食文化史研究の歩み

 さて、ここで改めて食文化史研究の始まりと発展について見ていきましょう。西欧の歴史学は古代ギリシアのヘロドトスの著作に始まる、と言われます。しかし、歴史研究は長らく政治・外交・軍事が中心で、それ以外は「傍系」として扱われてきました。とりわけ「人間社会で誰が何をどのように食してきたか」という「食」に関する領域は、好事家(こうずか)の趣味的考察ととらえられ、歴史学者が本格的に扱うべき対象とは考えられてこなかったのです。この辺りの事情は、西洋も日本も同じだと言えます。

 変化が起きたのは1930年代の後半、その新しい動きを代表するのが、ノルベルト・エリアス(1897-1990)の著書『文明化の過程』でした。社会学者で哲学者でもあったユダヤ系ドイツ人のエリアスは、文明化の過程と発展を探る方法として、ヨーロッパの宮廷宴席における食卓マナーの変遷を中世まで遡り、具体的かつ詳細に分析していきました。

 『文明化の過程』は1939年に亡命先のイギリスで発刊されましたが、その直後に第二次世界大戦が勃発したため、実際に評価されたのは1969年に序論を加えた第二版が発刊されてからです。

 1970年代に入ると、歴史学、社会学のなかで「庶民の生活史」を取りあげたフランスのアナール学派の活動が注目され始めました。王侯貴族の生活や食事に関しては以前から記録として残されていましたが、人口の大半を占める庶民の暮らし、とりわけ食卓に上る料理や食材の具体的な記録はほとんど残っていません。 

 フェルナン・ブローデル(1902-1985)らアナール学派はそこに着目し、農地や作物に関連する徴税記録・教会文書・裁判記録を探しだすなど独自の方法を編み出し、初めて庶民の食文化にスポットライトを当てたのです。これが、現在の食文化史の土台となりました。アナール学派の研究手法に刺激を受け、フランスにおける庶民の食文化史に興味を抱く研究者が続出し、徐々に食文化が学問的な研究対象となっていったのです。

 1980年代になると、英米の大学に所属する研究者らがこの分野に参入し、目覚ましい成果をあげ始めました。当初はフランスを中心とする食文化史でしたが、英語圏研究者による論文や書籍の普及で、研究対象がヨーロッパ全土、アメリカへと拡大していきます。

 研究対象の地域的拡大に拍車をかけたのは、インターネットの普及でした。年代で言えば1990年代の終盤、世界中から国や地域の食文化に関する発信が始まったのです。フランスから欧米へと広がった食文化研究に、アジア、南米、アフリカからの情報や論文、著作が加わり、21世紀になって食文化研究の大爆発が起きた、と言えます。

 今や食文化史研究は、固有の地域の歴史を語るだけではなく、植民地支配による食文化の激変、現在の食糧危機をもたらした原因、地球温暖化と食文化の相関関係など、さまざまなテーマと関連づけて学際的に発展を遂げています。歴史の一部としての食文化ではなく、食文化から見る人類の歴史と未来とも言える事象が浮き上がってきた状況、とも言えるのです。

カレーはメキシコ料理?

 私自身は、もともとの研究対象であった西洋食文化史から離れたところにも興味が広がりつつあります。

 今興味があるのは、人の移動と食文化の変遷との関連です。この領域で鍵となるのはコロンブスと新大陸の出会いで、これを契機にジャガイモ、トマト、トウモロコシ、サツマイモ、トウガラシなどアメリカ大陸原産の食材がヨーロッパにもたらされていきます。「イタリア料理といえばトマト」のように、私たちがヨーロッパ発祥と思い込んでいる料理の食材の中には、中南米を中心とする新大陸からもたらされたものが多くあるのです。

 また植民地政策など民族の移動による食材や料理の変遷にも、まだ研究の余地は多く残されています。例えば、メキシコのノーベル賞作家オクタビオ・パスは、1950年代に外交官としてインドに赴任した折り、生まれて初めて現地のカレー料理を食べて驚き、こう言い残しました。「これは故郷の料理そっくりだ。その昔誰かがメキシコから持ち込んだのではないか」。

 このエピソードを知ったとき、思わず笑ってしまいましたが、それは私自身がまだ食文化全体の知識に乏しかったためです。今はそれを真剣に検証しています。私を含め大半の日本人は、「カレー」と言えばインド固有の料理と思っているでしょうが、インドの歴史を紐解いてみれば実にさまざまな国や民族の影響を受けてきました。

 アジアでは他にも不思議な食文化が見られます。例えば、中国と国境を接するネパール北部に暮らすグルング族。彼らの主な食材は、村で栽培するトウモロコシです。またアフガニスタンのバーミヤーン渓谷一帯では、同国のジャガイモの7割が生産されています。

 トウモロコシもジャガイモも共に中南米原産ですから、コロンブス以降長い時間と道のりを経て、グルング族の村とバーミヤーン渓谷にまでもたらされたことになります。誰が、いつ、どうやって?

 このように今私は、固定観念を外してさまざまな国や地域の食文化を調べることに没頭する毎日です。「食文化ヒストリアン」を名乗っている私自身、まだまだ勉強することばかりですが、どこを掘り下げても面白い発見の連続です。食にご興味のある方にはぜひとも仲間に加わっていただきたいと願っています。

 くり返しになりますが、食文化は現在さまざまな領域とリンクしながら発展していますので、いかようにも広げて行ける分野なのです。最後に、より深く世界的な食文化の歴史や現状を知りたい方のために2冊の本をご紹介して、締めくくりといたします。

『The Oxford Handbook of FOOD HISTORY』
Jeffrey M. Pilcher編、2012年(初版) Oxford University Press.
食文化研究の大爆発が始まってから20年後の時点で編纂された書籍。食文化史における基本的研究と、各分野の代表的な研究を網羅した一冊。現在の世界の研究水準とその方向性を知るのに最適。

『世界の食文化百科事典』  
 野林厚史(編者代表) 丸善出版 2021年1月発行
日本の代表的な食文化研究拠点・国立民族学博物館系の研究者に加えて多数の専門家が執筆。世界の食文化研究の最新動向を日本語で知ることができる貴重な一冊。


構成:浅野恵子