和様化した平安時代

 奈良時代まで中国の影響を色濃く受けながら発展してきた仏像が和様化するのは、平安時代の後期でした。平安時代の初期には、唐から二つの大きな流れがもたらされます。一つは一木造(いちぼくづくり)の仏像で、名称の通り台座を含めたすべてを一本の木を削ってつくる仏像です。それ以前の木彫仏は、別につくった台座を仏像にはめ込んでいました。

 一木造は、奈良時代に来日した鑑真和上と共に来日した仏師が最初につくり、平安期に普及したと考えられています。唐招提寺の伝衆法王菩薩立像や神護寺の薬師如来立像など、平安前期に数多くつくられた木彫仏は、身体も顔も肉厚で、厳めしい表情が特徴です。

 厳めしい表情は、平安前期に伝来した密教の仏像にも見られます。日本の密教は、唐で学んだ最澄(伝教大師)の天台宗と、空海(弘法大師)の真言宗が始まりで、仏像においては密教の中心となる大日如来や、不動明王、帝釈天など厳めしい顔の明王や天部の像がつくられるようになりました。京都の東寺講堂には、空海が理想とした密教世界が21体の仏像によって表現され、「立体曼荼羅」と呼ばれています。

 密教仏は唐の様式を色濃く継いだものでしたが、平安時代の後半になると和様化が始まります。894年に遣唐使が廃止され、907年に唐が滅亡したことが要因です。それまで唐の影響を受けて発展してきたものが、日本独自の表現に変化していったのです。

 仏像の和様化を完成させたのは仏師・定朝(じょうちょう)でした。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に代表される定朝の木彫仏は顔の輪郭と頬が丸く、鼻は低めで口元を軽く閉じています。平安初期に厚みを増したボディは、再び薄くなり、日本人の姿に近づきました。日本における仏像づくりが転換期を迎えたのです。定朝が完成させたこの様式は、「和様」、または「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれ、日本の仏像の形態美となりました。

阿弥陀如来坐像 平等院

 定朝は仏像のなかでも阿弥陀如来像を多くつくりましたが、これには社会的な背景があります。阿弥陀如来を信仰する浄土教は7世紀後半に日本へ入り、平安後期に差しかかる11世紀頃から急速に広がりました。それまで皇族、貴族が半ば特権的に信仰していた仏教が、庶民にまで浸透し始めたのです。

 普及の背景にあったのは、「末法思想」でした。末法思想とは釈迦の教えが衰退し、社会も人も大混乱に陥るという思想で、平安後期からこの末法の世になると多くの人が信じ、怯えました。

 そこで人々がすがったのは、死者が幸福に暮らせる極楽浄土(西方浄土、阿弥陀浄土とも言う)であり、その極楽へと導いてくれる阿弥陀如来でした。貴族たちはこぞって阿弥陀仏を発注し、庶民もまた阿弥陀仏を求めるようになったのです。

革命的な「寄木造」

 中国の影響から脱して和様の仏像を完成させた定朝は、仏像の製法にも革命をもたらしました。それが、複数の木製ピースを合わせて組み立てる「寄木造(よせぎづくり)」です。制作過程で足りない部分に木を足すことは以前から行われていましたが、定朝の寄木造は複数の仏師がばらばらにつくった首、頭、胴体を組み立てるプラモデルのような形式です。これにより生産性が格段に高まり、急激に増加した造像需要に応えられたのでした。定朝はその功績で仏師として初めて僧位を得ています。

 定朝を中心とする仏師集団はやがて枝分かれし、その一つである「慶派」から有名な運慶、快慶が登場します。奈良を拠点としていた慶派は、仏像の骨格や筋肉をデフォルメした力強い仏像を生み出しました。代表的な像は、東大寺南大門を護る阿形・吽形の仁王像で、もちろん寄木造です。

 ところで、定朝が編み出した寄木造はせいぜい10ピースでしたが、それを継いだ慶派では、その数が一気に増加しました。身長8mの仁王像に使われたのは、3000以上の木製ピースです。仏像一体を3000ものピースに分けたのは、数ミリ単位の違いにこだわって完璧な形を目指すためだったと言われています。実際、1989年から5年がかりで行われた平成の大修理で、胸や臍の一部を制作過程で替えていたことが確認されました。仁王像は運慶と快慶の共作ですが、細かい指示を出して全体を指揮したのは運慶だと言われています。

