中国の影響が色濃い飛鳥時代

 ここからは、日本における仏像の変遷を見ていきましょう。大陸からもたらされた仏像をまねることからスタートした日本の仏像は、平安時代後期に日本独特の「和風仏像」へと変化し、その後も独自の発展を遂げていきます。

 日本で最初の仏像は今からおよそ1500年前の538年(552年説も)、仏教経典と共に百済の聖明(せいめい)王から贈られました。いきさつには諸説ありますが、当時新羅に圧迫されていた百済が、日本を味方にする手段として仏教を利用した、との説が有力です。

 ときの欽明天皇から豪族の蘇我氏に託された仏典と仏像は、飛鳥にあった蘇我氏の屋敷に安置されたと伝えられます。しかしこの仏像は、仏教の普及に反対した物部氏によって屋敷ごと焼かれ、今は残っていません。

 現存する日本最古の仏像は、飛鳥の安居(あんご)院(通称・飛鳥寺)に安置されている釈迦如来坐像で、「飛鳥大仏」とも称されています。この仏像をつくったのは漢民族系渡来人の子孫、鞍作止利(くらつくりのとり)で、もともとは馬具などをつくる職人だったことが苗字から推測できます。止利はそのまま仏像をつくりつづけ、日本の仏師第一号となりました。

 止利仏師の手による仏像及びそれを模した仏像は、「止利様式」と呼ばれます。代表作は、法隆寺金堂に安置されている「釈迦三尊像」でしょう。三尊像とは三体の仏像が一組になった形式で、中央が「中尊」と呼ばれるメインの像です。法隆寺金堂の釈迦三尊像の中尊に、止利様式の特徴がよく表れています。

釈迦三尊像 法隆寺

 仏像の造形は時代ごとに変化していきますが、それが顕著に表れるのは顔です。止利仏師は一貫して、方円形の顔をつくりました。目は大きく開いた杏人形(きょうにんぎょう=アーモンド形)で、口は左右の口角がやや上がっている仰月(ぎょうげつ)形です。一目見て、頬笑んでいるように見えます。いわゆる「アルカイックスマイル」です。

 アルカイックスマイルは紀元前6世紀頃のギリシャ彫刻を指す名称ですが、止利仏師が手本としたのはギリシャ彫刻ではなく、中国南北朝時代につくられた龍門石窟の像でした。インド、中国から朝鮮半島を経て日本に上陸した仏像は、中国式の仏像を模すことから始まったのです。

 中国の影響をはっきり示すのは仏像の服装です。仏教が誕生したインドで最初につくられた仏像は、服装もインドの僧侶が身につける袈裟に倣っていました。袈裟は1枚の布を身体に巻き付けるのが原則で、インドには2種類のまとい方があります。両肩を左右対称に覆う「通肩(つうけん)」と、右肩を露わにして巻く「偏袒右肩(へんたんうけん)」です。

 ところが、紀元0年前後に仏教が伝播した中国では、袈裟のまとい方に自国風のアレンジがなされました。中国の仏像は、袈裟に加えて下半身をぐるっと一巻きする裳(も)を用い、裳が落ちないよう胸元で紐が結ばれています。これは漢民族の服装がルーツです。

 先述の止利仏師が最初に手掛けた飛鳥大仏にも、法隆寺金堂の釈迦三尊像にも、この胸元の紐が確認できます。ただ、その胸板は薄く、横から見ると不自然に感じることでしょう。この時代、仏像を横から鑑賞することは考えられなかったため、止利仏師は側面をほとんど気にせず制作したのです。 

童子風のアレンジ

 仏教美術において、飛鳥時代につづく区分は白鳳時代でした。「でした」と過去形で記すのは、現在多くの国立博物館では「飛鳥後期」と称されているからです。白鳳は大化のあとにつづく白雉(はくち)年間を讃えて言うときの「美称」で、正式な年号ではありません。そのため「飛鳥後期」と称されることになったのですが、仏像の様式は初期の飛鳥時代と明らかに変わるので、私は今も「白鳳」の名称を使っています。

 白鳳期の仏像は顔つきが若々しく、目はかまぼこ形に変化しました。飛鳥仏がたたえていた頬笑みは消えています。なぜ突然仏像の表現が変わったのか。そこにもやはり中国の影響があります。白鳳時代(白雉年間)から中国との交流が盛んになったのです。  

