戦争のイデオロギー化
冷戦とは何だったのか?そんな「昔」のことはもはや誰も振り返らない。世界は20年ばかりのサイクルで更新され、加速度的に変化している。それもグローバル化した世界だ。そんな時代に立ちもどるのは何のノスタルジーのなせるわざなのか。あらゆる意味で自分たちの「今」しか視野に置かない人びとは、そう言ってこの時期を平板化し、「冷戦」もひとつの類型としてしか考えない(だから、それとなく「新冷戦」などが取り沙汰される一方で、「冷戦思考」などというレッテルが使われる)。だが、冷戦期は、戦争と諸国家関係のあり方を大きく変容させただけでなく、現在の世界的な見方(歴史没却)を準備する重要な変化の時期でもあったのだ。とりわけ、核兵器で「不可能」になった戦争を、できないという形で遂行することで、戦争と平和の区別を失効させ、国際関係の論理を侵蝕して、世界政治を新しい次元に導いた。
「冷戦」は、次のように総括されている。それは「革命」の輸出で世界を脅かした共産主義=全体主義国家ソ連と、アメリカの領導する自由主義陣営とが、相互に過剰な核兵器を抱えて対峙した二十世紀後半の40年間のことで(「東西対立」とも言われた)、結局、抑圧的な東の社会主義体制が崩壊し、自由と民主主義を繁栄の原理とする「西側」が勝利して、世界のグローバル化が実現されたのだ、と。
そう言って一世を風靡したのはアメリカ国務省出身のフランシス・フクヤマで、彼はアメリカとはまったく無縁なヘーゲルの歴史観を図式的に活用して、この冷戦終結に『歴史の終わり』(1992年)を重ねてみせた。「歴史の終わり」とは世界史の完了、つまり世界文明の発展の終局ということである。一九九十年代初頭のこの主張の商業的成功(『歴史の終わり』はベストセラーとなった)自体が、この「戦争」のイデオロギー性をあからさまに示している。戦争はそれを正当化するためにさまざまな理念を生むが、実際には戦争そのものに理念はない。むしろあらゆる理念を暴力の坩堝[るつぼ]、集団的破壊と殺戮のなかに廃絶するのが戦争である(cf. 軍神マルスと狂乱のヴェローナ)。
戦火を上げない「戦争」とは、戦争の世界化と絶対的兵器(核兵器)の登場で「不可能」になった戦争を、「しない」という形で遂行した、世界規模で「理念」化された戦争だったのである。ただ、その理念化が、戦争の「現実」を徹底的に非人間化したことについては、「代理戦争」の典型だったベトナム戦争を見てみればわかる(植民地支配からの独立を求める東アジアの小国を分断して、アメリカは最新装備とともに一時は50万の大軍を送り込み、核兵器以外のあらゆる殲滅兵器を開発して対ゲリラ戦に投入した)。
それ以降、アメリカの戦略的思考(国際関係論)は、イデアリストとリアリストとに分岐し、リアリストがイデオロギーを排除して国家間関係を考えるのに対し、イデアリストは対立抗争をイデオロギー化・世界観化してそこに善悪の価値付けを持ち込み、そのつど「正義の戦争」を演出する(後者のうち、アメリカの覇権維持を原理化するのがいわゆるネオ・コンサバーヴァティブと言われる潮流である)。
ソビエト連邦とは何だったのか?
近代の国家間戦争は、西洋諸国が競い合いながら外部世界を統合してゆく(市場開拓、支配圏拡大、植民地争奪)過程で起こった。第一次世界大戦(欧州大戦)はその行詰りとして勃発したのだが(西洋内部の文明化が外部世界への野蛮に転化し、その効果が西洋内部に返ってくる)、後発の国々は大戦の結果(力の論理の規制と国際協調の傾向)に甘んずることができず、世界中が今度は分かっていて「決戦」(最終戦争)とみなした総力戦の中になだれ込んでゆく。その時、敵対したのは日独伊同盟の枢軸国と、米国および英仏を中心とした連合国だった。ドイツがヨーロッパで民族的生存圏論理と「ユダヤ人問題の最終解決」を打ち出し、かつ反共産主義を掲げてソ連と対立したため、曖昧な位置にあったソ連は米英仏と共に戦うことになった(敵の敵は味方というわけだ)。
ソビエト連邦が何だったかといえば、それは単なるスラブ(弱い)・ロシアではない。共産主義革命によって成立したまったく新しい連邦国家だった。つまりツァーリ(皇帝)の帝政を排して「人民が権力を獲った」とはいえ、その権力を共産党という一元組織が握り、それが事実上帝国を継承して管理統制する、多民族の広域国家である。
