生物機械論の背景

――人類が一握りの超人(ホモ・デウス)と大多数の平凡で貧しい人びと(ユースレス・ピープル)に分かれるというユヴァル・ノア・ハラリの未来像は、危機感をあおられつつも、どこかSFの世界の話のようにも聞こえるのですが、この議論の前提になっているものは何だと思われますか。

 ハラリの未来社会像の前提条件の一つは、人間をふくめたすべての生物は「アルゴリズム」であるというものです。アルゴリズムというのは論理的なデータ記号を定められたルールに従って処理していく手順のことで、コンピュータもアルゴリズムにしたがって動くので、ハラリは生物機械論者であると言ってよいと思います。生物の本質が記号の順次処理(コンピューティング)であるというのは非常に大胆な仮説ですが、西洋の伝統的な考え方、すなわちユダヤ=キリスト一神教的な思想に照らしてみると、決して暴論でありません

 全宇宙(世界)は絶対的な実体要素で構成されており、それらの間には静的な論理秩序が存在しているというのがユダヤ=キリスト教の基本的な考え方です。ヨハネ福音書には「太初にロゴスありき」「ロゴスは神とともにあり」「ロゴスは神なりき」と書かれています。「ロゴス」は言葉や論理という意味ですが、同時に神が創造した全宇宙の真理でもあります。だからこそ、その真理を聖書によって学び、それに従って生活することが昔の西洋人の生き方だったわけです。

――この世界は神によって論理的に創られたのであり、聖書にはその論理=真理が書かれていると。

 近代になると神様の影は薄くなっていくのですが、こうした思想は万物を「客観世界」の構成要素と捉える世界観へと受け継がれました。そして、理性を持つ人間が論理と実験でその「客観世界」を探求し、そこにある秩序を解明すると同時に、得られた成果を活用していく。これが科学技術に他なりません。

――生物機械論の根底にあるのは、生物も世界の要素であることに変わりはなく、よって論理的な秩序に支配されているという考え方なんですね。

 これは分子生物学の議論ともぴったり一致しています。分子生物学の基本は、大まかにいうと、われわれの体は細胞核の中にあるA・T・G・Cという4つの塩基の配列を設計図としてつくられているというものです。つまり、すべての生物(細胞)は塩基配列というデータを読み込みながら生きているのであり、それはすなわちアルゴリズムだというわけです。

 ここで出てくるのは、知能とは何かという問題です。われわれには心や意識というものがあり、それらと知能は密接に関係していると一般に考えられてきましたが、アルゴリズムの典型はコンピュータの作動手順なので心や意識とは無縁です。ということは、もしも生物をアルゴリズムととらえるなら、知能は心や意識とは無関係に存在するという方向に議論が進んでも不思議ではありません。

 ――知能が心や意識から切り離されてしまうと。

 そうなると、あとは知能を担う機械の性能だけということになります。人間の脳細胞の数は1000億くらいだと言われていますが、脳の記憶力や反応速度は最新のコンピュータに比べるとたかが知れています。するとコンピュータは人間よりも賢いんだということになり、その結果われわれはそういった「スーパー機械」の判断や決定に従って暮らすようになる、というわけです。

――心や意識をもつ人間が、それらをもたない「スーパー機械」の判断に従って暮らす社会ですか。ネットでの買い物なんかを考えると、既にそうなっている感じがしますね。

 「スーパー機械」とはすなわち「AGI(Artificial General Intelligence)」、つまり何にでも使える汎用人工知能のことですが、ここで見落としてはいけないのは、人工知能は勝手に動いているのではなく、背後でコントロールしている人間がいるということです。コンピュータは、プログラムをいじればどんなアウトプットでも出すことができます。つまり人工知能にアクセスできる一握りのエリートがそれを操り、大多数の民衆は人工知能の下した決定に従って生活するようになる。前者の支配階級すなわち「ホモ・デウス」と、後者の「無用者たち」からなる超格差社会、それがハラリの考える未来の社会像です。

――ごく一部のエリートがAIを使って権力と富を独占し、われわれ庶民(=無用者階級)はやることもなく、雀の涙ほどのベーシックインカムを頼りに、ジャンクフードを食べながら日がな一日ネットフリックスを見て暮らす……。

