――坐禅をはじめとする禅の修行は「悟りを得るためにやるもの」というのが一般的な理解だと思います。でも日本曹洞宗の開祖である道元は修証一等(しゅしょういっとう)、つまり修行に励むことと悟りを得ることは一つだと言っていますね。私は修行と呼べるようなことは何もしていませんが、目的論というか、○○のために××をやるという考え方にずっと違和感があったので、この言葉を知った時にはふっと胸のつかえがとれたような気がしました。

 未来(いつか)に「うまいエサ」を置き、現在(いま)はそれをモチベーションにして一生懸命に頑張る。未来に悟りを得るために、現在の修行があるという理解はまさにその一典型なんですけど、こういうマインドセットには大きな問題があります。それは仏道の立場ではないと道元禅師は見ているわけです。ただ、こういうことを言うと、じゃあ悟りなんてないんですねとか、悟りは無用なんですねといった受け取り方をされることがあるんですが、そうではなく、重要なのはこういう修行と悟りを二つの別なものだとする考え方を乗り越えることなんです。別に悟りそのものを否定しているのではありません。悟りと言っても、その理解が根本的に違っているんですよ。

 僕が長く暮らしたアメリカの人たちは必ずと言っていいほど、坐禅をしたらどうなるんですかとか、坐禅と引き換えに何が得られるんですかという風にまず結果とか効果を聞いてきます。ごく自然にそう考えるようになっているです。もちろん、かれらほどあけすけではないにせよ、こういう手段と結果の関係でものごとを考えるマインドセットは日本人にも共通しています。普通に暮らしていたら自然とそう考えるようになっていると言えます。ではなぜそうなるのかというと、社会全体がそういう考えで動いているから、それが常識だからです。

 なぜ頑張って勉強するのかといったら、いい学校に入るため。なんでいい学校に入るのかといったらいい会社に入るため。なんでいい会社に入るのかといったら裕福になって幸せになるため。……そういう考え方自体に多くの人は疑問を抱かないし、そうした考え方を問題視すること自体が、まるでタブーに触れることであるかのように思われている節もあります。未来にいいものが手に入ることが保証されていなければ、意味も感じられず面白くもない勉強や「ブルシットジョブ」に自分の時間とエネルギーをつぎ込み、精神をすり減らす根拠も意味もなくなってしまうからでしょう。

 でも、当たり前の話ですけど、いい大学を出て一流企業に入ったからといって、必ず幸せになれるわけじゃないですよね。そこには何の保証も裏付けもありませんよね。ものごとはそう単純にこちらの思い通りには進みませんから。でも、それを信じているのなら、それは「まじないにかかっている」ということになります。いわば、すっかり「まじなわれちゃってる」、変な言い方ですけど。

――まじない、ですか?

 これを持っていたら、必ずこういういいことが起こるということを根拠なく信じているのは「おまじない」みたいなものでしょ。当人にとっては極めて特別な意味を持つものなんでしょうが、でも、おまじないの根拠になっている物ってたいてい、第三者から見るとただの紙切れとかネックレスだったり、単なる壺だったりするじゃないですか。禅が強調しているのはそういうものにごまかされない、つまりまじなわれない人間になることだと僕は思っています。そこにすごく健全なものを感じるんです。

 道元禅師は「当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず」と言っています。眼は横に、鼻は真っ直ぐ縦についているという、当たり前のことを当たり前に認得して人に瞞(だま)されることがない、ということです。もちろん、他者だけではなく自分自身に瞞されないことも大事です。要するに、まじないの効かない人間であることです。

 宗教って、多くの場合、まじない的じゃないですか。今こういうことをしたら来世でいいことがありますよとか、今は確かに苦しいかもしれないけど、それは未来でいいことが起こるための試練なのだから耐えなさいとか、こういうのはやっぱりまじない的ですよ。でも、禅が立脚するのは未来とか来世の「いつか」ではなく、常に「今ここの自己」です。禅は「今ここ」と「いつかどこか」という二本立ての「二世界モデル」の宗教ではありません。いわば、「今ここに立つ」という「一世界モデル」の宗教です。そこが僕には魅力的なんです。だから多くの人にとっては、禅は宗教ではないように見えてしまうんでしょうね。「修証一等」というのは、まじないにうっかり引っかからないように、くれぐれもまじなわれないようにという用心の言葉だという風に僕は思っています。

