西洋の発祥、自己確立

 先回、クラウゼヴィッツの戦争の規定やヘーゲルの哲学について縷々[るる]述べるのは、「世界戦争」とは(だけでなく「世界」とは)どのようなものだったのかを確認すること、そしてその前提となる「西洋」とはどのようなものだったのかを確認するためである。

 グローバル化の時代に、もはや西洋などと殊あらためていうのは時代錯誤のように思われるかもしれない。西洋と東洋の対立が語られた時代も遠く過ぎ去り、二十世紀後半の「西側・東側」の区別も解消されてしまった。とりわけ日本では、近代以降の西洋コンプレックスはとうの昔に克服されているし(日本は世界の一等国でG7の一画!)、世界のポールはアメリカ(と最近では中国)だとしても、「西洋」などという言葉はほとんど意味ももたないと。

 ところが最近(ここ二十年来)、用済みになったはずのこの「西側」という用語が折にふれて登場する。日本は「西側諸国と価値を共有し…」(外務省)とか、ウクライナ戦争をめぐる議論のなかで、ロシアの「侵略」を厳しく非難し、経済制裁を呼びかけ参加する国々を「西側諸国」と言う。あるいは、近年のアメリカは国際世界の状況を「民主主義対専制主義」の対立と規定するが、その「民主主義」は「西側諸国」の特徴だとされている。

 この「西側」(英語ではWest)という言い方は、冷戦期の「東西対立」を呼び起こす。たしかに、近年「専制主義」と名指されるのは冷戦期に「東側」に区分された国々が多い。だが、この「西側(west)」という表現は、じつは古くからの「西(Occident)」という呼び方(区分け)と歴史的につながっており、日本で「西洋」と訳されているのは他でもないこのラテン語の「オクシデント」なのだ。

 古い話になるが、その起源はローマ帝国の東西分裂にある。その西半分が「オクシデント帝国」、東半分が「オリエント帝国」と呼ばれた。つまり「東/西」とはもともとローマ世界を二分する区別だったのである。ただ、その後をみると、百年を経ずして西の帝国はゲルマン諸族の侵攻によって滅亡し、その跡にはローマの痕跡としてローマ教会しか残らなかった。対して東の帝国はギリシア正教を擁して君臨し、その後一五世紀にオスマン・トルコによって滅ぼされるまで千年間存続する(ビザンツ帝国とも呼ばれた)。

 たが西側では、ゲルマン諸族の王たちに統治の承認を与えるだけだったローマ教会が東方教会から独立して独自の地位を要求し(東西教会の分裂)、やがて一 一、二世紀に「教皇革命」(ハロルド・バーマン)とも呼ばれる出来事を通して、ローマ・カノン法の上に基礎づけられたローマ司教の権威が、聖俗両界の至高者(神の代理人としての教皇)として確立される。

 これによって西方キリスト教世界は、東方オリエントに背を向けた「オクシデント」という制度的な実体として自己確立する。それも唯一神を代理する普遍的(世界的)権威であることを主張して。

 こうしてローマ教会は世界布教(全世界をキリスト教化して救済する)の台座となり、この「オクシデント」がやがて世俗化しながら文字どおりの世界展開を開始するのである。「自己確立」と言ったが、教皇が至高者であり、世界の絶対的主人(Dominium mundi)であることは他の誰が認めたことでもなく、教皇庁(ローマ教会)自身が決めたことである。そしてそれが、以後オクシデントの向き合う異世界に対するオクシデント自身の姿勢になる。つまり、内側(の自然)に対してであれ、外側(の自然)に対してであれ、それを「発見」し、名づけ、分割し、所有する。儀礼的に言うなら、「洗礼」し、「存在」を与えてみずからの世界に迎え入れるのである。

 それが私たちの知っている「オクシデント」の発祥である。日本はそのような「オクシデント」に一度は一六世紀に出会い、当時は中国式に「南蛮」と呼んだが、二度目の一九世紀の出会い以来、「オクシデント」の自称を翻訳して「西洋」と呼ぶようになった(日本は海に囲まれているから外部は海の向こうであり、西方だから西洋だ)。

西洋の世界進出

 この西洋は、域内での「宗教改革」を経て教権と俗権の確執を整理して「政教分離」の体制を作り、いわば世俗化して、本格的に世界進出を始める。それは一方で、全世界の「改宗」(キリスト教化)であるとともに、西洋「文明」の外部への輸出、あるいはそれぞれの地域の征服と支配、そして制度システムへの統合・同化のプロセスだった。

