――スピリチュアルというものがフィジカルやメンタルを超えた何かだとするなら、そこにはやはり各地域の宗教や文化といった共同体の中で共有される価値観が関わってくるように思うのですが、科学的なものの見方が入ってくる前の日本の自然観、世界観というのはどのようなものだったのでしょうか。

 西洋の科学が伝来するまでの日本には、自然についての体系的な考え方として、仏教の「須弥山(しゅみせん)説」や儒教の「蓋天(がいてん)論」「渾天(こんてん)論」というものがあったわけですが、それらが結局インド思想や中国思想からの借用であることを考えると、日本人の自然観をわれわれにいちばん教えてくれるのは『古事記』だと思います。

 古事記では最初に「天之御中主神=アメノミナカヌシノカミ」という神が現れますが、この「アメノミナカヌシ」をはじめとした「別天つ神(ことあまつかみ)」と呼ばれる五柱はみんな独神(ひとりがみ)なんですね。その次に「神世七代(かみのよななよ)」という七代の神が登場し、その三代目からは男女ペアで現れる。

 有名なイザナギとイザナミが、神世七代の七代目で、そこから「国産み」が始まるわけです。日本では、はっきり言えば、性行為によってこの世界が誕生していく。そして、そこで誕生した神々からまたものすごくたくさんの神々が生まれてくるのですが、それらにはみんな名前が付いているわけです。

 風の神、海の波の神、石や土の神、草木の神、山の神、といっても奥さんのことじゃありませんよ。つまり、山川草木、この自然界のすべてにはそれぞれ神が宿っている、あるいはそれら自体が本来神である。古事記にはその神々の名前が、一つずつ書いてあるわけです。

――まさしく八百万(やおよろず)の神ですね。

 そういう点では、たとえば牧畜の民であったユダヤ民族の自然観とは相当違うと思いますが、同じように海に囲まれた環境で生まれた古代ギリシャ文明とは少し似ているわけです。

 ギリシャ神話でもオリンポスの神々というのは山ほどいるわけですが、人間と交じりあいます。『古事記』でも同じで、いつの間にか人間の話になっていきますでしょう。

 黄泉へ行ってしまったイザナミと、それを追ったイザナギとの間に激しい言葉のやりとりが交わされるのも印象的ですね。躯(むくろ)となった姿を見られて怒ったイザナミが「この国の人間を毎日一〇〇〇人くびり殺すぞ」と言い、それに対してイザナギが「それなら私は毎日一五〇〇人の子どもを産もう」と答えるすごいやりとりがありますが、これも人間の話ですよね。

 最初は神さまの話だったのに、いつの間にか人間の話がまじってくる。高天原(たかまがはら)で生まれた神々の子孫が大和民族なわけですから、つまり人間は神すなわち自然から生まれてきたということになるわけです。

――それは、人間が神によって造られたと考えるユダヤ教、キリスト教、イスラムとは大きく異なりますね。

 はい、だから日本では、自然に帰ることも問題がない。もっと言うと、死んで黄泉の国に行ったとしても、生きている存在との間に交流がある、コミュニケーションができるわけです。

 たとえばお盆になると、あっちの世界へ行った人の魂が帰ってきて、私たちと一緒にいてくれる。そしてまた向こうへ戻って行くわけですけれども、そういう行ったり来たりができる。そうすると、死というのがそれほど恐ろしくなくなるのかもしれない。

 行ったっきりで、この世と永久に縁が切れてしまうわけではない。それが日本の死の世界のあり方ではないかと思います。

神の計画

――古事記の世界観で言うと、日本の場合は世界が徐々に生まれていく、ポンポンポンって広がっていくようなイメージですよね。

 そうですね。最初に淡路島ができて、四国ができて、隠岐の島ができてというふうに書いてあります。そうやって本州もできるんですけど、本州は蝦夷地までは筆がはいってない。古事記を書いた大和朝廷の人たちが、そこまでは行ったことがなかったんでしょう。

――ユダヤ教・キリスト教の神は世界を七日で創ったんでしたっけ?

 六日です。六日で創って、七日目に休んだ。

――そうでした。ということは、世界のすべては六日で完成しちゃったわけですね。

 基本的にはそうです。ただ、その完成した中で、唯一未完とも言うべき存在だったのが人間なんです。

――え、そうなんですか?

 他の被造物は神が言ったとおりに動きます。というより、そうとしか動けない。それに対して神は人間に自由意志を、言い換えれれば、自分に背きうる可能性をさえ与えました。ある神学者の言葉を引けば、神は自由意志を与えるほど、人間を愛した。そこが他の被造物と決定的に違うところだと思います。

 そして、まさにアダムは神の言いつけに背いて、食べるなと言われていた知恵の樹の実を食べた。ただ神は、人間が自分に背くことを分かっているわけです。むしろ人間がそのように行動しなければ、この世界は神の計画どおりに動いていかない。

――人間が神に背くことで初めて、神の計画が達成されると。

 そうなのでしょうね。実際には、人間が神の計画に背いているように見えるところがあるのですが、その背くこと自体も、神の最終的な計画の中には入っているわけです。そして最後に、<eschaton>という言葉で呼ぶんですけど、「終わりの日」というものが来て、神の計画が完結する。それがユダヤ教、キリスト教、イスラムの世界観だと思います。

――この世界のすべては、結局は、神の計画の中での出来事なわけですね。

 だから時間が一直線に、ピーンと張られている。ユダヤ教やキリスト教では、イスラムもそうだと思いますが、神がこの世界を創ったときに時間も創ったと言っています。空間も時間も神の創造によるものなのです。神は時間を超越した存在だから「その前」にもいたのでしょうけれど、時間は神がこの世界を作ったときに始まり、神の計画が完結する最期の日に終わる。

――最期の日には時間も終わるんですね。

 それに対してインドでは輪廻(りんね)と言って、時間はグルグル回っており、初めもなければ終わりもない。恐らくはギリシャもある程度そうです。中国の場合は四書五経の中に「世界の始まり」という言葉はあります。ただ時間の話にまでは及んでいないので、明確なアイデアはないのかもしれません。日本もどちらかというと輪廻的で、始まりと終わりがあり、その間にピーンと張られた時間感覚というのは、あまりないのではないかと思います。