日本のハンセン病対策
日本におけるハンセン病対策の法律は1907年(明治40年)に制定された「癩予防ニ関スル件」が最初です。これは浮浪者のなかに含まれる患者を取り締まるもので、見つかった患者たちは全国に5つ(この他、植民地支配下の朝鮮に1か所)創設された公立療養所に収容されました。ハンセン病患者が人目につく場所を自由に動き回ることは、日露戦争に勝利し、「文明国」の仲間入りを果たした日本にとって「恥ずべきこと」だとされたのです。
国によるハンセン病患者の社会からの排除は、1931年(昭和6年)改正の「癩予防法」によって極まります。在宅を含む全患者を根こそぎ療養所に収容する「絶対隔離」が実施されたのです(これに伴って新たに8つの療養所がつくられ国立13ヶ所となります)。当時の衛生行政を担当していた警察は、住民からの密告を奨励し、患者の家を一つ一つ特定していきました。ある日突然サーベルをさげた警官が玄関に現れ、家族から引き離されていく患者の苦悩は一体どれほどのものだったでしょうか。
この「絶対隔離」が欧米諸国にならったものであることは言うまでもありませんが、もうひとつ、見逃すことのできない事実があります。それは、癩予防法の公布された昭和6年が、満州事変の勃発した年でもあるということです。この法律はその後15年に及ぶ戦争の進展とともに、「健全な=戦争に役立つ」国民とそうではない国民を選別するという色彩を色濃くしていきます。このように、戦前のハンセン病対策とは、患者の立場や人権を考慮することなく、その時々の国の都合によって決められたものだったのです。
ながらく効果的な治療法のなかったハンセン病ですが、1943年、太平洋戦争真っ只中のアメリカで「プロミン」という特効薬の効果が確認されます。これを受けて1950年代以降、世界の国々では隔離政策が廃止され、元患者の社会復帰が実現しました。プロミンは戦後日本にも普及し、ハンセン病は完治する普通の病気となります。にもかかわらず、「癩予防法」を廃止し、新たに公布された1953年の「らい予防法」により、日本ではあろうことか、隔離政策が継続されたのです。
これには、当時療養所の園長を務めていた光田健輔(長島愛生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)、林芳信(多磨全生園)の国会証言が大きな影響を及ぼしたと考えられます。彼らは患者の数が漸減(ぜんげん)していることを論拠に、隔離の正当性を訴えたのです。しかしこの主張に、科学的根拠はありません。先述した通り、ハンセン病は感染しても発症すること自体がまれな病気です。「石鹸と水道のある国にハンセン病は存在しない」とも言われています。つまり、患者の数が減ってきたのは日本社会の衛生状態が向上したからであり、隔離政策の効果ではないのです。このことを、ハンセン病の専門医でもある園長たちが知らないはずはありません。彼らの胸中に何があったのかは定かではありませんが、こうして科学的根拠に基づかない隔離は1996年の「らい予防法」廃止まで続き、元患者たちの自由と人権は著しく侵害され続けたのです。