「人間らしさ」を追い求めた鎌倉時代

 平安時代が終焉を迎え、鎌倉幕府が成立すると、慶派仏師は活動場所を関東に移します。運慶が生み出すダイナミックで写実的な仏像は、新政権を担った鎌倉武士たちの好みとぴったり一致したのです。

 前回のコラムでも紹介したように、目の部分に穴をあけて水晶をはめ込む玉眼や、紙や布でつくった内臓を仏像の体内に収めたのも慶派の特徴で、これがそのまま鎌倉仏の特徴ともなっています。

 慶派の中心仏師である運慶と快慶は、いずれも「より人間らしい像」を目指し、伝統的な手法を学んだうえに個性を加えていきました。運慶の場合は年々アーティスト性を深め、後年の作は「行き過ぎた写実」とでも言うべきダイナミックな表現が目立ちます。

 一方、熱心な浄土教信者だった快慶は、寄木造の阿弥陀如来像を数多くつくりました。躍動的な運慶仏とは異なり、平面的で穏やかな印象です。定朝の阿弥陀仏に比べてより繊細で華麗な着色が施されている快慶の阿弥陀仏は「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれ、令和の今に至るまで「阿弥陀像の典型的な姿」と評されています。

  日本における仏像の造像は、鎌倉時代の運慶、快慶で完成を迎えた、と目されています。仏像関連の書物も、鎌倉時代の表記で締めくくられているものが大半です。

 実際、鎌倉につづく室町、江戸時代には、傑出した仏師が出現していません。しかし、平安後期から仏教と仏像は庶民に広がりつづけ、江戸時代には遠方の仏像を江戸に運んで見物する「出開帳(でかいちょう)」という催しが盛んに行われました。今で言う博物館展示ですが、江戸時代には寺などで開催されていました。なかでも法隆寺の夢違観音が人気を呼んだ、と伝わっています。

夢違観音 法隆寺

意外と面白い江戸時代

 江戸時代につくられた仏像に関しては、資料が乏しいのが現実です。しかし、この時代には、非常に特徴ある仏像がつくられていました。私が近年注目しているのは、江戸時代につくられた中国風の仏像です。

 平安後期に「和風」を確立したはずなのに、なぜまた中国風の仏像が江戸時代に出現したのか。その鍵を握るのは中国からやってきた隠元禅師です。

 日本で黄檗(おうばく)宗を開いた隠元禅師は、インゲン豆や文字の明朝体、20字×20行の原稿用紙を日本にもたらした人物でもあります。しかし、彼が黄檗宗寺院に建立した仏像についてはあまり知られていません。おそらく私たち日本人がイメージする「仏像」とはかけ離れているため、注目されなかったのでしょう。

 隠元禅師が建立した京都の萬福寺など、黄檗宗寺院を中心に安置されている中国風仏像には、仏教とは関連のない中国古来の神や三国志の英雄・関羽を仏教の仏にしたものまでが含まれています。これら黄檗様の仏像は、中国福建省出身の范道生(ぼんどうせい)が土台をつくり、范に師事した日本人仏師・松雲元慶(しょううんげんけい)によって江戸の町に広がりました。

 たとえば「招き猫の寺」としても知られる東京世田谷区の豪徳寺や、目黒区の五百羅漢寺にも松雲仏師の手による中国風仏像が安置されています。

 以上、仏教美術史を学ぶ学生に1年かけてする講義を、ぐっと凝縮してお伝えしました。この小文が、少しでも仏像鑑賞の手引きになれば、あるいは好きな仏像を見つけるための参考になればうれしく思います。

 魅力のある仏像は奈良や京都だけにあるわけではありません。有名なお寺だけにあるわけでもないのです。皆さんの家の菩提寺、あるいは近所のお寺にも、ワケがあって隠されている素晴らしい仏像、まだ魅力を知られていない仏像が眠っているかもしれません。


構成:浅野恵子