馬子[うまこ]と馬子[まご]
前回は蘇我馬子をとりあげました。馬子は、古代の文献では「汙麻古」、「有明古」などとも表記されているため、「うまこ」と発音されていたことは確実です。しかし、「馬子」という漢字だけ見れば、「馬子にも衣装」などの諺が示すように、馬を引いて荷物や人を運ぶ「馬子[まご]」を思い浮かべるのではないでしょうか。
この意味の「馬子」の語については、「まご」という音の印象から、古くからの日本語のように見えますが、中国で早くから用いられていた漢語です。4世紀頃に活動した竺仏念が訳した戒律の『鼻奈耶[びなや]』では、「馬子[ばし]有り、馬を中に駆りて放つ」とありますし、6世紀以前に僧侶の道略が面白い説話を編集した『雑譬喩経』では、「馬子に問うて曰[いわ]く、『是れ誰[た]が家の馬ぞ?』と。馬子答えて曰く……」とありますので、馬の世話をする者の意味で使われていたことは確実です。船頭のことを「船子[せんし・せんす]」と呼ぶのと同じ用法ですね。
蘇我馬子の「子」は小野妹子の「子」と同様であって、古代の日本にあっては身分の高い男性の名の末尾に付けられる言葉でした。ここで大事なのは、蘇我氏は『日本書紀』では天皇家をないがしろにする悪者とされていますが、それは馬子の息子の蝦夷[えみし]と、その子であって聖徳太子の長子である山背大兄[やましろのおおえ]を殺害した入鹿[いるか]に限るということです。推古34年(626)の馬子大臣の死亡記事では、大臣は武略と弁才を有し、仏教を尊んだと記されており、批判はまったくされていません。
つまり、和気清麻呂[わけのきよまろ](733-799)が称徳天皇の怒りを買い、「穢麻呂[きたなまろ]」と改名させられたように、日本書紀』が蘇我氏のイメージを悪くするために「有明古」という名に「馬」の字を当てて家畜扱いしたのではないのです。だからこそ、推古20年(612)に馬子が酒杯を献じて推古天皇の長寿を祝うと、馬子の姪である推古天皇は、「真蘇我[まそが]よ、蘇我の子らは、馬ならば日向[ひむか]の駒。太刀ならば、呉の真刀[またち]」と歌い、優秀な臣下である蘇我氏の者たちを日向の良馬や中国の南朝で作られた名刀にたとえて賞賛したのです。
「うま」は漢字音
そもそも、縄文・弥生時代の日本には馬はいませんでした。馬の骨や馬具や馬の埴輪が古墳から出土するようになるのは、4世紀後半から5世紀にかけてのことです。『日本書紀』によれば、日本で馬の飼育が始まったのは百済から良馬が献上されてからとされており、献上かどうかはともかく、古墳時代に朝鮮半島からもたらされたことは確かでしょう。
このことは、「うま」という言葉が漢字音に基づくことからも推測できます。「桜」の音は「オウ」であって訓は「さくら」ですので、桜は古くから日本にあったことがわかります。これに対して「菊」は音も訓も「キク」であるため、輸入物であることは明らかですね。実は、「うま」も同じなのです。
「馬」という漢語の上古音は mea、中古音には mwa のような音もあり、これが地方によっては ba の系統の音になったものの、隋唐には ma の音が全国で主流になっていったことが知られています。古い音であれば呉音の「メ」、それ以後なら「バ」「マ」です。これは現在の日本における「馬」の語の多様な訓みと見事に対応してますね。
このうち、ma の音を発音する際、m の部分を強調すると、mma となり、「ウンマ」「ムマ」といった音になります。実際、平安時代には「馬」は平仮名では「むま」と書かれていました。つまり、「うま」という訓は漢字音が日本風に変わったものだったのです。
馬王と馬頭
これで蘇我馬子の「馬子」は良い意味であることが分かりましたが、馬子が信奉していた仏教では、馬はどう扱われていたか。仏の十の称号の一つである「調御丈夫[ちょうごじょうぶ]」は、巧みに馬を調教する人ということであって、暴れる馬を調教する者のように、欲望に駆られている人々を正しく導くお方ということですね。
