「冷戦」の終結は、「イデオロギーの時代」の終りを告げたとされ、随所で「壁」が壊れてむくつけき市場原理がわが者顔で世界各地の「古い慣習」を壊し、社会を「解放」してゆく。それが、「誤った社会主義」を一掃する「新」自由主義だと言われるようになる。一元化した世界では、どの国もその流れに乗らないとグローバル市場での競争に立ち遅れるか、あるいは障害物としてただ押し流されることになる。

 核兵器によって「抑止」されていた水面下の「世界戦争」は、イデオロギー対立の崩壊を機に、もはや制約のない「自由」な経済競争にとって代わられる。だがその事実はすでに述べたように、「自由民主主義の最終的勝利」(フクヤマ=ヘーゲル)として再イデオロギー化される。またそこから、「国家か市場か」(政治規制か経済統治か/ガバーンメントかガバナンスか)という議論が始まる。国家を主体としその主権に結ばれたはずだった近代の戦争の構造は、ここでさらに大きな変質をこうむることになる。

ヨーロッパの「火薬庫」

 世界の「東西」対立はたしかに世界全般をその影響下においたが、何よりそれはヨーロッパを場とした分断であったことは確認しておかねばならない。ヨーロッパが東西二陣営に分断されるということだ。そして他の地域と違って、これには深い歴史的経緯がある。簡単にいえば、それはローマ帝国分裂以来の「東西」分断の反復であり(だからキリスト教の分断も重なっている)、その後「西(オクシデント)」が近代世界形成の「主体」となり、「世界化」(全世界の西洋化)を果たして、その結果起きたのが世界戦争だったのである。

 その後、核を抱えて対立する「東西」とは、アメリカによって更新された「西(オクシデント)」がロシアに軸を移した(第三のローマ)「東方(オリエント)」と対峙する、その古い構図の反復だった。20世紀の対立は社会主義vs.自由主義というふうにイデオロギー化されていたため世界に波及することになったが(旧植民地でさえそれで分断される)、主要な対立の場はやはりヨーロッパにあり、重心はそこにあったのである(その余は周縁)。

 だから「冷戦」終結は、まずヨーロッパにとっての大団円だった。とりわけ東西(米ソ)の狭間で核戦争の脅威を最も深刻に受け止めていたヨーロッパにとっては、その危機が去ったということが決定的だった。ベルリンの壁崩壊後の1、2年間、ヨーロッパに漂っていた「幸福感」は格別なものだっただろう。それだけでなく、西側志向の指導者としてソ連を「武装解除」(中立化)に導くことになったゴルバチョフは、西側とスラブ圏(ロシア)との新たな関係構築に意欲的だった。

 だが、すぐに問題が噴出する。旧ソ連の解体後の核管理はそれなりに方向づけられたとしても、東欧圏の崩壊が「解放」したのは胡乱[うろん]なナショナリズムと克服されたはずの民族紛争だった。とりわけユーゴスラビア連邦の解体は、あらゆる権益確保の争いが絡まってドロ沼の内戦状態を引き起こした(そこに冷戦の一画を担ってきたイスラーム戦士団の流入があったことは事態をいっそう複雑にした)。

 1991年のソ連崩壊は、一夜にしてヨーロッパ周辺の地図を無効にし、東西ドイツはいち早く統合したが、その国境書き換えが何とか定着するまでに10年近くの歳月を要することになった。というのも、バルカン半島はかつて「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた(古典地理学ではヨーロッパという貴婦人の「スカートの下」にも例えられていた)が、そこが再び混迷の火床となったのである。

民族対立と「国際正義」

 強大なドイツの復活を多くの国々が警戒したが、ドイツは「一民族一国家」を口実に性急な統合に走り(それを東西の両国民が求めた!)、ユーゴ解体の口火となったクロアチア独立を直ちに承認。スロベニア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、セルビアが民族分離の抗争に入り、とくに多民族国家でムスリームも多かったボスニアは凄惨な殺戮と破壊の坩堝[るつぼ]と化した。そしてこの抗争はセルビアの一部だったコソボの紛争まで10年近く続くことになる。

 ここで起きたのは国家間戦争ではない。われがちに古い民族神話を賦活[ふかつ]して混乱の中で沸き起こった民兵集団が、曲がりなりにもあった社会主義連邦の市民秩序を壊して分立権力を作り上げる(たいていは元支配党の権力者たちを軸にした)紛争だった。それが「民族自決」(第一次大戦後の?)と「民主主義の勝利」の名において行われたのだ(ポーランドやチェコでは、社会主義時代からの「民主化要求」が最終的に実現されることになったが)。そのため「民族浄化」という用語さえ作りだされた。

 このEUの足もとに起きた民族分断の大混乱を収拾するには、社会主義崩壊時のイデオロギーでは間に合わず、混乱収拾のために、「後進」のアフリカ・アジア地域が主な仕事場だった国連PKOも介入するが、結局、冷戦期の西側軍事同盟機構NATOが介入せざるをえなくなった。その場合の口実が「人道的介入」である。そしてその「名において」セルビアの首都ベオグラードやコソボが空爆されることになった。冷戦期にもそうだったが、戦争は再び「道徳的」判断を伴うようになった、つまり価値的断罪が「討伐」を正当化するようになったのである。日本語で言うなら「鬼退治」ということだ。