興福寺旧金堂本尊

 中国は618年から907年まで唐の時代がつづきますが、文学史や美術史では初唐(618~712年)、盛唐(712~826年)、中唐(762~826年)、晩唐(826~907年)と区分されます。

 白鳳時代はこのうちの初唐に当たり、仏像制作も遣唐使が持ち帰る品物や情報の影響を色濃く受けたのです。初唐期の中国では、写実に向かう過渡期的な仏像がつくられていました。洛陽市近郊に残る龍門石窟賓陽南洞本尊が代表的な初唐仏で、角ばった頭部に豊かな頬が特徴です。

 日本では頭部だけ残された興福寺旧東金堂の本尊・薬師如来像(上の写真・釈迦如来説もあり)と、法隆寺の夢違観音が代表的な白鳳仏として知られています。どちらも初唐の仏像を模したつくりですが、初唐の像より頬のふくよかさと、合わせる唇のゆるさが増して、童子のイメージが強調されています。隣国の影響を受けてつくりながら、多少日本風のアレンジを加えたのでしょう。しかし、日本の仏像が明確に独自の姿に変化するのは、まだ300年ほど後のことです。

写実表現が完成する天平時代

 奈良に都がおかれた奈良時代は美術史で言う天平時代に当たります。この時代、盛唐と呼ばれる絶頂期を迎えていた唐との交流はさらに盛んになり、さまざまな面で日本に影響がもたらされました。奈良遷都を行った元明天皇は、唐の都・長安に倣って奈良の都を碁盤の目状につくりあげます。

 724年に即位した聖武天皇は仏教に深く帰依し、全国に国分寺と国分尼寺を建立して釈迦如来像を安置し、東大寺に大仏を建立しました。その理由として、聖武天皇の即位後に起きた地震や干ばつなど自然災害による飢饉や伝染病被害者を癒す、と詔(みことのり)で述べられています。しかし他方、聖武天皇が目指す中央集権国家確立のために、仏教を利用した側面もあったと目されています。

 東大寺の大仏は、大乗仏教経典『華厳経』の中心的な仏である廬舎那仏(毘盧遮那仏)で、密教で言う大日如来と同一と考えられています。廬舎那仏も大日如来も全宇宙を統(す)べる仏と解釈されますので、東大寺の大仏は全国の国分寺、国分尼寺でその土地を護る釈迦如来像の司令塔として、国全体を護る役割です。つまり、東大寺がある奈良で、聖武天皇が仏教を通じて日本全土を統括している、という構図になります。

 奈良時代の仏像は、正確な人体把握にもとづく表現がなされ、「人間」に近づくのが特徴です。それまで直立に近かった身体には動きが出始め、衣文も自然な表現になってきます。表情は豊かになり、心の内が顔にも表れるようになりますが、現在の東大寺の大仏の顔は、先に説明したように、江戸時代につくられたものです。

 では、心の内まで見えるようになった天平時代の仏像とは、どんな表情なのでしょう。代表的な像を挙げるとすれば、東大寺の四天王像や興福寺の阿修羅像です。

 飛鳥、白鳳時代の四天王は直立不動でしたが、天平になるといよいよ動きが出てきます。表情も仏教界のガードマンらしく引き締まり、筋肉質の身体にまとっているのは、オーダーメイドのようなぴったりした甲冑。邪鬼を押さえつけている足は、いまにも動き出しそうです。

 興福寺の阿修羅像は、日本一人気の高い像と言われます。三面六臂の姿もさることながら、端正な正面の顔が憂いを浮かべた表情に見えることも人気の理由かもしれません。

阿修羅像 興福寺

 つくり方に注目すると、白鳳時代まで大半が銅で制作し表面に鍍金(金メッキ)を施した金銅仏と木像仏だった仏像に、「塑像」と「乾漆像(脱活乾漆像、木心乾漆像)」が加わりました。やはり唐から伝わった制法で、東大寺の四天王像は塑像、興福寺の阿修羅像は脱活乾漆像です。

 塑土(粘土)でつくる塑像は飛鳥時代に日本へ伝わり、天平時代になって盛んにつくられるようになりました。脱活乾漆像は木組みに粘土や土を塗った原型に麻布を貼り、表面に漆を塗って仕上げます。内部が空洞のため見た目より軽く、火災時などにすぐ担いで避難させることが可能です。