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 ふるさとの家を思う

ふるさとの家を思う日
わたしの心は暗い

わたしが癩になった日から
ふるさとの家は灯が消えた

暗い空洞のような家の中で
父は
いつまでも顔をあげず
母は
愚痴にあけくれ
妹は
嫁にゆけぬ青春をのろい
弟は
みんなの不安にうちしおれ
ふるさとの家は笑いを忘れてしまった
死のような十年が過ぎ
わたしは新薬プロミンのことを知らせた

ふるさとの家は
十年ぶりに灯がついたようだと
父より便りが来た

しかし その後一年
曲がった指が伸びたか
脱落した眉毛が生えたか
わたしはなんと便りを書こうか
いま やっと明るんだ
ふるさとの家の灯が
また 不安におののくのを感じる
うそを書こうか
真実を書こうか

ふるさとの家を思う日
わたしの心は暗い

一九五〇、七、二七

 この詩はハンセン病療養所の入所者である島比呂志(1918年~2003年)という方によって書かれたものです。病気によって、自分だけでなく、家族の希望や平穏な暮らしまでもが奪われてしまった苦悩が伝わってきます。一体なぜ、このような状況が生まれてしまったのでしょうか。

 ハンセン病(過去には癩病・らい病と呼ばれていました)は細菌によって皮膚や末梢神経が侵される慢性の感染症です。固有の皮膚症状や手足の変形などが見られ、進行すると指の欠損や失明に至ることもあります。この病気の歴史は古く、聖書にはイエスがハンセン病患者を癒した「奇蹟」が記されている他、日本書紀にもハンセン病を患った造園職人が登場します。目につく箇所に症状があらわれることもあって差別の対象となり、前近代までは家族と縁を切って物乞いになる患者が多かったようです。それでも社会から排除されるということはなく、ある程度は自由に生きていくことができたといえるでしょう。

 1873年(明治6年)、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン(1841年~1912年)によって原因菌である「らい菌」が発見されると、この病気の見方は大きく変化します。外見に特徴的な症状があらわれるというだけでなく、感染する病気として、それまで以上に忌避されるようになったのです。ここで強調しておきたいのは、ハンセン病は、免疫力の低い乳幼児期に患者と濃厚に接触しない限り、感染はすることはまずないということです。たとえ感染したとしても、発症するのはごくまれな病気です。

 にもかかわらず、菌の発見者であるハンセンは患者を社会から隔離すべきだと主張し、各国の行政もそれに従いました。その背景には、19世紀後半が細菌学の勃興期であり、同時期に原因菌が発見されたコレラやペストの影響があると考えられます。感染症であるというだけで、多数の死者を出すコレラやペストと同一視され、「恐ろしい伝染病」という誤った考えのもと、ハンセン病にもこれらと同様の隔離措置がとられたのです。