 西側では、カール・シュミットを引用すると「あれはナチだ」として参照そのものが排斥される風潮があるが、ナチズムとは西側世界、つまりキリスト教西洋が生み出した(「ユダヤ人問題の最終的解決」も含めて)ものであり、それが自分たちと無縁だとみなすのは「西側」の自己欺瞞にすぎない。そのシュミットは後進西洋の法思想家として決定的なことを言っている。戦争に道徳を持ちだすのは最悪だ、それは戦争を無制約化すると。つまり「敵」を「悪」(非人間)と規定すると、戦争の破壊力は歯止めなく正当化され、それ自体が「人間」の域を超える、ようするに破滅的な殲滅戦になると(『パルチザンの理論』)。敵を「悪」と規定するとは、別の言い方をすれば「戦争を正義化する」ということである。その論に従えば「人道的戦争」などありえないということである。

 しかしヨーロッパは、「冷戦」の加熱融解が引き起こした足元(「スカートの下」)の混乱に、この新たな「正義の戦争」の論理に頼らざるをえなかった。それが後に「テロとの戦争」を受け入れる素地になる。

湾岸戦争

 それと前後して、「冷戦」の「勝利」に酔う西側世界を震撼させたのは、1990年8月、遠い中東でイラクが突然クウェートに侵攻し併合を企てたことだった。じつはこの事情は単純ではない。少なくとも第一次大戦後のイラク建国まで遡らねばならないが、ここでは西洋世界にとって深刻だった1979年のイラン・イスラーム革命から簡単に経緯をたどっておこう。

 西洋的考えからすれば、革命は世俗化・近代化の方向で起こるはずなのに、イランではそれが、近代化を目ざしアメリカに支持された国王の専制を倒すイスラーム復興(古い土俗の信仰)の形で起こってしまった。そして、中東に初めて明確な反米イスラーム国家が出現したのである。これ以降、世界ではイスラームを念頭に「宗教の回帰」や「信仰の政治化」、そしていわゆる「原理主義」が語られるようになる(しかし宗教的原理主義なるものの発祥地はアメリカだったということは覚えておこう)。

 イギリスのサッチャーはこれを受けて、西洋にとって社会主義(共産主義)の次の敵はアラブ・イスラーム世界だと指摘した。国内外で社会主義解体をめざし、「この道しかない」と新自由主義路線を推し進めていたサッチャーは、旧大英帝国の宰相としてそう西洋の次なる「敵」を名指したのである。

 他方、イラクは世俗政党バース党のサダム・フセインが率いており、イランの宗教化(シーア派)を嫌って、勃興したこの反米国家イランと年間にわたって熾烈な戦いを続けた(イランイラク戦争)。その「貢献」から、世界秩序が塗り替えられるこの時期に応分の権利があるものと、ペルシャ湾の要にある隣国クウェートの併合を企てた。しかしこれは対イラン戦争を支援してきた米英の逆鱗に触れるものだった。というのも、クウェートは英米が湾岸地帯の石油確保の要として1960年に作った小国家だったからだ。アメリカが第二次大戦後、地球の反対側にある中東管理を重視してきたのは、言うまでもなくそこが石油の産出地帯だったからである。

 アメリカはこのイラクの所業を無法な国境変更の試みとして国連の制裁決議をとり、イラクがそれに服さないとみると、協調国30カ国を糾合して(ソ連も含まれた)イラク討伐に乗り出した。これが1991年春の「湾岸戦争」である。

 「冷戦」が終わったとみえた「翌日」に中東で熱い戦争が火を噴いた。たしかにイラクが強引にクウェートを併合しようとしたのが発端だったが、圧倒的な戦力(空爆および大量破壊兵器)でイラクを叩いたのはアメリカ軍であり、それに同調した主要30カ国である。そしてそれが、冷戦後のアメリカ一強体制の下での「世界新秩序」の枠組みになる。

新たな「正義」の醸成

 けれども、このとき多くの国(や人びと)がこの戦争を「容認」し支持したのは、国連でクウェートの少女がイラク軍の残虐行為を涙ながらに訴えたり、石油まみれになった海鵜の衝撃的な写真が世界中に流布されたりした効果が大きかった。それが両方とも「やらせ(フェイク)」だということは事後に明らかになるが、この戦争の勃発はそのような国際舞台での演出やメディア動員によって促進されていた。それによってイラクは(独裁者の支配する)「悪」であり、打倒しなければならないという「国際的」判断が醸成される。そして戦争の「正義」が演出されることになる。

 だが、「独裁者」を倒すために大規模な空爆を受け、生活の基盤や生きる場を破壊されて殺されたり路頭に迷ったり難民になったりするのは、その国に住む「ふつう」の人びとなのである。そのような住民たちを、西側先進諸国はサダム・フセインの暴政から「解放する」といって、爆弾の雨を降らせ、生活インフラを無慈悲に破壊し、その上経済制裁として食糧や医薬品まで奪うのである。それがこの「正義の戦争」の実態だ(少数民族クルド人の問題もあるが、ここでは踏み込まない)。

 これが社会主義は悪(全体主義)というイデオロギーに代わる、新しい「解放」と「民主化」のイデオロギーである。これはその「人道性」を主張するだけに、ますます倒錯的なものになる。

 冷戦後、アメリカがいわゆる「一強」となり、事実上、戦争ができるのはアメリカだけになった。そのアメリカの戦争はこのようにして「正義」を僭称するようになる。そこでブルドーザーにかけられ押し潰されるのは、西洋的世界史の統治力学に翻弄され、文明の廃棄物であるかのようにつねに周辺化され、「人間」の視野から排除されてきた無数の「小さな人びと」である。