――伊藤先生は吃音を持つ方に数多くインタビューされてきたそうですが、まずは吃音とはどういうもので、どんな症状があるのか、といったあたりから教えていただけますか。

 吃音というのは言葉が流ちょうに出ない障害なので、一般的には発音とか発声の問題として考えられがちなんですね。外から見ると確かにそうなんですけど、当事者の方のお話を聞いてみると、中で起こってることがすごく複雑でなかなか一筋縄ではいかない。症状が多様だし、人によってはそれが変化していくんですよ。

 いちばん吃音らしい吃音は「連発」といって、たたたたたまご、みたいに最初の音を連続して発するというものです。これは吃音の最初の症状として多いもので、小学校に入る前くらいの子どもには結構な割合でいます。そこから大きくなるにつれて「治っちゃう」(といってもカッコつきですが)人もいれば、症状が進化して「難発」になる人もいます。

――「連発」が進化して「難発」になると。

 難発っていうのは、しゃべること自体をブロックしちゃうという症状です。そもそも発声しない。連発することによって自分の体の状態が相手に分かってしまう、けいれんしてるのがバレてしまうのを恥ずかしいと自覚したときに、それを隠そうとして、体がしゃべらないという選択肢をとるんですね。数秒で言葉が出てくることもあれば、かなり長い間無言の状態が続いたり、結局言葉が出ずに会話が終わるといったケースもあります。

 難発が連発と一番違うのは、体が緊張するということなんですね。連発はけいれんしている状態を開放してるので身体的にはむしろ楽なんですけれども、難発はその状態を抑圧しているので苦しいんですよ。緊張して呼吸も止まっちゃうし、全身が固くなる。だから、連発が難発になったからといってOKというわけではもちろんなく、そこからさらに症状が進化していきます。よくあるのが「言い換え」です。

 言い換えは、言おうと思った言葉が連発になりそうだ、あるいは難発になりそうだと思ったとき、それに近い別の言葉に言い換えるという手法です。たとえば「チラシ」って言いたいけど「ち」がつまりそうだなと思ったら「ペーパー」と言ったり、ちょっと変だと思いつつ「ポスター」と言ってしまう。そうすることで、チラシって言わなきゃという緊張感、体の準備状態がすっとほぐれる。体を裏切るっておっしゃる方もいるんですけど、準備している状態の裏をかくことで、すっと言えたりするんですね。

 吃音はそうやって進化していくんですけど、その原因はひとつの症状が症状と対処法のどっちにでも取れることだと思うんです。難発は連発を防ぐための対処法だと言うこともできるけれど、苦しいという意味ではやっぱり症状だし、言い換えも難発、連発を回避できているという意味では対処法なんだけど、自分が本当に言いたい言葉じゃないわけなので、そのことに納得できないと、やっぱりそれは症状になる。

――難発からはじまる方っていうのはいらっしゃらないんですか。基本は連発から?

 難発からだっておっしゃる方もいます。でも、そもそも覚えてないことが多いので。

――自分がいつどもりはじめたのかを?

 そうです。なので、統計的には連発からが多いんですけど、100%かっていわれるとちょっと分からない部分はありますね。

「治る」とはどういうことか

――思い返してみると、私も小学生の時には吃音のある友達が何人かいましたが、中学、高校と大きくなるにつれて少なくなっていった気がします。難発や言い換えといった対処法ではなく、吃音が完全に治る、言いたいことが言えるようになるということはあるんでしょうか。

 それは「治る」をどう捉えるかという話になりますね。すべての「治る」はかっこ付きでしか言えないと思うんです。言いたいことが本当に言えるっていうのは多分ないですよね、吃音じゃなくても。

――吃音じゃなくても?

 言いたいことが全部言えて相手にそれが全部伝わる、そんな100%のコミュニケーションなんてそもそもなくて、なんらかのノイズが常に入り続けるんだと思うんですよ。言おうと思ってたことが飛んじゃったりとか、話す順番を間違えて思うように伝わらなかったりとか……。及第点は超えてるけど100点じゃない、みたいな感じでコミュニケーションは進むものだと思うので、そういう意味では、吃音もそのノイズの一つかなって。その程度に考える人もいます。でも、やっぱりもっと深刻に、伝えられないっていう人もたくさんいるので、そこは区別する必要があると思いますけど。

――ご著書『どもる体』の中で、言い換えによって周囲には「治った」と思われていた方が、やっぱりまたどもりたいと思うようになったというエピソードが印象的だったんですけど、その方の場合はちゃんと話せていない、自分を裏切って話しているという感覚があったということですよね。

 そうですね。その方にとっては言い換えがナチュラルなしゃべりじゃないっていうか、吃音を隠しているという感じがずっとあり、あるときそれが嫌だと思ったってことだと思います。

――じゃあ逆に、言い換えることに違和感のない人にとってはそれがむしろ自然というか、そもそも自分に吃音があるとさえ思わなくなる?

 そういう方もいると思います。言い換えてるなって自覚しつつ、それも自分のしゃべり方の一部だみたいに思ってらっしゃる方もいますね。

――お話を伺っていると、そもそも吃音を治すべきもの、矯正すべきものとする見方自体を考え直す必要があるように思えてきました。歴史的に、というとちょっと大げさかもしれませんが、吃音が症状として扱われるようになったのはいつ頃からですか。

 その辺は私もこれからちゃんと勉強しなきゃと思ってるところなんですけど、一つは明治期に標準語というものができて「こう話すべき」といった日本語のスタンダードが確立するわけですね。通説としていわれてるのは、それ以前の農村などでの会話では吃音もごく普通にあったけど、誰も気にしていなかった。それがその人のしゃべり方だくらいのもので。もちろんそれも幻想かもしれませんけど、庶民の間では話し方の標準形という意識がなかったのは確かでしょう。だからその標準形ができた明治期に、その話し方ができない人ということで「吃音」が生まれてきた。

 障害って、実は何でもそうなんですよね。標準化が起こったときに生まれる。障害という概念自体は、産業革命とすごく関係しているんです。産業革命のときに「時給」という考え方ができて、1時間にこれだけの労働ができるのが人間としてのスタンダードだってなったときに、それができない人=障害者だとされた。そういう標準化がなければ一人ひとりが自分の体で可能なことをちゃんと役割分担できていたんだけれども、工場での労働が中心になるにつれて、みんなと同じことができるというのが労働者の前提となっていく。障害というのは本当に、その社会の状況と常に相関してるんですよ。

――なるほど。当たり前ですけど、やはり産業革命以降、日本でいうと明治期というのが社会のあり方の大きな転換点なんですね。

 明治期には吃音の矯正学校もできてきます。他方、徴兵制を実施していく上で兵隊としての健全な体のスタンダードが決まっていくんですけど、吃音のある人はそれからも外れるようになりました。