 地理的に見れば、最初の「西洋」は地中海の周囲に広がる「世界」の西半分で、あくまで地中海を中心(媒介)にしていた(だから「地中海」と呼ばれる)が、コロンブスらによるいわゆる「地理上の発見」以後、世界の中心(媒介)は大西洋になる。それ以後「オクシデント」は大西洋を主要な交通路として「西」へ、そして「南東」へと進出してゆき、それが近代の「世界史」の舞台となるのだが、世界は「海のラウム」(C・シュミット)の時代になって、大西洋・太平洋につながらない地域(オリエント、ロシア、内陸中国)はこの展開の視野から取り残される。

 「発見」による「名づけと領有」の二重性を象徴するのがコロンブスの仕草である。「発見」された地は、そこが現地で何と呼ばれていようと、「発見」主によって新しく名前をつけられる(グァナハニと呼ばれていた島はサン・サルバドルと命名される)。それを西洋語では「バプタイズ」と言う。つまり洗礼して名づけることだ。

 これは罪ある状態から神の恩寵の世界に生まれ変わることで、そのようにキリスト教化されて「新しい」大地は神の世界に新たな存在をもつことになる。そして見出され名づけられた土地は、世俗の王権の領有に委ねられることになっていた。こうして例えばカリブ海の島々は、以後、西洋の世界図に書き込まれてその名も刻まれることになる(世界図を作ったのは西洋だけだ)。

 その際に武力衝突があっても、それは権利をもつ国同士の「戦争」としては扱われない。むしろ「野蛮」な種族や土地に対して神の恩寵をもたらす「救済」行為、ないしは悪魔征伐として正当化される。この「救済」ないし「解放」の正当性は、やがて近代化・世俗化にともなって「文明化」の論理に衣替えすることになる。「野蛮」な領域に「文明」の光を与えて世界全体に明るみ(神の恩寵)をもたらすことが、先進的西洋世界の「人類」に対する使命だというわけだ。それが後の植民地支配の正当化の論理でもあった(一五世紀サラマンカ学派以来の「国際法」論議を参照)。いうまでもなく、その世俗化したスタイルが、西洋に近代の威力をもたらした「啓蒙」(光で暗闇を照らし出す)である。

「国民国家」の成立

 全体として「西洋の世界化」はそのように進行したが、西洋は外部に展開するとともに内的にも独自の発展を遂げてゆく。ひとつは法国家体制の整備であり、もうひとつは世俗生活の内実つまりは産業経済システムの形成である。

 西洋世界は「宗教改革」(ローマ教会が王権に対峙する権力を失い、信仰は公共性から退避して私的権利の領域に囲い込まれることになった)とその後の混乱、そして初めてのヨーロッパ大戦(三十年戦争)を経て「ウェストファリア体制」と呼ばれる主権国家間秩序を形成することになった。これは簡単にいえば、相互承認によって成り立つ主権国家だけに戦争の権利を認めるもので、そうすることで域内の戦争を極力抑えるという体制だった。これによって国家のステイタスがそれなりに均質化され、その相互承認がそのまま戦争に秩序を与え、抑止の仕組みにもなるというある意味では危うい均衡だが、国際法が「戦争と平和の法」(グロチウス)とも言われるように、戦争にも法的地位を与えて(ただし「例外」としての)それを限定抑止するという意義をもっていた。

 その一方で、各地域の通商、それも世界に拡大する通商をもとにした財の蓄積や、科学技術の発展による産業(自然に依存する農耕を脱却する工業)の勃興が、西洋社会を活性化し、資源や市場を求めての域外進出が活発になっていた。その商工業の発展は、初めは政治権力に依存したが、やがて政治権力の制約や寄生が経済活動の桎梏[しっこく]に転化し、それまでの封建的な身分制社会の構造を揺さぶり始め、それがいわゆる「市民革命」につながってゆく(「市民社会」とは、ヘーゲルが「人倫的国家」に対応させた「欲望の体系」、いわゆる経済活動の次元だ)。

 そうして一九世紀には「国民経済」を土台とする「国民国家」の時代がやってくる。それを決定づけたのはフランス革命と、それに続く再度のヨーロッパ戦争としてのナポレオン戦争である。国民国家は理念的には国民主体であり、その裏付けとして国民全体が戦争の担い手となる。そして戦争は「万人の万人による万人のための戦争」となった。ただしこの場合、「万人」とは国の成員として権利をもつ国民のことである。

