――ちょっと話を蒸し返しちゃうようですけど、ハビトゥスという考え方からすると、自分の意思というものは社会的に構築されたものなんですよね。

 そうなんですよ。

――それは純粋に、自分の中から出てきたものではない。

 そう。でも、だからといって無視していいわけじゃない。そこが重要なところなんですけど、つくられたものだからその意思は嘘だとか、無意味だということにはならない。それを尊重することがお互いのルールです。

 ある人が本当だと思ってやっていることを、意思はつくられたものだからといって、ほかの人が無視することは許されない。

 ただ、つくられたものかもしれないということを本人が自覚して、自分の意思や感じ方を振り返って反省してみることはできる。それが本当の自由だと思う。そういう自由を誰もが持っている。それを行える環境を確保するのは簡単ではないけど、その責任は私たち一人ひとりにあるんですよね。

――そのときに、またちょっと答えの出ない話なんですけど、私たちの感じる「男らしさ」「女らしさ」がかつての家父長制的なものを基につくられたんだとしたら、どういう風にそれを変えていけばいいのか。「男らしさ」「女らしさ」みたいなものはなくしちゃって、個々の人間として捉えるといったことを目指すべきなのか、みたいなことを考えるんですけど。

 自分を男として、あるいは女として捉えるアイデンティティみたいなものを、私はほとんどの人がごく普通に持つものだと思っていましたが、実はそうでもないのかもしれません。

 たとえば今の若い人たちの様子を見ていると、結構迷う人が多いんだなと感じます。LGBTQという多様性の問題が社会的に承認されるようになってから特に、自分の性別やセクシュアリティに、疑問や悩みを抱えていることを公言する人が増えている気がします。

 でも、それらの人が皆、性別なんてなくなったほうがいいと思っているかというわけではありません。でも皆、「男でなければ女だ、女でなければ男だ」という二分法的人間観はやめてもらいたいということでは共通しています。男でも女でも、どっちでもない人もいるし、自分がどっちかわからないという人もいる。だから、身体は女として生まれたけど男として生きる、あるいはその逆、という移動を自由にしたり、男と女の「あいだ」を認めてほしい、ということくらいまでは共通していますね。

――性別がまったくない社会というのは、やはり考えられませんか。

 おそらくないだろうと思っています、予想としてはね。どっちがいいかっていわれたらわからないけど、それはそれで無理があるかなって思います。

 女性性とか男性性にプラスのものを見出す人もいれば、抑圧を感じる人もいる。どっちもいます。だから単になくせばいいということではなく、やっぱり「移動」ですね。移動の自由と、どちらでもないってことを認めることが必要なんだと思います。

支援する義務

――それにしても、これまで自分の認識や自分の意思だと思っていたものが、社会的に構築されたものだっていわれちゃうと、一体なにが自由で、どこに主体があるのかっていうのがわからなくなっちゃいますね。

 なりますよね。そうだと思います。「自由な主体」を、フィクションとして立ち上げたのが、リベラリズムなんでしょうね。

 「自己」とか、「理性」とか、「身体の自由」といった概念をつくり、それが「ある」という前提で物事を考えることによって、「平等」というものを立ち上げていった。そのお陰で人間解放が起きたわけだからいいことではあるんですけど、一方で、それがさまざまな不平等を覆い隠してきたという現実もある。それがジェンダーの問題であり、障害のある人の問題である、ということが見えてきたということですね。

 国会議員の船後靖彦さんっていらっしゃいますでしょう。あの方なんかは本当に、他人のケアがなければ生きていけない。つまり、生きるということとケアが結び付いてるんですよね。そういう人の生きる権利を守るのであれば、私たちにはそのケアを引き受ける責務があると考えることが必要なんです。

 だから、誰もがケアをし、ケアされる存在であることを前提とした社会のあり方とか、福祉制度のあり方っていうのを考えていくしかない。他人に危害を加えないんだったらなにをしても自由。障害者を放っておくのは別に問題ないんだ、というわけにはいかない。

――日本ってとにかく、「他人に迷惑をかけるな」という圧がすごいなと感じます。

 そう、そればっかりですよね。日本の親はそればっかりいうんですよ。じゃあ、迷惑かけるってどういうことかというと、人を殺さないとか、犯罪者にならないだけではなく、親が恥ずかしいと思うようなことも「迷惑」だったりするんですよ。

 よく「自己責任」っていうけど、責任は事実的に自分にかぶさってくるものになっていると私は思うので、「自己責任」だからその人を支援しないという理由にはならないと思うんです。だって、病気の人は病気になっていること自体で自己責任を現にとってるでしょ。ほかの人の身体じゃなく、自分の身体で生きている。責任は十分、その身体でとっている。

 だから、その生活をサポートしたり、身体的な状況を少しでも緩和できたりするのであれば、周りにはその人の支援を引き受ける義務があると思う。それを誰がどの範囲でどう受け持つかというのは、関係だとか、いろいろなことで決まるのかもしれないけど、少なくとも、同じ政治的共同体の中で生きている以上、税金を投入する義務くらいはありますよね。

――そうですね。おっしゃる通りだと思います。

 そう考える社会であってほしいし、そうじゃなければ、「障害者は殺せ」というナチスみたいな社会になっていってしまう。

 西洋の思想というのは基本的に精神と身体を区別して、精神というのは一貫して自由だとされました。そこに自分の根拠があり、理性があり、意思がある。その意思を行為に変換するのが身体であり、意思の通りに行為を行えるというのが、自由の基本になるわけです。

――それで理性や意思が重要視されてきたんですね。

 でも、すべてを自分の意思のままに行える人がどれだけいるのか。たとえば女性が妊娠するかしないかなんて、自分の意思じゃないですからね。たまに女性が決めてると思ってる人がいますけど、そんなわけがない。

 子どもをつくろうと思ってできたんならいいけど、そうじゃない場合も、意思に反してできてしまうこともある。そういう身体で生きることが女だということなんですけど、社会をつくっていく上ではむしろ、そういった人を基本に考えた方がいいんじゃないかな。

――つまり、意思のままにならない身体を持つ人間の「自由」を担保するということですね。

 近代市民社会は、そんな人間に尊厳はないと決めつけました。身体を自分の意思で自由にできない女や、労働者、障害者には尊厳がない。意思決定もできない。でも、そうじゃないんです。誰もが完全には「身体を自分の意思で自由にできない」存在なんです。けれども、そういう存在として、尊厳を持って生きている。男性だけでなく、女性も、障害者も、高齢者も、子どもも。だとすれば、その人たちが意思をなるべく表現できるように、さらには実現できるように支え合わなければいけない。

 もちろん限界はある。限界はあるけど、なるべく他者の意思を尊重して、相互に支援し合う義務を負う社会をつくっていくべきではないでしょうか。

(取材日:2019年11月18日)