釈尊と遊女
前回は、釈尊が遊女と心中するという筋の洒落本をとりあげました。何ともひどい話ですが、実は仏教は早くから遊女と関係がありました。そこで今回は遊女の話です。
インドでは遊女をヴェーシュヤーと呼びます。ただ、これはどちらかというと高級な部類を指しており、実際にはいろいろな種類がありました。いや、あったそうです。私は講談師でもないのに、見て来たような語り口になりがちなので、気をつけないと……。
古代インドの性愛の聖典である『カーマ・スートラ』の娼婦篇では、娼婦を九種に分類しています。ただ、これは今日のいわゆる娼婦とは異なっており、結婚以外の形で男性と関係を持つ者を片端からあげたものです。
そのうち、最下級の者はクンブァダーシーであって、汚れ仕事をする奴婢[ぬひ]女というのが原義です。次はバリチャーリカーで、家の主人と私通する婢女[ひじょ]。次のクラターは、夫がありながら他の男と密かに関係を持つ者であって、スヴァイリニーは、夫を持っていて大胆に他の男と交わる者です。こうした区別は必要なのか?
続いては、ナティー。芝居や歌舞をする妓女であって男と夜を共にする者です。次は細工物の飾りを作る商売を表看板にし、裏で売春もするシルパカーリカー。次のプラカーシヤヴィナシュターは公娼だそうです。次はルーパージーヴァー。ルーパは美貌、ジーヴァは生活ですので、これを結びつけて女性形にすると、美貌によって生活する女、という意味になります。前のプラカーシャは輝きの意ですので、この二種類は、まさに容色を売り物にする遊女ですね。
問題は最後のガニカーであって、これは名声を有する上級の遊女を指します。『カーマ・スートラ』では、頭から足まで飾りを身につけ、豪華な家具を具えた立派な邸宅を建て、多くの奴婢を有する者としています。王族・貴族や大金持ちの商人などの相手をするタイプであって、教養に富み、音楽その他のさまざまな技芸に通じていたようです。仏教経典には、この類の遊女がしばしば登場します。
その代表は、アンバパーリーです。アンバパーリーには異なった伝承が多いのですが、釈尊当時に商業都市であったヴァイシャーリーを代表する美しい遊女であって、広壮な邸宅を有していたことは事実です。
釈尊の一行がヴァイシャーリーを訪れた時、アンバパーリーは釈尊のもとにおもむき、釈尊と弟子たちのために翌日の食事の供養を申し出て承諾されました。その後になって、ヴァイシャーリーの名家の者たちが供養を申し出たものの、アンバパーリーは譲ることを承知せず、釈尊も彼女との約束を守ってその供養を受けたと伝えられています。
アンバパーリーは、郊外の園林を釈尊に寄進しており、これが祇園精舎とならんでインドの五大精舎の一つとして数えられる菴摩羅樹苑精舎[あまらじゅおんしょうじゃ]です。アンバパーリーは年老いて出家しますが、初期の尼僧たちの感慨の詩を編纂した『テーリーガーター』には、美しかった自らの容貌の衰えを語り、「真理を語るお方(釈尊)」が説かれた言葉の正しさ、つまり無常の教えの正しさを讃えたアンバパーリーの連作の詩偈[しげ]が収録されています。
善財童子を導く遊女
東海道五十三次のモデルとなった『華厳経』の入法界品[にゅうほっかいぼん]は、善財童子が法を求めて53人の師を歴訪する旅が描かれています。その旅では、菩薩などだけでなく、僧や尼、男女の在家信者、長者、神、商人、細工師、船頭、国王、少年少女など、様々な階層の男女や神々などに教えを請うており、中でも注目されるのが、ドゥルガ国のラトナヴィユーハという都市の大邸宅に住んでいたヴァスミトラーという名の遊女です。
この遊女は、人々が欲望に駆られて私のもとにやって来ると、欲望から離れると善財童子に説きます。ある人々は私の姿を見ただけで、あるいは話すだけで欲望から離れ、ある人々は私を抱きしめるだけで欲望から離れた状態になるというのです。
