フィードバック制御

――サイバネティック・パラダイムの起源である「サイバネティクス」という学問はどのようにして始まったんですか。

 サイバネティクスを初めて提唱したのはノーバート・ウィーナー(1894-1964)という数学者です。第二次大戦中、高射砲の研究に従事していたウィーナーは、どうすれば命中精度を高められるかを考えました。相手が止まっていればそこに照準を合わせればいいんですけど、高射砲の標的である戦闘機は猛スピードで飛び回るので簡単には当たりません。

 そこでウィーナーが考えたのが「フィードバック制御」というもので、これは要するに、ある瞬間の標的の位置とこちらが撃った弾が通過した位置(着弾点)の差を計測し、その差が小さくなるように砲の動きをコントロールするというものです。標的位置と着弾点の差が次の入力として戻ってくるので「フィードバック」というわけです。

――その差をどんどん小さくしていけばいつかは命中すると。

 戦争なので撃つとか撃たれるという物騒な話になりますが、たとえば私たちが落ちている物を拾うときもこれと同じことをしています。物を拾うというのは、手の位置とその対象物との差が小さくなるように体の動きをコントロールしているわけです。差があるうちは動かし続け、差がゼロになればOK。あとは拾うだけ。

 サイバネティクスという言葉は元々「舵を取ること」から来ているんです。潮の動きや川の流れの中で舵を左右に動かし、行き過ぎたら戻す。つまり、コンピューティング・パラダイムのように、俯瞰的な視座から全体を見渡して最適な動きを導くのではなく、その時その時の自分と対象物との関係から状況を判断して次の行動を決めるというわけです。

 フィードバック制御の代表的な応用先として、義肢の工学的制御が挙げられます。ウィーナーは戦争で手足を失った患者の動作を補助するために、生体反応と電子回路を組み合わせた義肢を開発しようとしました。ちなみに「サイボーグ」という言葉の由来はサイバネティクスです。

――そうだったんですね。

 でも、サイボーグというと人間と機械のキメラのようなイメージがあるでしょう。サイバネティクスは個々の生物の主観世界にもとづく学問なのに、初期のサイバネティクスはその逆に、生命体が機械に組み込まれていくような印象を与えてしまった。

――むしろ生物機械論の方に近づいていってしまったんですね。

 生物機械論というのは非常に強力なんです。人間の体を「客観的」に見れば、それは複数の器官や細胞によって構成されているわけですから、結局は一種の機械だということになってしまう。ウィーナー自身はそういう考えに反対していて、人間の自由や主体性を大事にすべきだという思想の持ち主だったのですが、自身の研究では生物機械論を打破することが結局できなかった。1970年代になってそれを実行したのは、ハインツ・フォン・フェルスター(1911-2002)という物理学者です。

オートポイエティック・システム

 フェルスターの議論は「二次サイバネティクス」と呼ばれます。生物の主観世界というのは個々の観察と意味づけにもとづいて時々刻々と形成されているため、不安定で科学的客観性をもちにくい。しかしある観察に基づく対象を別の観点から再帰的に観察するという二次的操作によって、数学的な安定性(客観性)を得ることができる。

 簡単に言うと、私に見える世界は私の内部状態、たとえば健康なときと体調がすぐれないときによって異なるわけですが、とはいえその都度まったく別のものになるといった不安定性はなく、生きて観察し続けているうちに安定していく、ということです。

――今の自分の状態プラス過去の記憶に基づいて主観世界が構成される、ということですか。

 そういうことです。ある瞬間の世界の見え方には昔のイメージやそのときとった行動が影響を与えており、それらの記憶をもとにわれわれは各々の世界を形成している。これを「再帰的」とか「自己言及的」というふうに言うわけですが、こうした議論をふまえて、生物という存在をシステム論的に定義したのが、次にご紹介する「オートポイエーシス理論」です。

 「オートポイエーシス(auto-poiesis)理論」は生物哲学者のウンベルト・マトゥラーナ(1928-2021)とその弟子のフランシスコ・ヴァレラ(1946-2001)によって提唱されました。生物と機械の本質的な違いは、このオートポイエーシス理論によって初めて明確になったということができます。

――それほど重要な議論なんですね。

 生物とは何かというと、一般的には、「膜がある、代謝をする、自己複製をする」といった性質で定義されがちですが、では機械とどう違うのか。機械にだって膜はあるし、代謝や自己複製をする機械も存在します。あるいは、平衡状態を自ら維持しているものが生物だという議論もありますが、平衡状態を維持するだけならエアコンのあるこの部屋だってそうですよね。これらは確かに生物の性質の一部かもしれませんが、それだけでは機械との本質的な違いを説明できないんです。

 一番肝心なのは何かというと、生物は「自分で自分を創り出すことができる」ということです。体の構成素である細胞が細胞自身から生まれるというのもそうですが、それだけではありません。たとえば私の心のなかの思考は、誰かにインプットされたわけではなく、私自身から生み出されたものです。加藤さん(編注:質問者のこと)だってそうですよね? 私が話したことをそっくりそのまま取り入れるのではなく、加藤さんなりに解釈してご自分のものにしているわけですから。

 生物とはそういうふうに、自分で自分を創出するプロセスがネットワーキングされている「オートポイエティック・システム(Auto Poietic Systems 以下APS)」なのです。これが一番明快な生物のモデルです。

――機械にはそれができない。

 機械は基本的にただ言われた通りにやるだけです。自分の動作を記録して次の動作を決めるという面もありますが、全体としては自分で勝手に決めて動いているわけではありません。それに対して生物は、世界の観察の仕方も、その世界でどう行動するのかも、ぜんぶ自分で決めている。人間もイヌもゴキブリも、みんなそうです。つまり生物は自律的であり、他律的な機械(人間の書いたプログラム通りに作動するコンピュータなど)とはまったく異なる存在なわけです。

 自律的であるというのは、外部から観察するとロボットがまるで意思を持って動いているように見える、ということではありません。そうではなく、システムの作動そのものが「自己循環的」であり「閉鎖的」であるということです。つまり、自分の内部状態や記憶をもとに自らの主観世界を産出し、その閉じた世界の中で生きているということです。

――すべての生物は自分の、自分だけの世界を生きていると。

 そうです。一方AIには「自分だけがとらえる世界」なんてありませんよ。そのことに気づかないから、みんな生物機械論者になっていくんです。生きるということを「遺伝子がコピーされて細胞が複製されることだ」ととらえるからマインド・アップローディング(編注:脳の記憶を丸ごと機械にコピーすることで永遠に生きられるという仮説)みたいな話が出てくる。でも、そうじゃないんです。生物とは自分で意味を生み出しながら作動しているオートポイエティック・システム(APS)であり、だから死んだら、自分も自分の世界もそこで終わりなんです。