――なるほど、面白いです。

幸せへの道はない

 1995年にベトナム人禅僧ティク・ナット・ハン師がお弟子さんたちと来日されたとき、縁があって通訳をさせていただきました。20日間のツアーが終わってお別れするとき色紙に書いてくれた言葉があります。There is no way to happiness. Happiness is the Way.。このhappinessのところにはpeace(平安)を入れてもいいし、awakening(覚り)とかnirvana(涅槃)でもいいと思うんですけど、これはまさに修証一等と同じ立場です。この言葉は「幸せに至る道などない。幸せであることが道なのだ」という意味です。道が手段で幸福がその結果という関係にはなっていないんです。

ティク・ナット・ハン師からもらった色紙

 普通、僕らは幸せに至る道があると思っていて、その道の果てに幸せが待っていると期待しています。今はまだその道が見つかっていない、あるいはその道の途上にいるから幸せじゃないんだけど、その道を歩き続ければいつかその道の果てで幸せに出会えるはずだ。そう信じて、これこそ間違いないという道を必死に探したり、やっと見つけた道の上で先を急いで懸命に歩きます。でもこれってさっき言った「まじない」的じゃないですか?

 こういう立場で道を歩いているとどういうことになるでしょうか? あの人は自分とは違う道を行っているようだけど、もしかしたらあっちの道の方が正しいんじゃないだろうか。この道で本当にいいんだろうか。この道はあとどれくらい続いているんだろう。自分に道の果てまで行ける能力があるんだろうか。それだけの時間が残されているんだろうか。もっと早く歩かないと間に合わないんじゃないか……。こういう不安がいつもつきまとうことになります。

 また、こういう人にとっては、道の途中で出会うものはぜんぶ邪魔ものに見えます。歩みをスローダウンさせ、目的地への到着を遅らせるものになるからです。道の果てにゴールのテープがあって、それを切らないと幸せをゲットできないのだと考えていたら、一刻も早くテープを切りたいと思うのが人情ですよね。そういうマインドセットの人にとって、ちょっとおしゃべりしましょうよとか、一緒に食事しませんかとか、ここに面白いものがあるから寄り道しませんかと言ってくる奴は邪魔者でしかありません。「うるさい!邪魔だ。あっちへ行け」ってなりますよね。

 それに、ちょっと立ち止まって周りの風景を楽しむような余裕は持てませんね。道端の風景が目に入らないんですよ、先を急いでいるから。昔は、鈍行列車というのがあって窓から外を眺めていたら、ああ、山が色づいてきたなとか、お百姓さんが稲刈りしているなとか景色がよく見えたんですけど、今の新幹線だと速すぎてよく見えないし、最短ルートを通るためにトンネルがやたら多いので、車窓からの眺めを楽しむどころではありません。そういうのがway to happinessの世界じゃないですかね。

 でも、ティク・ナット・ハン師は道というのはそういうものではない、wayとhappinessの二つが別々にあるのではないのだと言っています。道元禅師も修と証を両段に分けて、二つの別なものとして見るのは仏道の立場ではないと言っています(「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり」)から、道元禅師は曹洞宗の系譜に属し、ティク・ナット・ハン師は臨済宗の系譜に属する方ですけど、そこは共通しているんですよ。

 じゃあどうなっているのかというと、happiness is the way 、幸福が道になっている、幸せと道は一つだというわけです。ティク・ナット・ハン師のこの言葉のおかげで、自分は「修証一等」を看板にしている曹洞宗の僧侶であるにもかかわらず、「涅槃への道がある」というマインドセットのままで、「ちからをもいれ、こころをもついやして」修行をしていたことに気づかされました。道元禅師の「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」という言葉を文字としては知ってはいましたが、実際はそれと反対のことをずっとやっていたわけです。とにかく少しでも早く、何か確かなものを得なければと前のめりになり、肩に力がガチガチに入っていました。

 ティク・ナット・ハン師が私のありようを見て、こういう言葉を色紙に書いてくれたのかどうかはわかりませんが、当時の私にはまさにぴったりのアドバイスになってくれました。ほんとうにありがたく思っています。