 それを肯定する学者もいるわけです。そういう社会が理想であると。こうした議論の根底にあるのは「超人間主義」つまり人間を超える知能が存在するという考え方です。これを主張しているのはSF作家ではなく、欧米のすごい秀才たちばかりですよ。スーパー機械に従うのが幸福かどうかという点では意見がわかれますが、超人間がやがて出現するという点で、彼らは一致しています。

 ハラリも超人間主義者だと思いますが、ホモ・デウスが出現する社会が望ましいとは思っていないようです。困ったものだと心配しているけれど、どうしたらいいかわからないし、ブレーキは踏めないと言っています。それに対して「ブレーキは踏める!」と、私は言いたいんです。

2つのパラダイム

 生物機械論や超人間主義の土台となっているのは「コンピューティング・パラダイム」という世界観・価値観だと言っていいと思います。

 コンピュータの理論的な基礎をつくったのはアラン・チューリング(1912-1954)とジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)という二人の天才数学者ですが、それは一般的にイメージされているような実務的な計算機械ではなく、論理操作を高速で実行し、真理を自動的に導く機械を理想として考案されました。そこに、この世界は静的な論理秩序(それが造物主のつくったものかどうかはともかく)によって構成されているという、西洋の伝統的な思想が影響しているのは言うまでもありません。つまり、コンピューティング・パラダイムでは客観世界の万物が神の視点から俯瞰的にとらえられ、データ化されて、論理的に分析・処理されるわけです。

――すべての存在物は一義的なデータに還元できるし、そのデータを処理するアルゴリズムであるという点で、生物も機械も同じだということですね。

 客観世界にもとづくコンピューティング・パラダイムとは対照的に、個々の生物の「主観世界」にもとづく枠組みを提唱するのが、情報科学のもう一つのパラダイムである「サイバネティック・パラダイム」です。

 主観世界は、コンピューティング・パラダイムが前提としている客観世界とは違って、限定された視野しか持ちません。しかもそれは生物特有の認知の歪みから逃れることができない。たとえば、ヒトとイヌでは色を認識する視覚細胞の仕組みが異なるため、それぞれの目に映る世界のあり方は異なっていると考えられます。

 しかしすべての生物は、限られた不完全な情報をもとに、何とかして生きていこうとしている。生物とはそういうものであり、ここが非常に重要な点です。一方、コンピューティング・パラダイムには「生きる」ことの独自性という話は一切出てきません。

――サイバネティック・パラダイムにおける「世界」は、普遍的な論理秩序によって構成されたものではなく、それぞれの生物の特質によって産出されるものだということですね。ただ一つの客観世界が生物とは無関係に存在するのではなく、個々の生物ごとの主観世界があり、生物は自分自身の主観世界で得られる情報にもとづいて生きている。

 そういうことです。付け加えると、サイバネティック・パラダイムでは「知能」というものが、あくまで生物の生存とのかかわりでとらえられます。平たく言えば、知能とは「(人間を含め)生物が生きるためのノウハウ」と位置づけられるのです。すると当然、「生物ではない機械に真の知能が宿ることはない」ことになります。つまり、コンピュータはいかに高速にデータを処理できたとしても知能をもたないので、超人間はおろか超生物の人工知能さえも否定されることになるわけです。

 ここで浮上するのは「意味」の問題です。世間をにぎわせている生成AIもそうですが、人工知能は情報のもつ「意味」をうまくつかむことができません。これはAIが誕生した1950年代から続いている大問題で、未だにまったく解決されていない。ではいったい意味とは何かということになるんですけど、それがサイバネティック・パラダイムのもとで見えてくるんですよ。

――とおっしゃいますと?

 つまり、個別の生物にとって「価値があるもの」として出現するのが意味なんです。私は今のどが渇いているのでこのお茶を飲みます。すると、おいしい。これが意味です。一方私は酒が飲めないので、ここにいくら高級なワインがあっても意味がない。ワインは私が生きていく上で価値のないものなんです。それを知らずに私にワインを送ってくる人がいて困っちゃうんですけど(笑)。つまり個々の生物の生存にとっての価値および重要性、それこそが意味なんですよ。

――なるほど。だから、生物ではないAIには意味が理解できないんですね。