釈尊の前世譚を語るジャータカには、前世の釈尊が巨大な馬の王となって多くの人々を救ったという話があります。多くの商人たちが財宝を求めて大きな船で海に乗り出したものの、船が破損してある島にたどりついたところ、そこは人喰いの鬼女たちの島であり、鬼女たちは美女に化身し、商人たちをとりこにして子供まで作り、商人たちを肥らせてから食べようとしたため、智恵のある人が月の15日の夜に馬王が救いに来ることを教え、それに従った者たちが馬王の背中に乗って毛を握りしめると、馬王は空を飛んでその人々を救った、という話です。
空を飛ぶように駆ける力強い馬のイメージを利用したジャータカですが、面白いのは、鬼女が馬の姿をしている例もあることです。たとえば、パーリ語のジャータカの中には、かつて毘沙門天に仕える夜叉女[やしゃにょ]、つまり鬼女がおり、頭が馬で体は人であり、空中を素早く自由に飛び回ることができたとする話もあるのです。古代のインドでは、馬の頭は特別な威力があると信じられていたそうで、ヴィシュヌ神が様々な姿に変化する際の一つが、馬頭人身の形でした。これが仏教にとりこまれたのですね。
この馬頭人身の恐ろしい姿が応用されたのが、地獄で亡者たちを責めさいなむ牛頭馬頭[ごずめず]です。頭が牛、あるいは馬である屈強な獄卒たちが棍棒をふりかざして亡者たちを追いかける様子は、地獄絵ではお馴染みですね。
しかし、一方では、馬頭人身でありながら人々を救う存在も登場しました。馬頭観音です。インドの神の要素を受け継いだ観音菩薩は、ヴィシュヌと同様、様々な姿になって現れるとされ、その一つが馬頭観音です。ただ、登場は意外に遅く、7世紀中頃に漢訳された『陀羅尼集経[だらにじっきょう]』に登場するのが早いようです。
馬と色好み
このように、インドの経典に出てくる馬は、力強くて飛ぶように速く走る動物であって、極悪な存在とされる一方で人を救う存在とされることもありました。ただ、馬には他に性的なイメージもあります。馬の男性器はふだんは腹の中に隠れており、交尾する際に出てきますが、釈尊についても男性器が腹の中に隠れているとされ、これを陰馬蔵[おんめぞう]と呼び、仏の三十二相の一つとされています。
こうした伝承が出てきたのは、釈尊が柔弱で欲望が弱かったために女性に対する欲望に負けずに修行ができたのではなく、強壮な馬のように十分すぎるほど男らしい存在でありながら欲望を制御したのだ、ということを強調したかったためのようです。精力盛んな男性を多くの牝馬と交尾する「種馬」にたとえるのは、こうした馬のイメージに基づくものですね。
そうした意味で馬頭観音と同一視された男性が日本にもいます。それは、プレイボーイとして名高い在原業平です。近づくべきでない高貴な女性と関係を持ったり、共寝を望む白髪の老女まで相手にしてやったとされる業平のことですから、それは実は相手を救うためだったと正当化される場合、実は馬頭観音だったという説が出てくるのは不思議ではありません。
一条兼良(1402-1481)の『伊勢物語愚見抄』では、業平は馬頭観音、そして、業平とともに仁明天皇に仕えた小野小町は如意輪観音の化身であったとする説を紹介しています。如意輪観音は女性的で色っぽいので、美女の代表である小町がその化身とされるのは分かります。不思議なのは、鎌倉時代の冷泉家流[れいぜいけりゅう]の古注釈である『伊勢物語抄』では、「小町は馬頭観音の化身なり」と断言していることです。
小町は美女の誉れ高く、色好みであって多くの男たちと関係を持ったとされるため、馬頭観音のイメージと重ねられたのか。考えられるのは、唐代法相宗の智周の『法華玄賛摂釈[ほっけげんざんしょうしゃく]』が、様々な神や鬼について説明している箇所で、「経緊那羅[きんなら]とは、有るが云う、歌神なりと。馬頭人身にして能[よ]く語る」としていることでしょう。
キンナラとは、馬頭人身ないし人頭鳥身で楽器演奏と歌を得意とする下級の神であって、女性のキンナラは美しいとされています。日本では、『古今集』の六歌仙の一人とされるほど和歌が巧みであった小町をそうした「歌神」とみなしたため、馬頭観音の化身扱いされるようになったのではないでしょうか。