加藤さん(編注:質問者のこと)は視覚と聴覚のどちらがより根源的だと思いますか。
――ふつうに考えると、やはり目から情報を仕入れているという感覚が強いですね。
近代の発想では、人間の主体性や理性というものは見るという感覚作用を基軸に成り立ってると考えます。でも私は、それは近代的な偏見だと思う。われわれの感覚による授与というものが何であるかといったときに本当はもっと開かれてるっていうか、多様だと思うんですよ。だけど、私たちはそれを目で見える世界に閉じ込めて、そういう色付けをしてしまっている。そうすると、世界はもうそういうものとしか捉えられない。
――さっきの解像度のお話ともつながってきますね。
それに対して聴覚、耳によって捉えられる世界というのはより統制がきかないわけです。たとえば寝ているときは目をつぶっているので何も見えないですよね、夢以外は。視覚の世界は目をつぶることで遮断できるけど、耳の世界は遮断できない。猫を見てるとよく分かるけど、ピピピっと反応してますよ。耳の方向がレーダーのアンテナのようにキャッチしている。私たちもそうだと思うんですよね。
われわれの無意識に深く入り込んでいるのは、小川のせせらぎだったり、小さな風の音であったり、誰かの話し声だったりといったもので、そういった音がわれわれの環境の何かを形作っている。そういう聴覚の世界の方が本当はより深く広く根源的だと思うんですけど、われわれはそれを視覚の世界に矮小化していると思うんです。われわれが視覚的に、あるいは言語的に認識するということは、簡単に言うと、あらゆる事象を矮小化するってことなんですよ。
――わかる形、わかりやすい形に
縮小してモデル化している。たとえば本当に悲しいとき、「悲しい」という言葉ではその悲しさを表現できませんよね。悲しみっていうのはちょっと形にできないような何か。でも、それを「悲しい」という言葉に置き換えることによって、そこに一つのモデルを作ることになる。巨大に膨れ上がっている感情を、「悲しい」の一語でつなぎ止めてしまう。標本をつくるみたいに。
すると、やがてその「悲しい」という言葉を、「嬉しい」とか「楽しい」といった他の言語との差異や位置関係の中で理解するようになる。われわれの普通の理解の水準というのは、このように言語によって矮小化された世界を捉えていくということなんです。言語的な捉え方、つまりは認識と視覚的な捉え方が一致している。すべては矮小化された概念の世界になってるわけですよ。
――視覚によって認識できるのは概念化されたものだけであり、それらは言語によって既に矮小化されているというわけですね。
本当の感受の世界っていうのは、そんな矮小化から離れて成り立っている草木も言問う世界なんだけど、われわれは言語によるフレームを作って、ある意味プロテクトしてるので、そういう見方ができなくなっている。でも、それをある瞬間外すことできれば、草木言問う世界に通じることもできると思うんですね。動物とも、星とも、死者とも会話できる。それなのに、われわれは矮小化された認識世界の次元だけで物事を捉えようとして、その先に行こうとはしない。行かなくても生活できるし。
――確かにそうですね。
でも、詩人とか芸術家とか宗教家といった人たちはそっちの世界の方に関心があって、ベクトルが向いている。認識世界なんてニセモノだとか、嘘っぱちだとか、少なくとも違和感があるわけですよ。こんなもんじゃないよねって。世界はこんなもんじゃないと思う人が、こういうのが本当じゃないかと表現することで、芸術や宗教といったものが現れるんじゃないですかね。
――詩人も芸術家も宗教家も解像度が高いわけですね。
だから彼らにとってのリアリティーと世間一般に流通しているリアリティーには違いあるわけですよ。
詩の言葉
――でも、詩人や宗教家が使う言葉も、言葉は言葉なわけですよね。言葉によって矮小化された世界を、また言葉によって超えようとしているってことですか。
そこがある種の矛盾というかパラドクシカルな構造をはらむわけですが、言霊も言葉を用いて表現するわけですから、言葉を用いて言葉の矮小化を突破することはできますよね。
――うーん……
言葉を開くというか、言葉が持っている何かを開くわけです。そのためには、その言葉が用いられる文脈を変えないといけない。あるいは言葉の支点、言葉が持ってるベクトルみたいなものを変える力が必要になってくる。
たとえば、「空は青い」という文章だとそのままというか、文字通りにしか受け取ることができないけど、これを「空は海だ」というふうに違うものを結び付けたり、「青は無限だ」と別々の事象を重ね合わせたりすることによって、ふつうとは異なる文脈を示すことができる。それによって、「空」とか「青」という言葉の深層を露(あらわ)にすることは不可能ではない。
――ふつうは結び付かない言葉同士を結び付けることで新たな地平というか、新たな世界が開けてくる、みたいなことでしょうか。
むかし『君のひとみは10000ボルト』っていう歌がありましたよね。たとえばあれも、「君の瞳はかわいいね」「魅力的だね」という一般的な認識の次元を超えて、「10000ボルト」という量的なものを結びつけることで、その瞳が持ってる魅力やエネルギーの作用といったものを表現することに成功してると思うんですよ。
――なるほど。
瞳が1万ボルトなんてことは科学的にあり得ないし、根拠も何もないわけですけど、そういうものをわれわれは瞬時に理解するじゃないですか。
戦後すぐにヒットした『リンゴの唄』に、「リンゴの気持ちはよくわかる」って歌詞がありますけど、リンゴに心があるということを理性的に考えたら誰も納得しないわけですよ、普通に考えたら。でも、その歌で「リンゴの気持ちはよくわかる」って歌われると、そうだねって思う。「草木言問う」の世界に通じていく。
子どもの言語表現には意外なものを結びつけるということが割に多いと思いますけど、言葉と言葉、語と語の組み合わせを変えることによって、普段の認識世界のフレームを変形させたり、時には突き崩したりして何とも言えない新鮮さを生み出すということがあると思うんですね。
宮沢賢治が言うには、詩人が詩として表現するのは、心の中にあるイメージとか言語ではなく、世界全体にたゆたい、発動している力動、エネルギー、ダイナミズムだと。そういうものをキャッチし、自分が変換機になって表現する。だから私は自分で創作したとは言えないと。自分はこの自然界にあるものを受け取っただけなんだ。そういうふうに聞こえるものを、ただその通りに書いたまでだと。
――まさに言霊ですね。