善財童子がヴァスミトラーに「聖者よ」と呼びかけ、どんな善根を積んでそうした成功をおさめたのですかと尋ねると、彼女は、過去世に自分がある長者の妻だった時、仏が自分の住む都にやって来られたため、宝石でできた一枚の貨幣を供養したところ、仏に従っていた文殊菩薩が私を悟りの道に向かわせてくださったのです、と告げたのでした。
ヴァスミトラーはもちろん架空の存在ですし、私を抱きしめるだけで欲望から離脱できるとするのは無理な話であって、これが後の密教に受け継がれると、『理趣経』のように男女の激しい欲望も清らかであるといった主張に展開していきます。
日本仏教における遊女
このように、インド仏教では、遊女が発心して指導的な立場につくことを不自然とみなしていませんでした。その伝統は、形を変えて日本にも受け継がれます。つまり、有名な遊女が実は菩薩の化身だったとか、遊女が我が身を歎いて心から往生を願ったため、世の俗人などと違って見事に往生できたといった伝承が数多くうまれたのです。
平安末から鎌倉時代にかけては、歌舞が巧みな遊女や白拍子[しらびょうし]と呼ばれた男装の芸能者が貴族たちにもてはやされ、その結果、彼らを母とする貴族もかなり存在していました。後白河法皇が、今様の名手として名高かった老いた遊女、乙前[おとまえ]を宮中に呼び寄せ、師弟の縁を結んで長年指導を受けたことは有名です。
その乙前を含め、遊女たちが愛唱した曲が多く含まれる白河法皇編集の今様集、『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』には、容色の衰えを恐れ、阿弥陀仏に迎えとられることを願う遊女たちの切々たる気持を歌ったものが数多く収められています。
遊女は、殺生をする狩人や猟師と同様に罪深いとされる一方で、鎌倉時代の仏教説話集である『十訓抄[じゅっきんしょう]』や『撰集抄[せんじゅうしょう]』では、遊女が僧侶に仏教の法文に基づく今様を歌って聞かせていた際、普賢菩薩に見えたといった逸話が録されています。淀川で舟に乗って春を売っていた遊女の江口の君が、実は普賢菩薩の化身であったとする謡曲の「江口」も、その伝統に基づいたものですね。
遊女と達磨
遊女が菩薩に見えるという点で興味深いのが、禅宗の祖である菩提達摩と遊女を並べて描いた絵でしょう。綾瀬美術館所蔵の竹田春信の浮世絵、「達磨遊女異装図」(参考リンク)では、すらりとした大柄な遊女と三頭身半ほどの頭でっかちで小柄な達磨が並んで歩いており、しかも達磨が遊女の華美な衣装を着、遊女が達磨の茶色の法衣を身につけているため、遊女は女性的な観音菩薩のように見えるのです。
この遊女と達磨という組み合わせは人気が高かったようで、江戸時代にはかなり流行し、素朴で滑稽な絵柄で知られる大津絵などでも、いろいろな様子が描かれ、土産物として売られていました。
また違った絵柄の絵も多く、河鍋暁斎[かわなべぎょうさい]の浮世絵では、達磨の衣を着た観音風な遊女と遊女の着物をだらしなく着くずしている達磨は、遊廓の部屋のような所で隣り合わせて坐っており、しかも達磨は遊女の方を見つめながら三味線を弾いています。
前の記事で書いたように、聖人を自分たちと同じような存在とし、共感をもって描くのが日本の特徴なのです。江戸期ともなると、男たちの欲望を晴らしてやる遊女のことを、区別なく人々を救う菩薩に見立て、僧侶を「俗よりも俗」な存在として批判する風潮も背景となっていたでしょう。いずれにせよ、こうしたおふざけをやっていた江戸人たちは、遊女を菩薩扱いするのは古くから続く仏教の伝統であると知っていたことでしょう。