 ヨーロッパ域内でも多少の権益や領土をめぐる抗争は起こるが、この時代の「戦争」を方向づけていたのは非西洋世界の市場化や資源をめぐる植民地獲得競争だった。アメリカでは南北戦争が起こるが、他では征服戦争に絡んだ西洋諸国間とその周辺諸国をめぐる戦争である。早くに停滞・没落するスペイン、ポルトガル(後にはオランダ)を退けて、イギリス、フランスが世界帝国を築いていた。そこに後発のベルギー、ドイツなどが絡む。そして一八八五年にはアフリカ分割のためのベルリン会議が開かれるが、地球上の「無主地」はすでに尽きかけており、この海外領土をめぐる競合がやがてヨーロッパを三十年戦争以来の「大戦」に引きずり込むことになる。

世界戦争はヨーロッパから

 第一次世界大戦は当初「ヨーロッパ大戦」と呼ばれた。結局、植民地分割をめぐるヨーロッパ諸国間の争いが連鎖して、ヨーロッパを戦場とする大戦争になり、海外植民地も巻き込んで世界規模の戦争になってしまったのだ。この戦争は規模として地域戦争の枠を超えて広がっただけでなく、先進諸国の産業化と社会の組織化の進展もあって、一旦起こると各国の総力を挙げた戦争となり、一方の当事国の国家的破綻に至るまで終わらなかった(始めた指導者たちは国民の手前、形勢が悪くても、損害が明らかでも戦争を止めようとは言えない)。前述した「ウェストファリア体制」は、ヨーロッパ諸国間の戦争を抑止する体制ではあっても、各国の権利とされた戦争を終わらせるメカニズムはもっていなかったのだ。

 だからドイツが国家崩壊を起こすことで(革命の勃発で帝政が崩れたロシアも)やっと戦争は終結し、戦後は国際連盟などの国際機関が創設され、戦争そのものを罪悪とする考えも生まれた(アインシュタインは国際連盟の委託で世界の賢人たちに「戦争をなくすにはどうすればよいか」を尋ねる書簡を送った。それに対するフロイトの応答は有名である――『何ゆえの戦争か』のタイトルで書籍化されている)。けれども、第一次大戦を生んだ世界の諸問題は解消されず、二十年も経たないうちに新しいアクターたち(西洋の新しい盟主アメリカ、アジアで台頭した日本、社会主義革命で誕生したソ連等)も含めて、世界の主要諸国は次に起こるだろう大戦争に備えて軍事拡張の競争に走り(クウラゼヴィッツの言う「せり上げ」)、「総力戦」に備える戦時国家体制の整備に努めた。

 そして今度はまずヨーロッパで(一九三九年九月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻と英仏の対独開戦)、ついでアジア太平洋圏で衝突が起こり(日中戦争はすでに起こっていたが、一九四一年一二月の真珠湾攻撃で日本が対米英開戦)世界は二度目の大戦争に入った。この戦争は世界の至るところを戦場とし、兵士として難民として世界の人びとを広範に移動させ、兵員と民間人とを問わず夥[おびただ]しい人びとを犠牲にし(それが「総動員・総力戦」の帰結だった)、多くの人びとの生活領域を戦略的都市爆撃によって破壊し(ベルリンと東京を廃墟と化し)、さらに「人間の廃墟」アウシュヴィッツとヒロシマを作り出して終わった。

 第一次大戦後には「西洋の没落」(シュペングラー)が語られたが、それは世界を領導して繁栄する西洋が、その繁栄の頂点で(世界化の完了期に)内部から破綻するということの不安な自覚でもあった。ヨーロッパはすでに戦争を恐れていた。だが、敗戦の上巨額の賠償金を課されて屈辱と憎悪を組織したナチス・ドイツと、アメリカ、ソ連、日本といった新興諸国家が、「最終決戦」を厭わなかった。その結果は惨憺たるもので、各国「総力戦」の、未曾有の破壊と殺戮のなかで、少なからぬ哲学者が根本的な意味での「世界の崩壊」や「終末」を語ったが(ユダヤ人哲学者レヴィナス、実存の哲学者サルトルらばかりでなく)、それはたんに物質的な意味での世界の、文明の崩壊だったばかりでなく、あらゆる人間的価値を、動員や殺戮や略奪や破壊や強制移送と文字どおりの焼却のなかで無化する「世界」の崩壊でもあった。

西洋の「普遍化」とは?

