仏と仏の争い
前回は、仏教の僧侶たちが戦争を擁護し、戦死を礼賛した話でした。安らぎを求める仏教に反する内容ですが、意外にも、その仏教の仏が戦う話がいくつもの国で歓迎されて来ました。
たとえば、ベトナム史上、最も英明な君主とされる黎朝[れいちょう]の聖宗(1442-1497)の作と称する小説集、『聖宗遺草』に収録されている「両仏闘説記」がその一例です。むろん、後代の文人の戯作であって、清の『聊斎志異』などの影響を受けて漢文小説が盛んに書かれた頃の作なのですが、ベトナムが洪水に見舞われて多くの寺院が倒壊したため、聖宗が船に乗って視察して回った際の出来事として、次のような内容が書かれています。
夜になると、川岸に停めた船にまで寺の中で騒ぐ声が聞こえてきた。お付きの者たちは熟睡していたため、聖宗が一人で岸にあがり、寺の戸のところで内側をのぞいてみると、土で造った大きな仏が怒って手に鋭利な刀を持ち、上座に据えられていた木製の仏を指さして罵っていた。
「この六、七ヶ月の間、ひどい天災に見舞われたのに、お前は洪水をどうすることもできず、流されて沼にぷかぷか浮かび、魚や蛯などを友としていた。村の女が見て流木かと思い、切ろうとしたものの、仏像と分かって寺に戻され、再び衣装や冠を着せられ、色彩が加えられたが、何の面目があって私の隣に坐って栄誉を受けるのか」
これに対し、木仏もかっとなって起き上がり、やり返した。「経典がすべては無常だと説いているのを聞いたことがないのか。私は水に流されたが、損なわれることはなかった。お前は、水が足もとまで及ぶと足が溶け、水が腹まで及ぶと腹が壊れ、肩まで及ぶと肩も背も壊れた。我が身すら保てないのに、人をあざ笑うとは」
二人の仏が争ってやめないため、釈迦仏が酒壺を持って酔った様子で出てきた。「二人とも間違っておる。洪水にどうすることもできず、民の供養を受け、恥を知らずに争うばかりで、外で聞かれることも考慮しておらん」
二人の仏は、釈迦に非難され、言葉を改めようとしたものの、寺の周囲で人の声が聞こえたため、黙ってしまった。聖宗が戸を開けて見てみると、灯火が輝いているだけであって、土仏・木仏と釈迦は、相変わらず土や木のままだった。
以上です。ひどい話ですね。ベトナムでは李朝・陳朝では禅宗がきわめて盛んだったものの、1428年に成立した黎朝では朱子学が主流となっており、儒学の徒は仏教を厳しく批判していました。この「両仏闘説記」は、そうした風潮が背景となっています。
武器を持って戦う仏
ところが、仏教が盛んだった日本においても、仏が争う話は好まれています。たとえば、山崎宗鑑(1465-1553?)撰とされる『新撰犬筑波集』には、
仏も喧嘩するとこそ聞け
釈迦はやり弥陀は利剣を抜きつれて
という付合が見えています。「仏も所詮は我々凡夫と同じであって、喧嘩すると聞いている」という句に、「釈迦は槍を手にし、弥陀は利剣を抜きはなって(戦い合う)」と付けているのです。
浄土経典に関する中国の注釈では、往生を望む人を釈迦が西方の極楽世界に「遣[や]り」、その往生人を極楽の教主である阿弥陀仏が「迎え」るとしているため、「釈迦はやり(槍)」を手にしていると読み替えたのですね。
これに対して、弥陀は「利剣」を抜き放つとするのは、中国の注釈が「阿弥陀仏の名号は罪障を切り払う利剣」だと述べていることに基づきます。仏教では、智慧のことを煩悩などを切り払う鋭利な刀に譬[たと]えますので、「南無阿弥陀仏」と名を唱えれば、これまでの罪障を除くことができるとしたのです。ところが、宗監はこれを利用し、釈迦が「槍」を持ち出すと、阿弥陀は利剣を振るって戦うのだとふざけたのですね。
仏や菩薩が武装して戦う物語
宗監のこの連歌では、釈迦と阿弥陀が戦う場面は描かれていません。しかし、日本には、仏や菩薩が武装して勇ましく戦う様子を軍記物語のように描いた作品もあるのです。その代表は、室町時代に書かれたと推定されている『仏鬼軍』です。一休の作と伝えられていますが、もちろん仮託です。
仏や菩薩が戦う姿が面白いため、絵入りの版も多数作られました。十念寺所蔵の『仏鬼軍絵巻』が有名であって、これを模写した絵巻が数多く作られて残っています。ただ、『仏鬼軍』は、仏同士が戦う話ではなく、仏や菩薩が地獄の軍勢と戦うという内容であって軍記仕立てになっており、以下のような筋です。
