戦死者供養の願文

 前回は、敦煌写本に見られる動物の追善供養のための願文マニュアルには、犬・牛・馬など様々な動物のための願文例はあるものの、猫に対する願文が無いという話でした。実は、もう一つ欠けているものがあります。それは戦死者のための願文です。

 黄徴・呉偉編の『敦煌願文集』には、武将用の願文も短い断片がふたつ収録されているのですが、一つは戦場で武勲をあげたことを賞賛したうえで、「この凶衰に遇ってしまったため、悲しさは倍も切ない」と述べています。「凶衰に遇う」とは、年を取って病気で亡くなったことでしょう。つまり、この模範文は、武将が老齢で亡くなった場合のものであって、戦死を悼むものではないのです。

 もう一つの例は「武徳歎」と題された短いもので、この人は仁徳があって文武にたけており、重んじられて名声がとどろいた、と述べているのみです。あるいは、他の役人用の願文のうちに、この部分だけ入れ込むのか。いずれにしても、戦死については触れていません。

 中国でも、早くから戦争の後に大がかりな戦死者供養の法要をやったり、寺を建てたりしていますので、個々の戦死者についても仏教式の追善供養がなされたはずです。それなのに、そうした願文が見当たらないのは、何か理由があるのでしょうか。 

戦死の礼賛

 変死者については、通常とは異なる葬儀がおこなわれることが多く、中でも戦死者は特別な存在であって、その死が意義づけられ、手厚い法要がなされるのが普通です。

 今回のロシアのウクライナ侵攻の場合でも、プーチン大統領の盟友と呼ばれ、侵攻を擁護してきたロシア正教のキリル総主教は、今回の戦闘で戦って亡くなった兵士は、あらゆる罪が洗い浄められると説教し、また、勇ましく戦って戦死した者は、神の国、栄光、永遠の命の中で神と共にある、と説いたと報じられています。

 ロシア正教は日露戦争の時も、ロシア軍を鼓舞していました。真宗誠照寺派の小泉了諦[りょうたい](1851-1938)は、戦場でロシア兵が退却しようとすると、神父が十字架をふりかざして押しかえした、と書いています。退く者は、神に背く者ということになるのでしょう。

 その了諦自身も負けてはいません。日露戦争の山場となった旅順攻撃に際し、肉団攻撃を行って死体の山を築き、以後も激しく戦ってその大部分が死傷した陸軍の歩兵第三十六連隊は、了諦の寺がある鯖江市を駐屯地としており、了諦が常に説法していた部隊でした。

 了諦は早くから軍隊布教に努め、阿弥陀仏と明治天皇の恩徳を強調し、国家に対しては死を惜しまずに忠義に励むよう説いていました。後の説法をまとめた『信仰鼓吹説話』(顕道書院)では、「爆弾三勇士」は真宗信仰の家に育ち、腕に南無阿弥陀仏の名号を彫り込んだ数珠をしていたとして、その信仰ぶりを賞賛しています。

 しかし、了諦は日頃は好戦的な人物ではありませんでした。おだやかな性格であって殺生を嫌い、腕に蚊がとまっても叩かずに吹いて追い払うだけだったそうです。軍隊布教でも、血気にはやった粗暴な振舞いをいましめ、捕虜などへの慈愛を説いていました。

 了諦は、地方での説法を頼まれると、お供も連れず、一人で杖をついて粗末な身なりで出かけていっており、偉ぶることのない人物でした。そうした人物が、「軍人勅諭」にある通りに「死は鴻毛より軽しと覚悟」すれば、日本の良民となって極楽に往生する幸福が得られる、と説いたのです。

 了諦は決して無学な外国嫌いではありませんでした。若い頃はスリランカに派遣されてパーリ語や梵語を学び、スリランカに立ち寄った日本の駆逐艦に乗り込み、艦内で愛国的な説法をしながらヨーロッパまで渡り、パリのギメ美術館では報恩講を実施して多くのフランス人に感銘を与えています。キリスト教国やイスラム教国も見て回り、帰路ではインドに立ち寄って仏跡を巡礼しています。 

第二次大戦中の諸宗の管長の訓話

 しかし、日本ではなぜ僧侶が戦死を讃美する説法をするのでしょう。邪悪な敵国を打ち負かす正義の戦いだと信じているなら、どうして「何が何でも生きのびて戦い、勝利するのだ」と説教しないのか。

 戦死讃美の極地は、大戦での敗色が濃くなった昭和十九年七月に刊行された勅語御下賜記念事業部編『学徒出陣記念 日本主義死生観-附 靖国の哲学』(人生道場)でしょう。「学徒の初陣を祝ふ」という内閣総理大臣(陸軍大臣・軍需大臣)の東條英機首相の文を巻頭にかかげたこの本には、仏教の諸宗や神道諸派の管長たちが檄文を寄せているのですが、「死生観」という題名が示すように、いずれも戦死の心構えを説いています。

 大学生を出征させるのですから、「大学で学んだ知識と見識を活用し、工夫をこらして戦って勝ち抜け」などと激励した文があっても良さそうなものですが、そうした方向のものは見当たりません。いずれも自宗・自派の教義をねじまげて戦死を意義づけし、恐れずに死ぬよう説いたものばかりです。

 そのような時勢順応の文章を書いていることからも推察されるように、この管長たちは、戦後は一転して民主主義を説き、平和を論じるようになりました。

同期の桜

 戦死の讃美にあたっては、いさぎよさが日本人の美徳として説かれます。それを象徴するのが、さっと散ってゆく桜の花です。柳田圀男によれば、古代の農民の間では、桜が盛んに咲いて見事に散っていくのは豊作の予兆とされていたそうですが、これを変えたのは、実は仏教でした。

 『万葉集』で愛された梅に代わって『古今集』では桜が主役となります。ただ、香りを賞賛される梅の花などと違い、桜の花は「散る」という面が重視され、それが無常と重ねられたのです。

 うつせみの世にも似たるか花桜咲くと見しまにかつ散りにけり(春歌下・七三)

 はかない世にも似たのだろうか、桜の花は。咲くと見ているうちに同時に散ってしまったことだった。

 「うつせみの」は「世」にかかる枕言葉であって、この「世」ははなかいとするのは仏教によるものです。

 残りなく散るぞめでたき桜花有りて世の中はての憂ければ(春歌下・七一)

 すべて散ってしまう点こそが桜の花はめでたいことだ。いつまでも有り続けては、この世の中では、最後はつらい目にあうので。

 この「詠み人知らず」の歌のうち、「世の中」というのは、梵語のローカダートゥ(世界)の漢訳語である「世間」を和語化したものです。ローカダートゥは堅固なようですが、長い時間の後に滅亡しますので、インド仏教では無常な存在とされていました。それが日本語の「世の中」に反映し、「世」は無常であって「憂き」もの、憂き世とされたのです。

 この歌のすぐ後に掲載されている承均[じょうく]法師の歌は以下の通りです。

 いざ桜我も散りなんひと盛り有りなば人に憂き目見えなん(同・七七)

 さあ、桜よ。私も散ってしまおう。一時期栄えたならば、世の人につらい目にあわせられるだろう。

 このように、僧侶が、生きながらえるより散ってしまった方が良いと歌ったのです。軍歌の代表が「ともに散りましょ」と歌う「同期の桜」であり、海軍が開発した自爆用の特攻滑空機が「桜花」と名付けられたのは、この伝統の悲しい結末なのです。