狩猟採集から農耕へというサピエンスという生きものだけが歩んだ独自の道が文明を生み出し、それが大きく展開して生まれた科学技術文明を持つ現代人は我が世の春を謳歌してきました。けれども21世紀が始まった今、文明の未来はなんだか危うい状況になっているのではないでしょうか。サピエンスに未来はあるのか。誰にも予測できることではありませんし、悪い未来を望むものではありませんが、多くの人がなんとなく不安を感じていることは確かです。
未来を語る時、地球が危ういとか生きものたちが滅びると言われることがありますが、危ういのは人間だということを確認しておかなければなりません。地球という惑星は、太陽という恒星の終焉と共に終わりを迎えることはあっても、人間の力で滅びるものではありません。太陽は今後50億年は続くとされますので地球の心配はしなくてよいでしょう。
地球上の生きものたちはどうでしょう。これは分かりませんが、生命システムは46億年の地球の歴史の中で40億年前には存在し、以来さまざまな進化をしながら続いてきました。もちろん何度も大絶滅はありましたし、これからもあるでしょうが、その中でも必ず生き残るものがあり、しぶとく続いてきたのが生命システムです。小惑星の衝突もあるでしょうし、災害はすくなくないでしょうが、地球から生きものたちがいなくなることはないと考えてよいでしょう。
問題は人間が滅びるかどうかであり、今の状況を見ていると、生きものとしての人間は、どうも生きる力を退化させ、滅びの道を歩いているように見えます。ですからここでの課題は40億年の歴史をもち、これからも続いていくはずの生きものとしての人間が続く力を持ち続けるか否かということです。
サピエンスの歴史を追うと、危うさの原因は、虚構づくりという人間独自の能力を活かして「人間は生きものであり、自然の一部である」という事実を無視した物語をつくったところにある。私はそう思っています。その物語では、自然を操作すること、更には自然を無視した暮らし方を選ぶことを進歩と呼び、それに絶対の価値を置いてきました。そこで大事な役割をしたのが科学です。
科学は魅力的な学問ですが、このまま科学を進めることがよい選択とは思えません。そこで、科学に基礎を置きながら別の道を探る「生命誌」という知も生み出しました。生命誌が見出した「私たち生きものの中の私」という現実を見て物語を紡ぎ、時には自然界の生きものたちが紡いでいる物語を読むことでこれまでとは別の道を歩き、破滅を避けることができるのではないか。私が考えたいのはこれです。やや大仰な言い方をするなら、文明の再構築を試みることになります。
農耕はどこで始まったか
虚構が生かされたのは農耕文明以来ですから、まず初めに、狩猟採集から農耕への道を追い、その時起きたことを生命誌の視点で見ていく必要があります。そこで、狩猟採集生活との関わりに注目しながら農耕の歴史を見ていきます。
農耕の始まりの場、つまり現在私たちの食生活を支える中心的作物が最初に栽培されたとされる地域は、南西アジア(小麦、エンドウなど)、中国(アワ、キビ、コメなど)、中央アメリカ(トウモロコシなど)、アンデス(ジャガイモなど)、北アメリカ東部(ヒマワリ)の5ヶ所であることが分かってきました。この中で最古とされるのがB.C.8500年頃の南西アジア(メソポタミア)であり、小麦などの栽培の他、ヤギの家畜化も行われていました。
興味深いのは、その後B.C.3500年までの間に主要作物に大麦などが加わりはしたものの、この5地域で栽培され始めた作物が今も食され、しかも私たちの摂取カロリーのほとんどがこれらにたよっているということです。つまり、植物の中で栽培に適したものは非常に少ないということであり、農耕を始めなかった地域は、そこに暮らす人々にその気がなかったからではなく、そのような植物がなかったためと言えそうです。
こうして限られた人々が農耕を始めたのではなく、限られた植物が農耕を可能にしたのだと知ると、人間と自然の関係をこれまで人間の支配という目で見過ぎていたことに気づきます。狩猟採集時代には本当に多種多様な植物や動物を食べていたことが分かっていますので、この時の方が自然をよく知り、ある意味豊かな生活をしていたとも言えるわけです。狩猟採集から農耕への移行は、明確に区切れるわけではないことも分かってきました。
農耕社会への移行で起きたこと
最近の研究からは、日常生活も狩猟採集時代の方が「豊か」だったという見方が出てきています。「豊か」とは、日常が快適に送れていたという意味です。
植物には栽培できる種が少なかったので、農耕に入ると食べものとなる種(しゅ)が限られます。身近な生きものたちの動向をよく知っている狩猟採集民は、多種多様な食べものを手に入れ、今私たちが知っている栄養という概念で見た時に理想的と言ってもよい食生活をしていたと考えられます。
一方農耕民には栄養失調が見られます。しかも農耕生活では、その年の気候によって主要作物が不作になり、飢えに苦しむ場合が少なくなかったのに対し、狩猟採集の場合は、災害が起きたらその場所を離れて移動することで対処ができたのです。労働時間も現存のアフリカでの狩猟採集民の場合には、週に35時間から45時間という値が出されています。毎日の採集時間は3時間〜6時間、狩りは3日に一度くらいしか行いません。そこで、皆で語り合う時間がたっぷりあっただろうと思われるのです。
感染症の問題もあります。今もなお私たちを苦しめている感染症ですが、実は数年前まで感染症の時代は終わったとされていたようにも思います。しかし今やCOVID-19の騒ぎで、それは思い上がりだったと気づかされています。自然界ではこのようなことがよくありますので、現代社会の見直しをする時には、思い込みをなくし、事実に向き合おうというテーマが重要です。