 その「絶対的戦争」の露呈をみて、ヨーロッパの実務的な賢人たちは抜本的な反省をせざるをえなかった。二度と再び、このような戦争を起こさないために、最低限、いかにして戦争を避けるか、国家間の争いを戦争にしないかの仕組みを考える。すでに戦争中から、戦後の世界のヴィジョンを作ろうとしていた。病弱で戦線に出られなかったシモーヌ・ヴェーユが与えられた任務もそれだった。ヴェーユが病を押して書き残したものが『根をもつこと』である。より実務的なところではフィラデルフィア会議(一九四三年)がもたれた。そこで、先進国の国内矛盾(貧富の差)が往々にして対外戦争の引き金になることから、産業社会で労働権を確立することが目指される。つまり、社会権の確立が戦争を抑止すると考えられたのである(アラン・シュピオ『フィラデルフィアの精神』参照)。

 さらには、西洋世界内でのみ認められていた基本的人権を、全世界に、全人類に拡張すること、あらゆる人びとが生きる権利、尊厳をもって生きる権利を承認する。それが「世界人権宣言」として規範化される。その人権はあらゆる人びとに共通に属するものとされるが、国際関係においても、それぞれの国の主権が平等に認められ、それが相互尊重される。そしてそのことは国連秩序として構成されることになる。

 じつはそれは西洋の国際的な優位性を解消するものになる。たとえば人権概念は西洋で作られたものである。その西洋の世界化によって人権概念が広まったとしても、そのことをもって西洋はその概念の適用に関して特権性を主張しないということだ。普遍化とは現実的にはそういうことである。西洋は自らの作り出した価値を自分に専有権のあるものとして広めるのではなく、他にも当然属するものとして譲り渡す、ということだ。

 言いかえれば、世界化した西洋はその中心あるいは起点として留まるのではなく、グローバルな結びつきをもつようになったその世界のなかで、他と同等の一地域になるのを認める、ということでもある。それが他者をかけねなく承認し、そのことで世界の多様性を承認するということになる。

 世界化が全面戦争のうちに崩れ落ちるという経験をした(そこに世界を巻き込んだ)西洋が、なしうる反省というのはそういうことであるべきだった。あるべきだった、と言うのは、実際はそうはならなかったからである。

 一つは国際連合という諸国家を結びつける機関が、世界戦争を戦った一方の「連合国」を継承する形で形成されたという経緯がある。ただ、その性格は、やがて敗戦諸国を迎え入れ、さらにはそれまで西洋諸国の植民地だった地域に独立した数多くの国々(初期の参加国をはるかに上回る)を、国連の相互承認体制の中に迎え入れることで解消されたと言ってもいい(それは国連の総会レベルで体現される)。

「戦争の終り」と「冷戦」

 その「普遍化」、つまり西洋の相対化はつねにごまかされる傾向にあったが(認めたくない傾向がつねにある)、それより深刻だったのは、全世界を震撼させた核兵器の意味がただちにごまかされたことである。

 一九四五年7月、アラモゴードでの最初の原爆実験を見て、マンハッタン計画を導いてきたロバート・オッペンハイマーは、古代インドの叙事詩バガバットギータの「世界を焼き尽くす劫火」を想起したという。それは戦争に勝つための兵器というより、世界(人類)を亡ぼす魔の兵器だったのである。だからオッペンハイマーは、ただちにその不使用を米大統領に要請したが無駄だった。政治家・軍人たちは絶対的な兵器を手に入れたのだった(よく知られているように、その後オッペンハイマーは水爆開発への協力を拒み、米ソの対立が深まるなかでレッドパージ――赤狩り――に遭いアメリカ社会から追放される。)

 核兵器は人類の破滅をもたらすというより、戦争を終わらせた「最終兵器」とみなされ、以後、悪魔の顔を隠しながら(ヒロシマ・ナガサキの実相は、とくに日本で隠され続けた)力を体現する究極兵器として廃絶されるどころか恒常化してゆく。アメリカでは、戦争が核兵器の開発使用によって終わったとみなす傾向が強い。そうだとすると、サルトルが指摘したように「戦争が終わったのは核兵器によってだとすると、そして今後の世界に核兵器が君臨するとすれば、この終わりはむしろ平和の永遠の終りを意味する」ということになる。

 そして事実、その認識は正しかったことになる。すでに戦争の末期から、水面下で米ソの対立が見え隠れし、アメリカが原爆を日本に対して使用して「力を誇示する」と、ソ連は核開発を加速させ、数年後には原爆を凌駕する水爆を開発して、アメリカを脅かすことになる。

 日本の無条件降伏とともに世界の戦後秩序が国際連合を軸にして作られる。それは憲章に戦争の禁止を掲げた相互安全保障体制と言われるが、世界戦争(第二次世界大戦)の反省をふまえると同時に、すでに見え隠れしていた米ソの対立によって初めから深刻な軋[きし]みを抱えてもいた。

 ただちに米ソの核開発競争が始まる。しかしそれは世界をさらなる破滅に導く「使えない兵器」だ。だからその抗争は「冷戦」と呼ばれる。「冷戦」とは文字どおり「不可能な戦争」、することのできない「戦争」である。そしてそれが「凍結」していたのは「核の火」だけではなく、大戦後に戻ったはずの「平和」でもあった。