共産主義(マルクス主義)の思想そのものは西洋に生まれた。十九世紀の産業経済化したヨーロッパ社会の矛盾が、階級闘争とプロレタリアートの勝利によるラジカルな社会変革(資本主義の打倒)というその理念を生み出したのだが、それはヨーロッパでは実現を見ず(敗戦国ドイツにはその可能性もあったが)、ロシアで帝政打倒を目指したさまざまな革命運動に紛れて、最終的にロシアで実現することになった。そしてヴォルシェヴィキ政権の成立は(国際的?)階級闘争における勝利とみなされた。
この革命(10月革命)により帝政ロシアにとって代ってソビエト連邦は成立したが、西側諸国との関係は錯綜していた。ロシアはもともと近代ヨーロッパのウェストファリア体制(主権国家間秩序)にとって東方の「異物」だった。そこに西側の階級闘争の「理想」(きわめて西方キリスト教的な)が「実現」したのである。だが階級闘争は普遍的(カトリック)で国境や民族を超えるものとされている。そしてヨーロッパ諸国にはそれぞれ国内に階級闘争を担おうとする政治勢力がある。
その関係の錯綜のなかで、西側(ヨーロッパ)諸国にはソ連に「理想の実現」を見る多くの知識人・活動家がいたにもかかわらず、国家体制としては共産主義の影響を警戒し、「革命」の波及を恐れてむしろソ連に敵対することになった(革命とソ連体制を嫌った多くの人びとが欧米へ亡命し、一部西側諸国は日本も含めて自国民や権益保護の名目でシベリアへ出兵した)。
米ソの非妥協的対立
なぜ欧米では共産主義革命が恐れられたのか? それには、旧東方ロシアの強大化を警戒する歴史的事情もあるが、何より、ソ連の体制が私有財産を否定するものだったからだ。それが私的権利の根本否定とみなされたのだ。近代西洋の革命は王制下の身分的特権を廃止し私的権利を解放するものだったが、社会主義革命はその根拠とされた私有財産そのものを否定した。それが西洋の民主制(個人の自由の体制)を脅かすと見なされたのである。そのうえ、マルクス主義を掲げたソビエト体制は、基本的に階級闘争を世界に広げるヴィジョンをもっていた。
もちろんヨーロッパ諸国にはマルクス主義の階級闘争を支持する政治勢力があり、それが各国とソ連との関係を錯綜させたが、それに対して大西洋の向こうの「新大陸」に勃興したアメリカ合州国は、ソ連とは別の「独立革命」によって成立した脱ヨーロッパの連邦国家だった(モンロー主義につながる)。だがこの国は、「持てる者の自由」を原動力として開拓され、それを国是として建国された。つまり、ジョン・ロックの「私的所有に基づく自由」の権利化が、この「新世界」の屋台骨だった。そのため共産主義ソ連との対立は非妥協的なものとなる。
だからアメリカは、対ナチス・ドイツではソ連と協力しても、ドイツ打倒後はソ連が「最終的な敵」になることが分かっていた。一方、たとえばフランスでは、国内の対独レジスタンスに最も貢献し、かつ多大な犠牲を払ったのは共産党系のグループだった。ヨーロッパで全般的にみれば(イギリスを除いて)、この戦争はナチス・ドイツ(ムッソリーニのイタリアも)を倒すためのものであっても、その先にソ連と体制的に敵対するためのものではなかったはずだ(各国に共産党政権ができるかどうかは別として、ソ連と単純に敵対することはできない――たとえば、シモーヌ・ヴェーユが考えた戦後世界のヴィジョンは、自由と社会正義とを調和させるようなものだ)。
もちろん、ソ連におけるスターリン体制の成立があり、その体制の下でのソ連の強大化が、ヨーロッパ諸国のソ連に対する警戒感を高めたという事情もある。そして事実上ナチスに対する戦いでは、ヨーロッパはアメリカ合州国に大きく依存し、米国によって「解放」されたという言い方さえされる。だから、第二次大戦においては(実は第一次大戦末期から)、ヨーロッパはすでに世界秩序形成の主導権を失っており、この後は「西洋=西側」はアメリカによって領導されるようになる。
それは、ドイツ降伏後のヤルタ会談(1945年7月)にもはっきり表れており、ここで戦後のヨーロッパの分割が協議されたが、それは米国のトルーマンと英国のチャーチル、そしてソ連のスターリンの間の協議だった。それが後の「東西」分断の図式を作ることになるが、そこでトルーマンがスターリンの前で原爆実験の報告を紹介したというのは、すでに進んでいた米ソ対立の露骨なエピソードである。
要するに、世界戦争はまずヨーロッパ諸国間から起こるのだが、その背後にあらたな対立が醸成されており、戦争秩序の主軸(あるいはその主導権)はその対立を担う国々がもつことになった。それをソ連を除いた「西側」の中からみるなら、世界秩序形成の主導権は「古い西洋」から「新しい西洋」へと決定的に入れ替わったのである。