包摂と対抗

島薗 近代国家というものは、ホッブス、ロック、ルソーといった古典的な社会契約説を基盤とした立憲主義の形態から始まり、フランス、アメリカの両革命を経て出来上がってきたわけですが、そこでは伝統的な権力に対する自由の拡大、そして基本的人権の拡充、すなわち個人の自立が重要だということで、それが近代リベラリズムへとつながっていた。その時は、とにかく抑圧的な権力と個人の自立が対立するという構図だったと思うんですね。ところが、それが進むと、バラバラになった、芥子粒(けしつぶ)のような個人が統合性を失って漂流する。そんな世界になってしまうという危惧が、かつては伝統的な秩序の側から投げかけられていました。

 それこそデュルケムの「アノミー」という言葉――これは『自殺論』で用いられた用語ですが――が19世紀の終わりに出てくるわけですが、これは現代人の感覚にもかなりフィットするのではないかと思います。あるいは、「個人主義の限界」というようなことも言われています。私が翻訳を一部担当したロバート・ベラーの『心の習慣』(1985年)という本がありますが、これはアメリカ個人主義の限界についての本です。つまり、個人の権利を主張することが新しい物語だという主張、これが近代国家の古典的な形態というか、立憲主義の基本的な前提だった。日本国憲法も成立時にはそういう形で受け取られてきたし、憲法学者もそういう理論構成でやってきた。しかし、それがここにきて、限界を迎えているのかもしれない。

  さっきの松平さんの話にもありましたが、自分一人で生きてるんじゃない、生かされているんだというのは、私はそのとおりだと思うんですよ。それは日本のさまざまな宗教が言ってきたことだし、宗教団体には属さないけどスピリチュアリティを大事にする人なんかも「そうだよね」と言うかもしれない。新しいエコロジーの考え方ともつながっているし、もしかすると世界的な共感を得られる面もあるかもしれない。つまりこれは、新しい物語とつながるような個人の捉え方だと思うんですよね。

 それと関連して、松平さんのコメントにあった「宗教的情操を内包するかぎり物語はなくならないが、それは包摂型から対抗型に移行する傾向にある」という議論の「包摂」と「対抗」を少し違う捉え方にしたいという印象を持ちました。

「包摂」というのは現代において、さまざまな弱い立場の人も含め、すべての人がその人として認められる、「あらゆる人の承認」とでもいうような意味で用いられています。そこでは個人の自立ということをあまり主張しない。憲法でいうと生存権を保障している25条に対応するような内容です。こうした傾向は、自民党の改憲案が「個人」の「個」を削除するということと波長が合ってしまう面もあると思うのですが、アトム的個人主義の限界が世界的にも認識され、自立した個人がばらばらに存在しているのではなく、つながりの中に生きている人間ということをもっと重視すべきじゃないかと考える人が日本でも多くなってきた。つまり、どんな人も孤立しないようにする、これが包摂ではないかと。

 一方の「対抗」は、そうやって人びとがつながり合っていくんだけれども、全員が一つになることはできないので、さまざまなつながりや共同性が多元的に存在し、時には対立することもある。他者というのは、江藤先生の定義でいうと、一つの共同性にはくみ取られない形での連携がさまざまにあり得る人間のことですが、そういった他者が共生できる社会。それは、近代立憲主義の「国家VS個人」という図式ではあまり重視されてこなかったけれども、戦後の政教分離を経て、多様な信念や観念の人びとがそれぞれの物語を持って共存する「新しいバージョンの立憲主義」というふうに、松平さんの対抗型を捉えることができるのではないか。ノモス論というのは基本的にそういうものを志向している議論じゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

江藤 私はそのような理解でおります。松平先生の包摂・対抗のタームの趣旨とは異なりますが、包摂できない絶対的な他者がいるという認識が、これまでの立憲主義の理解には欠けてきたように思います。近代国家はその帝国主義的な成り立ちからして、植民地獲得競争に代表されるように、すべてを包摂しようとする傾向があります(排除による包摂です)。そのひずみが今日でもさまざまな形で出てきていて、新自由主義と呼ばれる傾向(競争の名の下の排除)もその一つだと思います。もしもその近代国家の概念を突き動かせるものがあるとすれば、それは「我ら日本国民」という安易に一括りされた概念に反省を迫る「他者」ではないかと思います。

