―― 『4分33秒』が音楽のストーリー性を否定するものだとしたら、フリージャズなどの即興はまた違ったやり方でそれを揺さぶるものですよね。既存のストーリーに縛られるのではなく、瞬間瞬間に新しい意味を紡ぎ出していくというか。
音楽は生きものなので変わっていくんです。インドの古典音楽では定まった曲というのはむしろ練習のためにあって、真髄は即興です。といってもそれは好き勝手に演奏すればいいというものではなく、季節や時間帯といったさまざまなパラメーターによって、俳句の季語みたいに、というときっと違うんですが、使える音やリズムが決まっている。そのシステムや方法論を修得することで音楽が自分に降りてくるようになるそうです。
そういったインドの音楽では、弟子が先生のお世話をしながら生活を共にする。それによって音だけでなく、生き方そのものを学んでいくわけです。そうした過程を経て出される一つの音には、その人の生そのものが表れると言ったりします。
――それはすごいですね。生きることがそのまま音楽になるというか、音楽によって生きることを学ぶというか。
だから、何をやってもいいという即興もあるけど、多くは何らかの枠組みがある。でも、その枠組み自体も変形しながら進行していく。それに対応できるかどうかが重要なのでしょう。
――即興の醍醐味もわかるんですけど、コンサートで、自分の好きな曲にアーティストがCDにはないアレンジを加えたせいでイマイチ盛り上がれなかった、という経験があります。
そういうのもありますね。
――即興に観客がついていけてないっていうか。
何を求めてコンサートに行くのかって話になってきますね。とにかく盛り上がりたいというのであれば、予定調和の方がむしろ望まれる。クリエイティビティより、定型のストーリーがあればいいということになります。
――曲をいいと思うかどうかって、耳になじんでるかどうかのような気がするんですよね。初めて聞いて「いいな」と思うことって、私自身はあまりなくて、有線でよくかかっているとか、ドラマで何度も流れてるのを聞いているうちになんとなくいいような気がしてくる。
洗脳されてるんですよね。
――特にポップスは、曲がいいからというより、よく流れてるから売れるんじゃないかと思ったりします。もちろん、ぜんぶとは言いませんけど。
慣れれば大体のものはいいんです。いいと感じる。逆に言うと、あまり親しみのない音楽でも毎日聴いているといつの間にかなじむし、さっき言った文法的理解ができるようになったり、それまで聴こえてなかった音が聴こえてくるということはあります。
そういう意味で言うと、何回も聴けるものならいいんです。つまんない曲はやっぱり飽きますから。子どもの頃に流行っていたポップスがテレビで流れていると、懐かしいとは思うけど、また聴こうとは思わない。文学作品もそうだと思いますけど、やはり、繰り返しに耐えられるものがある種の古典になっていくんじゃないでしょうか。聴くたびに新しい発見があるというか。
――なるほど。
それと、クラシックの名曲が何百年も残っているのは、演奏する側でいろんなことができるというのもあると思います。ジャズのスタンダードもそうだし、ポップスでもある種のものにはそういう懐の深さがありますね。
――私がぜんぜん読めないんであれなんですけど、楽譜というのは読む人が解釈をする幅というか、自分なりの表現をしていく余地みたいなものはあるんですか。
かなりありますよ。「速く」って書いてあってもどれくらい速くなのかは人によって違いますし、仮に1分間にどれくらいという指示があったとしても多少は破ってもかまわない。あるいは、ある音に「強く」という指示があったとして、じゃあ、次の音は強くなのか、それとも弱くなのかというのは各自で判断できますよね。もちろんそこには何らかの必然性が必要ですけど、かなりの部分が演奏家の解釈に委ねられている。だから、演奏や編曲は、翻訳と同じようなものと考えたほうがいいとはよく言われますね。
――なるほど。優れた文学作品が国を超え、あるいは時代を越えて翻訳されるのと同じように、優れた音楽も各時代・各地域で何度も、ただし、それぞれが一度きりのものとして演奏されるわけですね。その普遍性と一回性が共存しているところに、音楽の魅力があるのかなと感じました。今日はありがとうございました。
(取材日:2020年9月10日)