自由の条件

――先生はご著書『アナーキズム』の中で「個人の自由はアナーキズムの主張の中核に存在する」と述べておられますね。アナーキズム(無政府主義)には過激な思想というイメージが強かったので、その中核に自由があるというのは個人的にはちょっと意外だったのですが、ここでいう自由とはどのようなものですか。

 そのご質問にお答えする前に、自由と平等の関係についてお話しておきたいと思います。「自由」と「平等」は共にフランス革命で掲げられたテーゼですが、自由を重視する自由主義に対し、共産主義では平等がいきすぎて自由が抑圧されたという叙述をよく見かけますし、実際そのように理解されている人も多いと思います。しかし私は共産主義が平等を実現したことがあるのかということを問題にしたいんですね。

 中国は市場経済を導入した結果不平等が進んだという見方もできるのでちょっと曖昧ですが、北朝鮮を見て平等な社会だとは間違っても言えないと思いますし、昔のソ連に平等があったかというとこれも怪しい。まあ、今のロシアの方がもっとひどいとも言えますが……。

 そうするとですね、自由か平等かということで、自由主義と共産主義を対比するのはあまり的を得ていないのではないかと思うわけです。じゃあその違いは何なのかというと、北朝鮮がもっとも極端な例ですが、政治権力を持っていないと、あるいは政治権力とのつながりがないと豊かになれない。つまり、経済的なものが政治的なものに従属しているか否かという関係性だと思うんですよ。こう言うと、政治家が私腹を肥やすのはどこの国も同じだと思われるかもしれませんが、そこにはやはり大きな違いがあります。

 日本のように自由主義的な国の場合、もちろん自由主義にも問題はいっぱいあるんですけど、お金儲けをしようと思って政治家になる人はあまり多くないと思うんですよ。お金を儲けるだけだったら投資をするとか、起業するとか、他にもいろいろな方法がありますよね。こうした選択肢があるのは、社会が、同質ではなく、互いに異なる機能を持った個人や集団によって構成されているからです。これを「社会的分化」といいますが、この社会的分化が存在するかしないかということが、自由が自由じゃないかの決め手になると思うんです。

 共産主義は政府が中央の集権性を維持しようとして、いろいろな能力を持った人びとが自由に活動する領域を抑圧した結果、社会的分化が不十分かつ非常に歪んだ形態になってしまった。ご質問に戻ると、この社会的分化というものがアナーキズムの議論と深く関与しており、特にプルードン(1808-1865)は社会的分化が自由を作り出すということを非常に重要視しています。

 ――ひとつの社会の中にさまざまに異なる機能や役割があるということが、そこで生きる個人の自由を保障するということですね。一方で、時代は遡りますが、「自由主義の父」と呼ばれるジョン・ロック(1632-1704)の自由はどういうものだったのでしょうか。

  ロックの場合、自由は私的所有権(property)と非常に強く結びついています。自分の身体が自分のものであるのと同じく、自分が農作業などの労働をして得た産物や、さらにはその労働を投下する土地もまた自分のものであるというように、感覚的に広げていくのがロックのやり方です。

 ――所有が自由の条件であると。

 ただ、これには容易に問題を指摘することができます。個人の所有物を勝手に奪おうとする専制君主や共産主義体制といったものへの抵抗の論理としてはたしかに意味があるのですが、では労働を投下する土地を持つことができない人はどうなるのか。土地が有限である以上、人口が増えると必然的にそういう人が出てくるため、土地所有は自由であると同時に他者の排除や支配へとつながってしまう。エンクロージャー(編注:16世紀末のイギリスで進行した土地の「囲い込み」。それまで開放耕地であった土地を領主や地主が私有地化した)がこの問題を孕んでいることは当時も指摘されていましたが、こうした土地所有の両義性を指摘したのがアナーキズム系の議論だったわけです。

 また、ロックの時代は所有というと土地が中心でしたが、18・19世紀になってくるとそれが資本をはじめとした近代的産業に関わるものへと多様化していきます。そのため、ロックの議論がそのままでは使えなくなってきたということも言えると思います。

 プルードンには「所有とは盗みである」という有名な言葉があります。これは今見ても過激な表現ですし、当時も文明の根幹を破壊するものだと非常に評判が悪かったのですが、先ほどの土地所有の両義性からもわかる通り、「所有は正義である」というテーゼと「所有は不正義である」というテーゼは同時に成り立ちます。プルードンの狙いは所有を否定することではなく、所有の不平等性を指摘することでその自明性を掘り崩し、所有の代わりに「占有」という、絶対的ではない使用形態(権利上の事柄ではなく事実上の事柄)を置こうというものだったのですが、その後の結果だけを見ると彼の言語戦略はあまりうまくいかなかったと言えるかもしれません。

 社会契約論

――先ほど共産主義体制のお話がありましたが、国家と個人の関係ということで言うと、ホッブズ(1588-1679)を先駆者とする社会契約論もポイントのひとつになると思います。国家や政治社会がなかった時代の人間は「万人の万人による闘争」状態(=自然状態)であったため、人びとは国家を生み出し、各自がその意志に服従する契約を結ぶことで社会秩序が形成されていった、というのがホッブズの議論の概略だと思いますが、こうした議論とアナーキズム的なものとの関係性としてはどのようなことが言えますか。

  政治思想において社会契約論は今でも重要な意味を持っていますし、現在の各国憲法にもそういう発想はあるのですが、思想史的に見るとそのピークはホッブズやロックが生きた17世紀で、18世紀にはすでに衰退しかかっていました。ロールズ(1921-2002)の『正義論』を社会契約論の復活だという人もいますが、そう言っていいかどうかは議論の分かれるところですし、一般的には19・20世紀にはあまり顧みられなくなっていたということが言えると思います。

 ではなぜそうなったかということなんですけど、政治社会が成立する以前の自然状態――その設定はホッブズとロックで大きく異なるのですが――というものがフィクショナルで、そんなものが本当にあったのかというのが非常に疑わしいんですね。アメリカの先住民社会にあるとか、アマゾンの奥地にはあるかもしれないといった議論は可能かもしれませんが、あまり現実的ではありません。

 社会契約論とアナーキズム的なものとの対比でいうと、前者が人間の自由は政治のレベルすなわち国家と個人の関係によって決まると考えたのに対し、後者ではそれが社会の構造の問題になっているということが言えると思います。さっきも言いましたが、社会的分化が自由を作り出す、この議論が中心なんですね。プルードンは、この社会的分化は国家や主権といった政治的主体によって人為的に進められるのではなく、社会が長い時間をかけて自らそのように展開してきたのだという風に述べています。

 ――社会は君主の威光や各個人の意志に基づく契約によってつくられるのではなく、自律的に分化し複雑化していく。たとえるなら、生物が細胞分裂によって成長してくような感じですか?

 

 そうですね。今で言うとまさにオートポイエーシス(自己産出)のイメージだと思います。プルードンは生物学や博物学、リンネの分類学、それに元素の周期表などにも関心を持っていて、そういった当時の最新の科学を例に出しながら、人間が社会という自然の自己産出に人為によって参加するという議論を展開しています。つまり社会というものは最初からあるわけで、人間が社会と無関係に個人として存在する自然状態という発想はプルードンにはありません。原初の社会は共有的・共産主義的で個々の人間に自由はないが、それが発展と共に分化して自由が実現する、こういう見方をとっています。

 社会契約論における自然状態の設定は当時から人気がなく、否定しているのはプルードンだけではありませんが、個人は社会の中にあっても、というより社会の中にあるからこそ自由なんだと説いているのが彼の特徴でありかつ重要な点だと思います。