 日本社会の文脈で考えると、いま自分は居心地よいと思って暮らしているこの社会を、居心地悪くするような人たち。かれらとの接触を通じて自分自身のアイデンティティーの輪郭を定義し直していく試み、それこそが近代国家がダイナミックな発展を遂げる上で不可欠な営為であって、その意味での包摂をめざさなければいけないと私自身は考えています。

松平 そこはおそらく島薗先生、江藤先生のお二人と私とで見解が異なる部分だと思うんですけども、私が申し上げたかったのは、決して包摂型が望ましいということではなく、端的に言うと、法規範と宗教におけるドグマの決定的な違いについてです。法規範は一般性を基本においていますから、誰に対しても適用されるものとして、暴力性を帯びている。ロバート・カバーが、リベラルな法は暴力的だといったとき、この法の一般性を念頭においていたと思います。とりわけ社会的諸事象の自律性をも規制してしまう点で、法は宿命的に暴力的にならざるを得ない(高橋哲哉ほか編『法と暴力の記憶』東京大学出版会、2007年参照)。だからこそ私は立憲主義の一本足では絶対にうまくいかないと主張しているわけです。それが学会では非常に評判が悪いんですけども。 

島薗 立憲主義一本足じゃないとすると、他に何が必要なんですか。

松平 宗教、あるいは宗教という形を明確にはとらない他の物語との共存可能性を考えるべきで、ここまでは多分お二人とも合意できると思います。ただ、たとえばさきほど江藤先生が絶対的な他者とおっしゃいましたが、法規範を超越的次元のノモスとしてとらえる限りは、絶対的他者を相手にすることは不可能ですよね。 

 ジャック・ランシエールというフランスの哲学者が、デリダの民主主義論はじつはレヴィナスの他者論の影響を受けているから限界があるといっています。このレヴィナス・デリダ系列の他者論は、はっきりいって幽霊の議論なんですよね。絶対的他者というのは、要するに神様か妖怪、獣です。ランシエールは、民主主義は神以下で妖怪や獣以上のものである、その意味で民主主義的他者は外からやってくるものであってはならないとデリダの議論に異を唱えるわけですが、それ以上に、外国人差別をかえって強めてしまう他者論の危うさを指摘していると私は見ています。

 いまフランスでこれだけ極右がはびこっている理由も、これで説明がつきます。ネオリベというのは商品として流通できる物なら何でも受け入れるわけですが、ネオリベ経済(市場国家)への反発が招いた事態を人的他者への恐怖(安保国家)に誘導していると、じつに鋭い批判をランシエールはしています。

 ランシエールは、他者は内部にいるのだと強調します。国家制度はその構成員=国民が自ら納得するものでなければいけない。自分が属するこの政治的共同体が、とある原理に基づいて動いていることを理解して受け入れる。物語の機能はまさにそこにあるわけです。そういう意味でも他者は、絶対的ではなく相対的な存在です。つまり、日本社会の中にもさまざまな他者がいるわけで、そのさまざまな他者が他者同士として対話をし、合意形成をめざす。それが一応、私が包摂型と対抗型についてもっているイメージです。

変遷する国家の物語

島薗 そんなに違わない立場に近づいてきた気がして良かったと思いますが、順を追って見ていくと、まずは岸信介や福田赳夫の神権的国体論の路線があり、その後で京都大学の佐藤幸治先生が主張する路線が出てきた。佐藤先生の議論を要約すると、神権的国体論に戻ることはすぐにはできない、あるいは現代ではそうはいかないだろうと。だからネオリベと安保、経済と安保の国家なんだと。

松平 そうですね。「市場国家」といわれています。 

島薗 これはつまり、国家の権威を強調する政治体制を志向していると思うんですね。「市場国家」ということであれば財界からも支持が得られるし、国民の中にも支持する人はいる。国を守るということは当然じゃないのという人たちにも響きがいい。ただ、国家を強調することによって、憲法13条の基本的人権や25条の多様な人が共に生きていけるあり方、さらにはさまざまなノモス――その中には伝統的なものも新しいものもあるかもしれない――、そういったものが軽視され、国家のノモスに一元化される。これが日本の右派の特徴だといえます。

 統一教会は韓国ナショナリズムであるにもかかわらず、「美しい日本」の国柄を尊ぶ保守の人たちがなぜ、日本国民を犠牲にしてまで尽くすのかという疑問は多くの人が持ったと思いますが、彼らにとって統一教会は、国家の権威を強化するのに役立つということだと思うんですね。そういうタイプの国家主義が、一方で、プーチンやトランプとも共通しているようにも思える。つまり、現代の立憲主義がノモスを掲げつつ対抗すべき相手は、そういうところにあるんじゃないかと思うのですが、江藤先生、いかがでしょうか。