まず、極楽の阿弥陀大将軍が極楽を地獄に移そうとして、文殊菩薩にそうした先例があるかどうかを尋ねます。すると、文殊は、様ざまな経典の文を示し、地獄と極楽は本来は一体であると答えます。そこで阿弥陀は、地獄の閻魔王を撃破するため、大日如来にお尋ねすると、大日は西方は阿弥陀、東方は薬師、南方は宝生、北方は釈迦を将軍とし、その他の諸仏諸菩薩なども力を合わせて戦うべしと命じます。
この噂を聞いた閻魔王は大いに怒り、地獄の獄卒たちを召し集め、自業自得の原則に背いて信心の篤い者を間違って地獄に落としていないかと尋ねます。すると、そうした者がいることは事実だが、念仏さえ唱えれば大丈夫と称して罪業を作り放題なのでやむをえないとの解答でしたので、我らに非はないとして、仏の軍勢を迎え撃つ準備を始めます。
そこで、仏軍が二十五の菩薩とその郎等たちを率いて出陣するのですが、「九品蓮台(*)の大名高家たれたれぞ。等覚山の観音左衛門、蓮華野の勢至太郎……懺悔の里の普賢殿」といった調子であって、まさに軍記物語の武者揃えの場面のように描かれるのです。絵巻では、菩薩たちは鎧兜に身を固め、馬に乗って空中から地獄へ攻め入ろうとしています。
*九品蓮台=往生人が生まれる極楽の九種の蓮のつぼみ。ここでは、浄土のいろいろな方々、程度の意。
うーん、観音左衛門と勢至太郎ですか。困りましたね。観音菩薩と勢至[せいし]菩薩は阿弥陀仏の両脇にいて往生人を迎える立場なんですが。この菩薩の顔ぶれは、実は往生人を迎えに来る二十五菩薩たちであって、その二十五菩薩来迎図が改変されて戦いの場面として描かれているのです。
ただ、地獄の軍勢も奮戦しますので、仏軍は苦戦します。地獄側が放った矢が不動明王の目をかすったため、不動の片目がゆがんだとしていますが、これは不動は左目が斜めになって上を見ている形に造ってあることの由来話めかしたおふざけですね。
歌舞伎の「見得」では、片手を突き出し、片手を頭の後ろに回しますが、あのポーズは、見得がもともとは江戸期に流行した仁王像のものまねにヒントを得たためです。目を大きく見開いて片目だけ上を見、左右の視線が食い違うようにしているのは、不動明王のものまねですね。
それはともかく、仏軍は苦戦したものの、『法華経』の威力と大日如来の加勢のおかげで勝利し、閻魔王の宮を焼いて地獄を浄土に変え、めでたしめでたしで終わります。大日如来が総大将となり、東西南北の仏が戦うというのは、中央に大日如来が置かれ、その四方に仏が配置される密教の曼荼羅の図式です。
一休のイメージ
ですから、一休作と伝えられてきたものの、禅宗らしい要素は出てきません。仏教に関して面白い逸話があると、一休と結びつけられがちなのです。そう言えば、仏や菩薩ではありませんが、一休も僧侶の身で剣を持ち歩いてたことで知られていました。朱鞘の長い太刀をこれ見よがしに携え、堺の町を歩き回っていたのです。
もっとも、一休はひねくれており、人に太刀を持ち歩く理由を尋ねられると、「これは木刀であって人は切れない。今の僧たちが見かけだけ立派で役に立たないのと同じだ」と答えたそうです。皮肉としてわざとやっていたわけです。
その一休を、権威とされていたものを鋭く否定したということで高く評価したのは、戦後、我が身や師匠筋にあたる著名な僧たちを含め、仏教界の戦争責任を厳しく問うた禅宗学者の市川白弦でした。一休に対する見方は様々なのです。
屏風に描いた虎が夜、抜け出して暴れて困るため、縛ってほしいと殿様に頼まれた小僧の一休さんが、縄を手にして「さあ、追い出してください」と答えたという頓知話は有名です。
ただ、中国における最古の禅文献とされる『二入四行論長巻子[ににゅうしぎょうろんちょうかんす]』には、禅宗第二祖の恵可[えか]とおぼしき禅僧が、「私は不安でなりません。心を安らかにしてください」と頼まれ、「その心を出してみよ。そうしたら安らかにしてやろう」と答えた話が掲載されています。
上の屏風の虎の話はあくまでも後世に作られた一休咄の一つにすぎませんが、『二入四行論長巻子』のこの話を知っているか知らないかで、一休のイメージは多少変わるのではないでしょうか。