――ヴントの内省心理学というのが、無意識を対象とするフロイトやユングの深層心理学へつながっていくという感じでしょうか。
そう言ってもいいと思います。ただフロイトの場合は精神医学と言う形で科学の一角を占めるとも考えられています。特に彼自身は、根拠を問うのは難しいですが、自分の方法を科学的だと信じていました。
フロイトとユングには有名な話があります。ある時フロイトとユングが部屋の中で話していると、乾燥した結果なのでしょうか、家具の中でパリっという異音がしたのです。するとユングが「あと数分のうちにもう一度、この音が聞こえますよ」と言ったのだそうです。
ユングはその音を非常に神秘的なものとして受け止め、また、もう一度それが聞こえるのでは、という神秘的な啓示のようなものを持ったのでしょう。他方それを聞いたフロイトは、この輩とは付き合ってはいけないと思い、ユングと訣別したという話が残っています。
――科学的であろうとしたフロイトと違って、ユングは神秘的なものも認めようとしたわけですね。
そこにはまさに、現代の社会が抱えている一つの問題が現れていると思います。たとえば、WHOは長らく健康の定義をフィジカル(物理的)、メンタル(精神的)、ソシアル(社会的)な「ウェル・ビーイング」(好ましい在り方)だとしてきました。
ところがいまから二〇年ほど前だったと思いますけれども、WHOの総会で、はたしてその三つだけでいいのかという疑義が澎湃(ほうはい)として起こった。では、フィジカル、メンタル、ソシアルに続くものは何かと言ったとき、出て来たのがスピリチュアルだったわけです。健康の定義に、このスピリチュアルなウェル・ビーイングを加えるかどうかということで、WHOはいまだに議論しています。
行動を扱おうとしたワトソンはもちろん「フィジカル」どまりですが、心を扱おうとしたヴントにしてもフロイトにしても、その心というのは「メンタル」までなのです。
でもユングは明らかに、スピリチュアルの領域にまで踏み込もうとした。そこは、いわく言いがたい、つまり科学の言葉ではまったく触れることができない世界。だけど、人間のある種のあり方、それを認めようとする。「スピリチュアル」は「神秘的」とも、あるいは「霊的」とも訳せましょうが、ある種の人びとは「宗教的」と訳しています。それもまた「スピリチュアル」の一つの解釈かもしれません。
――フィジカルともメンタルとも異なる何かだと。
最近非常に興味深いエピソードを読みました。そう高齢ではない女性が、余命いくばくもない、末期がんになられた。病院に入院しているのですが、真夜中に必ずナースコールするのです。ナースは飛んで来るわけですが、そこで三〇分でも一時間でも愚痴をこぼす。間もなく死ななきゃいけないのに誰も親切にしてくれない、辛い、苦しい、といろんなことを言う。それが何度も繰り返されるものだから、ナースたちも次第に行くのを嫌がるようになる。
そういう場面に、通常現代の医者は一切立ち入りません。医師は「科学」の領域においてのみプロフェッショナルである、と言う考えが徹底しているからです。病院によってはお坊さんや牧師・司祭がいて、それこそスピリチュアルなコミュニケーションを試みることはあるわけですけれども、かれらは常時いるわけではないので、そういう場面では、結局はナースが引き受けることになるのが普通です。
ところがナースも毎回そんな愚痴を聞かされていると、ストレスでおかしくなってしまう。だから三回に一回は、コールが鳴っても行くのをやめようということにもなる。
――そうなってしまう気持ちもわかります。
そんなとき、まだナースの資格もない看護学校の学生が、たまたまその夜勤に当たった。二〇歳ぐらいの若い女性です。例によってナースコールが鳴り、彼女がそこへ行くと、患者が散々愚痴をこぼして泣く。その学生はもらい泣きをするけれど、どうすればいいかわからない。
それで、何気なくなんです。別段理屈があったわけでもないし、教えられたことでもなかった、ただ、思いついて、たらいに熱いお湯を入れ、タオルを絞って、その患者の足を拭いてあげた。しばらく拭いてから、ふっと気が付いて、「少しは落ち着きましたか」と聞いたんです。でも、患者さんは黙っていた。それを彼女はじっと耐えていた。
私はそれが偉いと思う。熱湯で拭いてあげたことも、ですが、そこで黙って、答えが返ってくるかこないかも分からないのに、じいっと、同じ時間と空間を共有していたことに、私はとても感動しました。一〇分ほどして、患者は口を開き、「明日からナースコールはやめるわ」と言ったというのです。そして実際にナースコールは止み、一週間ほどで静かに息を引き取ったんだそうです。
――なるほど……
これは、フィジカルな面で言えば、タオルで足を拭いたというだけの出来事です。しかしその一〇分、あるいは拭いているときからの一五分ほどのうちに起きた人間と人間の魂の触れ合い、とでも言うべきことが、その患者にやすらぎをもたらしたのだとしたら、それは単なるメンタルではなく、スピリチュアルな場面での出来事だと言っていいのかもしれないと思います。
人の心は確かに誰も触れられないし、見ることも、味わうこともできない。でも、その人間同士が、場合によってはペットもそうかも知れないんですが、人間と人間とがある時間と空間を共有することによって生まれてくる、一つの場みたいなものを考えてみましょう。
その場の中で交わし合うのは、もちろん「もの」ではないし、通常の意味での「こころ」でさえないのかもしれない。魂の触れあいのような、そういう種類のコミュニケーションが存在する世界を認めるべきじゃないかと思わされます。そういう意味で、人間の心が「メンタル」で止まっていていいのかということも、問題の一つとして残されていると思います。