江藤 難しい問いですね。まず、国家のノモスを語ることは、決してやめられないと思うんですね。日本に限らずどの国であっても。私たちは基本的に国籍というのを与えられていて、国家と関係を取り結んでいます。自分はアナーキストだと言うのは簡単ですけど、松平先生がおっしゃったように法には一般性があるので、たとえば税金は誰にでもかかってくるし、自分だけ逃れるということはできない。

 すると普通は、なぜ自分は国家に従うのかを問うプロセスが出てくると思うのですが、なぜか日本ではそれが出てこない。なぜ国家に従わなければいけないのかというのを、私たちは問わない。その原因は、一つにはそれが「国民」――まさにカッコ付きの「国民」なんですけども――にとってのパレート効率性、すなわち「誰かの状況を改善しようとすれば、他の誰かの状況を悪化させることになる」状態にあると信じて疑わないからです。私たちはどういうわけか、この共同体の中での資源の配分のあり方が最適であることを疑わないわけです。

 それが恐らく、日本型ナラティブの欠点です。ナラティブが必要なのはなぜかというと、われわれはなぜ法に従うのかという問いへの答えが知りたいからなのです。ところが、その問いが主題化されないので、なんだかよく分からないうちに既得権益が生まれて、それが既成事実となってしまう。そのときに、「改善しようとすれば誰かが犠牲になる」というような精神構造だと、今回の統一教会がまさしくそうですけども、不合理なナラティブに対抗できない。そこに一番の問題があると思います。 

 国家のノモスが説かれることは避けられないし、それは諸外国も同じですが、私たち自身がそのナラティブの妥当性を常に吟味できるだけの力量を、他者との関係を通して築いていかなければいけません。

島薗 最初の江藤先生のお話の中に、国家というのはそもそも近代的なものだというのがありました。今のお話は、その近代の国家の存立根拠を明らかにしようとする西洋の憲法学なり国民性なりに対して、日本人にはそういう問いがないということですが、私は最初のところで引っかかったんですね。つまり、国家って近代以前にもあったんじゃないかと。

 それからネイション、国民ですね。これもヨーロッパでは比較的新しいものだとされていますが、地域によって違いがあるんじゃないかと。この辺はいろいろな議論があると思うのですが、近代以前からある国家の物語の意義も無視できないほど大きい。私は東アジアというのは西洋の歴史を越えて存在する国家、それこそ神話時代にさかのぼる国家観を持っているという点で手ごわいし、そういった問題意識も必要なんじゃないかなと思うんですが、松平さんいかがでしょう。

松平 東アジアの神聖国家については別の機会に議論させていただくとして、岸信介と福田赳夫の国家観については私も島薗先生とほぼ同意見です。つまり彼らは、立憲主義にもとづく国家を信用していなかったのです。日本という国民国家は近代よりはるか前から存在していると考えていた。そこのところが上杉慎吉や美濃部達吉との決定的な違いではないかと思います。江戸以前の日本についての美濃部の記述を読むと、やはり近代国家の眼鏡で近代以前の日本を捉えているんですよね。それに対して岸も福田も、そういった西洋近代の言説、あるいは憲法による国家やナショナリズムとは違う何かを求めていたようにみえます。そして二人とも、ある意味ではアジア主義であったわけです。

 岸は満州国に関わっていました。福田赳夫も、非常にアジア的な視野を持った政治家だったことは間違いありません。それは息子の康夫元首相にも受け継がれています。福田康夫元首相は清和会の政治家にしてはめずらしく中国との友好関係を重視していて、ネトウヨから親中だとか反日だとたたかれています。岸と福田が感じていた日本とアジアとのつながりをどう考えたらいいのかというのはあるんですね。

 ただ、江藤先生も私も憲法学者をやっている限りは「西洋近代」という眼鏡=意味づけ図式で日本を見ざるをえないし、少なくとも外見上、普遍性の物語が必要だとどうしても考えてしまうのです。その点、永田町も霞が関も同じです。たとえば政策立案や法案審議のとき、この問題は国際的にはこうだ、グローバル・スタンダードはこうだからというと、通りやすいということがあるわけです。