ちょっと横道にそれましたが、長い間私たちを苦しめてきた天然痘やはしかなどの感染症は、そのほとんどが家畜に由来するものであり、農耕社会になってから感染が拡大しました。当初の集落はゴミや排泄物などで不潔な状態でしたから、病気が広がったのです。小さな集団で移動している狩猟採集社会では、病原体の感染は起こりにくかったのに。
このような状況の比較から、研究者たちは狩猟採集生活を「豊か」と表現するようになったのであり、以前のような原始人、野蛮人というイメージは、はっきり消えました。しかし、子どもの死亡率は高く、大人になっても病気や怪我の治療は難しかったでしょう。ですから決して、そこに戻りましょうという暮らしでないことは明らかです。ただ自然の一員としてどう生きるかという問いを考える時に、思い出す必要がある時代であることは確かです。私たちとは無縁の遠い世界の話ではなく、私の生き方に関わっていることを忘れないでいたいのです。農耕社会、延いてはそれを発端として始まった文明社会を考えていく時に参照しなければならない狩猟採集生活の特徴はまだまだありますが、時に応じて見ていくことにして、農耕の始まりに移ります。
農耕はどのように始まったか
農耕への移行が少しずつ始まったとされる一万数千年前は、地球は最終氷期が終わり、温暖で穏やかになり始めた頃にあたります。そこで狩猟採集の際に木の実などが豊富に採れる場合がよくあり、そのような時は食べものを貯蔵したに違いありません。するとそこにしばらくとどまって暮らすことになるのは自然の成りゆきでしょう。家族や仲間たちとの暮らしをする場として落ち着いたところを求める気持ちは定住を求めます。食べものの入手の努力と共に排泄物やゴミの処理など快適な生活に必要な工夫を少しずつ進めながら、定住への道を歩いていったに違いありません。
ある時突然、農耕を始めることによって移動生活から定住生活へと移行したのではなく、少しずつ定住が始まり、そこでは植物のタネをまいて育てることなども行われていたと考えられます。
その中で、先述した5つの地域には栽培しやすい植物があったために、本格的に定住しての農耕社会への移行が見られました。この中で最も古い地域は、コムギの栽培とヤギの家畜化が行われた南西アジア、つまりメソポタミアの肥沃な三日月地帯であり、生命誌の中でのサピエンスの歴史として農耕を考えていく時は、ここを中心に考えることにします。というのも、ここで始まった農耕文明が現代社会にまでつながっているからです。
この地域の他の農耕開始地域との違いは、ここで始まった農耕がユーラシア大陸全体に急速に広がったということです。この非常に興味深い事実を指摘したのはJ・ダイアモンドであり、著書『銃・病原菌・鉄』で詳細に説明していますので、お読みになることをお勧めします。彼の指摘を簡単にまとめますと、メソポタミアに始まった農耕は東西に広がるユーラシア大陸全体に急速に伝播していったというのです。緯度が同じ位置にあるので日照時間の変化や季節の移り変わり、更には気温や降雨量の変化が似ており、分布植物の種類などを含めて生態系も同じような感じになっているのがその理由です。広がりやすい要件が揃っています。一方アフリカ大陸、アメリカ大陸は南北に延びているので、各地に存在する動植物の種類が異なり、生態系が違うために農耕技術が伝わりにくかったのです。
横に広い場合に比べて縦に長い場合は地域の違いが目立つので農耕が広がりにくいという指摘は、農耕技術が自然と深く結びついていることを示すものであり、説得力があります。メソポタミアから始まった農耕文明を現代文明につながる典型例として、そこでどのような文明が具体化し、そこにどのような問題が起きたかを検討し課題を探していくことで、文明を自然とのかかわりの中で考える必要性を意識し続けようと思います。
農耕への道は止めるべきだったのか
農耕への移行には、問題点が多く存在したのに、私たちの祖先は狩猟採集から農耕への道を歩み、逆戻りはしなかった理由として考えられるのが人口の増加です。肥沃地帯で小麦を栽培すれば、一定の土地から得られる食物の量は増えます。しかも定住が本格化しており、小さな子どもを連れての移動がありませんから、出産の頻度は高まります。狩猟採集社会では150人というダンバー数のレベルで組まれていた集団が、農耕になると1000人の規模になっていきます。人手が必要ですから。生きものという存在が続こうとするシステムとしてつくられていることは、生命科学の研究からもわかります。続くということは子孫を増やすということであり、どの生きものも環境が許す限り繁殖をしますので、ヒトという生きものも例外ではありません。
ただ、このような社会は感染症が広がって亡くなる子どもが多く、大人は過酷な労働を強いられることも事実なのですから、大きな脳を持ち、未来を考えられるサピエンスとしては、「この拡大はよいことなのだろうか」という問いを持ってもよさそうに思います。けれども拡大指向を止めるという発想は出てきませんでした。
ここから始まった現代社会の問題点を考えようとする人々が、近年「なぜ農耕への道を止められなかったのか」という問いを発し始めました。けれども、農耕そのものを止める必要はなかったのではないでしょうか。というより、狩猟採集社会のもつある種の魅力は認めるとしても、今もなお全人類がそれを続けている社会を思い浮かべ、それをよしとする判断は、私にはありません。
ここで問わなければならないのは「拡大志向」ではないでしょうか。ハラリの『サピエンス全史』には、社会を変えるという発想が出なかったのは、社会を変えるのは小さな変化が積み重なってのことであり、実際に変化が顕在化するには何世代もかかり、それに気づいた時にはかつての違う暮らしを思い出せる人がいなくなっているからだとあります。確かに現代社会でもそれが起きています。
農耕社会になったために始まった拡大志向への疑問はなぜ起きなかったのでしょうか。今「私たち生きもの」という生命誌の感覚を生かすとしたら、ここへの注目ではないか。これを考えてみます。