出席する群臣や、その下で働く上級役人たちに嫉妬するなと命じています。

  ところが、聖徳太子は用明天皇の皇子です。しかも、推古天皇の甥かつ娘婿であって、叔母かつ義母である女性天皇の推古を補佐する役目でした。他の天皇候補の皇子たちから嫉妬されるなら分かりますが、そうした皇子が「群臣百寮」から嫉妬されるというのは、おかしな話ではないでしょうか。

  となると、賢人・聖人であるのに嫉妬されそうな人物とは、太子のような皇子ではなく、しかも「国を治め」る人物ということになります。しかし、「国を治め」るとなれば、群臣たちの上に立って統治する人物、天皇に準ずる権勢を持つ人物ということになります。そんな人物がいるでしょうか。

 実はいるのです。それは推古天皇の伯父であった蘇我馬子大臣です。初の女性天皇となった推古は、『日本書紀』によれば、推古32年(625)に馬子が葛城県を自分の土地にしたいと申し出た際、これを拒絶していますが、自分は蘇我氏の出身であり、これまでは伯父である馬子が夜に言えば朝までに、昼に言えば晩までに実行してきた、と述べています。

  推古天皇は単なるお飾りではなく、見識を持った最終決定者であったものの、大臣である馬子の進言にはほとんど従ってきたのです。そうなると、国政を主導していたのは馬子ということになります。

  実際、『日本書紀』ほど聖徳太子を神格化しておらず、信頼性がやや高い『上宮聖徳法王帝説』では、推古朝について、聖徳太子が「島大臣(馬子)と共に天下の政を輔[たす]けて三宝を興隆」したと述べています。聖徳太子は父方・母方とも蘇我氏の血を引いており、しかも大伯父である馬子の娘を妃としていました。蘇我系であるその太子と蘇我馬子大臣の二人が、蘇我氏の血を引く推古天皇を補佐して国政をおこない、仏教を盛んにしたのが推古朝だったとするのです。馬子は臣下でありながら群臣たちの上にいたような書き方ですね。

  推古朝の根本政策は仏教興隆でした。馬子は推古朝以前からそれをめざしてきたのに対し、物部守屋などは強く反対していました。最後には戦いによって馬子が守屋を打ち倒し、決着がつけらましたが、守屋のような強硬な仏教反対派ではなくても、国をあげて仏教興隆に取り組むような方針は行きすぎだ、として賛成しない群臣たちもいたかもしれません。

  馬子の政策には反対意見が出る可能性があり、その権勢を嫉妬する群臣もいた可能性があるのです。いや、他の氏族の群臣ばかりとは限りません。蘇我氏が強大になれば、内部で権力争いが生じることも考えられます。実際、馬子の生前は大きな事件は起きていませんが、没後には、馬子の後をついで大臣となった長子の蝦夷[えみし]は、馬子の弟である境部摩理勢[そがのさかいべのまりせ]と対立し、軍勢を派遣して摩理勢を殺害するに至っています。

 太子が「千載一聖」とされた理由

 聖徳太子は生きているうちからかなり神格化されており、没後も長く尊崇され続けました。その評価が激変したのは、江戸時代の初めからです。禅宗の寺を飛び出して儒者となり、独自の神道を主張した林羅山は、太子が日本に仏教を導入したことを批判し、馬子が崇峻天皇を暗殺するのを黙認したと攻撃しました。これに賛同する者は多く、後になると、実質的には太子が暗殺したようなものだとし、日本を悪くした張本人は太子だという主張までなされました。

  以後も、儒者や国学者の間では、太子に対する批判が盛んであって、その傾向は明治初期まで続きました。それに困った太子信奉派である学者たちが言い出したのが、太子は蘇我氏のような氏族の専横を押さえて皇室の権威を確立するために、「承詔必謹(王の命令を受けたら必ず謹んでうけたまわって実行せよ)」と説く「憲法十七条」を制定し、冠位十二階を定めて氏族とは無関係に能力のある者に位を授けて活躍させようとした、という見方です。

  これが通説になった結果、これに反発した学者たちもその図式に引きずられてしまいました。蘇我本宗家が打倒されて天皇の権威が確立される大化改新以前に、氏族の横暴を抑制するような法律が作られるはずはないため、「憲法十七条」は後代の偽作だと論じたのです。太子信奉派と結論は反対なのですが、皇室の権威を確立しようとしたという文献の理解は同じなのです。怖いですね。

  「憲法十七条」が説いている聖人とはおそらく馬子を想定したものだという説は、私が30年ほど前に書いた論文で提示したものですが、以後、完全に無視されてきました。つい最近になって、それを裏付ける論文が出るようになってきたのは嬉しいことです。

  ちなみに、己より優れている者を見ても嫉妬するなというのは、在家向けの大乗戒を説いた『優婆塞戒経[うばそくかいきょう]』が、在家の菩薩が大国主(マハーラージャ)になったら、人々に訓戒すべきだとして説いている項目の一つです。その『優婆塞戒経』を尊重してたびたび講義していた南斉の宝亮(生没年不明)の弟子が、太子の『法華義疏』の種本である『法華義記』を著した光宅寺法雲(467-529)です。

  そして、その宝亮を尊重して師としたのが、南斉の武帝の次男であった蕭子良[しょうしりょう](460-494)であって、蕭子良は尼の妙智(生没年不明)も支援していました。妙智は、人から非難されても「無忤[むご]」、つまり逆らってやりかえすことがなく、常に穏やかな「和顔」で対応し、その学識によって人々から仏教の学問の「宗(根本の立場)」とみなされており、宮中に招かれて『勝鬘経』と『維摩経』を講義した人物です。「無忤」はこの前後の中国の南朝の僧尼が尊重した徳目であって、伝記で「無忤であった」と記されている僧たちがほかにもいます。

  「憲法十七条」の第一条は「和」を強調し、「忤[さか]ふること無きを宗となせ(人にさからわないことを根本の立場とせよ)」と命じており、三経義疏は『法華経』と『勝鬘経』と『維摩経』の注釈でした。『勝鬘経義疏』は太子が推古天皇のためにおこなった『勝鬘経』講義のためのノートと言われていますね。聖徳太子の仏教の模範は、同時代の隋の仏教ではなく、その前の南朝の仏教だったのです。