 一方で、日本的な特殊性。小熊英二さんが『日本社会のしくみ』(講談社新書)の中で、日本の企業・団体の構成原理は、明治期の役所と軍隊から来ているということを強調されています。私は日本社会が国家神道や軍国主義となかなか縁が切れない根本的な原因はそこにあると思っています。つまり、日本社会のかなり多くの人が組織されることを、そして軍事組織・官僚組織の特質から、一神教的な何かによる組織の正当化を自ら望んでいるのではないかと。

 宗教の語源になった「religio(レリギオ)」というラテン語がありますが、この言葉は本来、超越者と信者との関係を指すものです。つまり、超越者である神と一人の人間が向き合っており、その人間が神を信じる限りにおいて、神の言葉が彼、彼女にとって従うべき命令となる、という構造です。しかし日本社会では、宗教は超越者と個人を結びつけるものとは考えられていません。宗教を媒介にして、むしろ人と人を結びつけ、あるいは人びとを「縛りつけ」てきたのではないでしょうか。

 宗教的なものにはもちろん、人びとの連帯を下支えする――島薗先生はお若いときに書かれた論文の中で「生命主義的連帯」という言葉を使われていますが――という面があります。一方で、憲法的価値と親和的な連帯のあり方を考えるとき、日本の現状は自由意思と平等にもとづく対話と相互理解という方向にはなかなか行かない。こうした現状に対して、江藤先生からは文句ばかりいって処方箋は出さないのかと怒られそうですが、なかなか難しい問題だとあらためて思った次第です。 

島薗 今のお話で出たreligioというのはreligionの語源ですね。ラテン語から来ていて「再結」と訳したりしますが、超越者との関係を結び直すという言葉です。それに当たるようなものが日本語にはなくて、日本人は自ずから結び付いている関係の方へとなびいてしまうんだ、ということを言われたのではないかと思います。時間になってきましたので、江藤さん、まとめをお願いできますか。

江藤 きょうの問題として「西洋VS日本」という構図がまずあり、しかし西洋もわれわれが考えているほど単純ではないと。実際にはもっと複雑な歴史や伝統を背負っているのであり、それは日本もまた同じであると。そして、いくら普遍とはいっても、西洋と日本は地理的に区切られているし、言語も異なる。そういった文化的な背景の違いがある以上、思考の安易な統一は望めないだろうと思います。 

 その中で、日本は自身の近代国家としての立ち位置を今後はどのように定義していくのかが問われています。これまでのように西洋化一本で行くのか、それとも昨今勢力を増してきている日本会議が主張するように、国家神道的なナショナリズムへの回帰を望むのか。あるいはそのどちらでもなく、アノミー的な生がまん延し、流されるがままの無定型なナショナリズムが発達していくのか。現実を見ると、将来に対しては悲観的にならざるを得ません。

 ただ、物語論の重要なところは、物語はそう簡単には書き換えることはできないということです。物語というのは伝統と歴史の中で徐々に生成されてきたものなので、良くも悪くも、少しずつしか変化していかない。そういう意味では漸進的な努力しかあり得ないのですが、その中で私が強調したいのは、国民の福利と幸せの増大、それこそが国家の存在意義であるということです。これを覆そうとする言説は即ち近代国家の否定であって、これに対しては憲法学は厳に抵抗していかなければなりません。

 国家が自己原因ではなく、やはり私たちの幸福が自己原因である。しかし、そうは言っても個人は多様であるから、その全員の幸福を平等に実現することはできない。その中で、一体どういう統治の仕組みを持てば、私たちは幸せを実現していくことができるのか。幸せを実現するというと国家を超越した共同善を語っているようにも聞こえますが、憲法学として議論が必要なのは善を実現する前提となる基本条件、あるいは個人の潜在能力を最大限に実現できるようなあるべき制度論です。明快な正解は直ちには見つかりませんが、そういった統治の仕組みを語ることからしか今後の道は開けてこないだろうと考えています。

島薗 ありがとうございました。物語論というのがどういうふうに国家神道や立憲主義に関わるかということを話し合ってまいりました。憲法というものを理解しておかないと、国家神道についての議論も現代の政治と宗教についての議論も印象論に流れてしまうきらいがあります。こういった問題は、国家制度の基本、そもそも国家とは何かといったところから解きほぐして考えていく必要があるということが改めて理解できたと思っております。


※本稿は2022年10月15日より配信されたNPO法人東京自由大学の講座「国家神道と物語論」の内容に一部加筆・修正を加えて作成しました。