――幸福が道になっているというのは、もう少しわかりやすく言うとどういうことですか。

 幸福は道の果てに待っているのではなく、道を歩いている今の行為の中にすでにあるということだと思います。その上を私が歩くからそれが道になる、歩くという行為がその時そこに道を作り出しているというのが禅の見方です。歩くことと道が別々にあるのではありません。その歩き続ける行為そのものが幸福なのであって、幸福というはるか先のゴールに到達するために歩いているのではないのです。想像上の幸福ではなく、今の一歩の歩みがリアルな幸福に触れることになっている、幸福の証(あかし)になっている、そういう道こそ本当の道なのだというのです。だから、歩みが止まることはありません。歩みが止まったら道も止まります。

 だから、道元禅師が言うように、修行は無窮なんです。窮まることなく無限に続いていく。その歩み続ける姿そのものが、そのままとりもなおさず悟りや証の表現、実現、証(あかし)になっているんです。まだここにはない成果をめざして歩くような道ではなく、今の一歩一歩の中にすでに成果が現れているような道です。だからそういう歩み(修)には先へ先へという焦りがありません。そして、修を通して出会うものすべてが証からのメッセージになっているのですから、大事なのはそれときちんと出合い、聞き取ることなのです。

 大乗仏教は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」を説いて、生きとし生けるものはすべて仏になることができると説いています。しかし、道元禅師はこの言葉を、そういう可能性の話としてではなく、私たちはすでにして仏性の実現であり、だから仏としての修行をするのだというように現実性の話として受け取っています。修行によって悟りをひらいて仏になるのではなく、今ここで修行している人を仏と呼ぶのだというのが道元禅師の見方です。修行という行為と別に仏が存在しているのではありません。仏は名詞的に存在しているのではなく、「仏する」という動詞的ありかたをしているとも言えます。仏する、つまりそれが修行だということです。

――修行をやめた途端に仏ではなくなってしまう。だから、修行と悟りは一つだということなんですね。

 多くの人は、悟りというと一回的で特別なブレイクスルー体験のようなものを想像すると思います。そういう経験自体はないわけではありませんが、それは禅で言う悟りではないと思います。アメリカにいたときに僕はよく、Satori is not a noun, it’s a verb.と言っていました。悟りは名詞ではなく動詞だと。だから、ポケットに入れて持ち歩くようなものではなく、常に今の行為を通して悟りを生成し続けていなければなりません。I got satori yesterday.と言うことはできなくて、常に現在進行形で今の具体的な行為として表し続けることしかできない。だからこそ、禅の指導者は「お前が悟ったと言うなら、その悟りをここに出して見せてみろ」と弟子に迫るわけです。

――行為としていつでも示せるものこそが悟りだと。

 悟りは名詞ではなくて動詞だという言い方には実は元ネタがあって、God Is a Verbというユダヤ教神秘主義のカバラについての本のタイトルに触発されて、なるほど、道元禅師的にいうと悟りは名詞じゃなくて動詞にしなくちゃダメだなと思ったんです。Godは現在進行形の働きそのものなんだということですが、それは諸行無常というダイナミックな世界観を持つ仏教にもぴったりの言い方だと思います。

 僕はあまり詳しくは知らないんですが、サンスクリットやパーリ語っていうのは動詞中心的な言語だそうです。英語をはじめとするラテン語系の言語は名詞と名詞の関係を重視するので、I am a boy.のように「私」という人称代名詞と「少年」という名詞同士を同じものとしてくっつけるので名詞中心の言語と言えます。そうではなくて、「少年している」っていうように動詞的に言う言い方があるらしいんです。つまり言語の背景にある世界観が相当違うわけです。

 名詞中心か動詞中心か、その違いが、あらゆるものを原子のような最小構成単位に還元しその位置と運動によって世界を記述しようとする西洋と、世界を変化の相のもとに変化のままに見ようとする東洋の違いにもつながっているように思います。仏教は明らかに後者なので、悟りや涅槃も動詞的に捉えるべきなのですが、実際には名詞的なニュアンスで語られ、理解されているのは問題だと思います。