――時間が過去から現在、未来へと流れているのは疑う余地がないほど当たり前のことのように思えますが、物理学の世界ではそうでもないそうですね。

 はい、基礎的な物理法則では時間の向きを決めることはできません。たとえばビリヤード台の上でいくつかのボールが衝突しながら動き回っているとします。その様子を撮影して逆再生してみても、順再生と見分けることができないんです。もちろん、台との摩擦や空気抵抗によってスピードが落ちていくということはありますが、それらを除くと、順再生も逆再生も同じように、力学の法則に従って動いているように見えるわけです。

 これは電磁気学や波動力学、素粒子物理学といったすべての物理現象にあてはまります。ただ、素粒子の場合は時間の向きだけでなく、時間と空間、粒子と反粒子をひっくり返すという条件が必要になりますが、時間の向きは基礎的な物理法則のなかには含まれていない、というのが現在の考え方です。

――とはいえ、われわれは刻一刻と歳をとっていきますし、どんなに望んでも過去に戻ることはできません。時間の向きはやはりあるとしか思えないのですが……。

 これはビッグバンの性質によるものです。結論から言ってしまうと、宇宙のはじまりがビッグバンという非常に整然とした特殊な状態だったため、それが崩れていくことによって時間の方向性が生まれと考えられます。

 ――整然とした状態が崩れると時間に向きが生まれる? 

 たとえば、小さなサイコロがたくさん入った箱を振ったときに、それぞれのサイコロの目がどのように出るかを考えてみましょう。サイコロはニュートン力学に従ってくるくる回るだけなので、その様子を撮影して逆再生しても、ビリヤード台の球と同じように、順再生と見分けることはできません。つまり、時間の向きは見出せないわけです。

 しかし、サイコロを箱に入れるときに全部1の目を上にしていたらどうでしょうか。この状態で箱を振ると、それぞれのサイコロの目はランダムに変わっていきますが、逆再生では、さまざまな目からすべてが1の目になるという非常に変な過程に見える。つまり、順再生と逆再生で違いが生じるわけです。

――順再生は自然に、逆再生は不自然に見えると。

  ビックバンというのはこのすべてのサイコロが1の目を出して並んでいるような状態であり、そこから目がランダムに変わっていく過程が、われわれに時間の向きを感じさせているのです。

――なるほど。 

 ビッグバンというのは「大きなバーンという爆発音」を意味する言葉で、もともとはその言葉通り、宇宙はある瞬間に爆発から始まったと考えられていました。ここで爆発というのは、連鎖反応によって微小な粒子が次々とエネルギーを放出する過程のことです。そのため、爆発によってエネルギー分布が完全に均一になることはありません。核爆発にしても、ガス爆発や粉塵爆発にしても、必ずエネルギーのムラが生じ、それに伴って温度は場所によって大きく変化します。

 ところが宇宙には、爆発に必然的に伴うはずのこの揺らぎがほとんど見られません。どこを向いても同じように星々があり、銀河の分布も大体同じ。宇宙背景放射はどこで測っても2.73度で変わらない。ビッグバンがもしも爆発だとしたら、このような状態になることはあり得ないんです。

 そこで登場したのが、「インフレーション理論」と呼ばれるものです。この理論が初めて提唱されたのは1981年ですが、その後1990年代から2000年代にかけて改良された理論によると、宇宙はビッグバンから始まったのではなく、実はビッグバン以前に既に存在していた。ただし物質がなかった。何もない状態で膨張し、ある大きさになったところで、空間のなかに閉じ込められていた暗黒エネルギー(ダークエナジー)と呼ばれるエネルギーが外部に漏れだしてくる。このときはまだ宇宙が小さかったので、そのエネルギーは全体に一様に分布します。

 ――爆発で生じるようなエネルギーのムラがないわけですね。

  ただ、この暗黒エネルギーが何なのかということや、どうやって空間のなかに閉じ込められていたのかということはまだよく分かっていません。それは一旦置いておくとして、暗黒エネルギーが漏れ出た後、宇宙はどんどん膨張していきます。するとそれに伴ってエネルギー密度が低下し温度も下がっていくのですが、そのときに所々でエネルギーの共鳴状態が残ったわけです。

 ――共鳴状態というのは?

  たとえば大きな地震が起きたときに、地面の揺れは収まっても、建物がまだ揺れていることがありますよね。東日本大震災では、新宿の高層ビルが地震後も10分以上揺れていたようですが、これは地面の揺れとビルの振動が重なり合い強められたことで起きた現象です。

 これと同じように、漏れ出した暗黒エネルギーによって、宇宙のあちこちで激しい振動が生じます。前回の最後に「素粒子」は粒子ではなく「場の状態」だという話をしましたが、暗黒エネルギーが外部に出てきたせいで、(巨大地震でビルが揺れるように)場の一部が共鳴を起こして激しく揺れ続けているのが、電子や陽子といった素粒子に他なりません。つまり、宇宙に存在する物質というのは、ビッグバンのエネルギーが希薄化されず、共鳴状態の振動エネルギーとして保存されたものなのです。

 そして、こういった物質の周りでは空間がゆがみ、万有引力によって他の物質が集まってくるので、それらがやがて天体を形成していったというわけです。

 時間の向きに話を戻すと、何もない空間に暗黒エネルギーが漏れ出し、非常に高温でかつ整然とした――サイコロの目が全部1になっているような――状態、これがビッグバンであり、その完璧な状態が崩れ、エネルギーが希薄化していく不可逆的な現象によって時間に向きが生まれた。つまり、時間そのものに過去から未来へと向かう性質があるのではなく、「ビッグバンから遠ざかる向き」として、時間の方向性が定まったのです。

――時間の向きを「エントロピー」を使って説明しているものもよく見かけますが、エントロピーというのはどのような概念なんですか。

  もともとは温度の高いところから低いところに熱が流れていくことを説明するために定義されたものですが、それをボルツマンが「パターンの数」を使って一般化しました。大まかにいうと、物理現象は基本的にパターンの数が少ない(=エントロピーが低い)状態からパターンの数が多い(=エントロピーが高い)状態へと変化する。これを「エントロピー増大の法則」といいます。

 さっきの例で言うと、箱の中のサイコロが全部1の目を出しているパターンは一通りしかありませんよね。これはサイコロが何個あったとしても同じです。それに対してどの目でもよいのであれば、一つのサイコロだけで6パターン、仮にサイコロが10個だとすると、6の10乗(60,466,176)通りのパターンがある。つまりそれだけ、ランダムな目になることの方が多いということです。われわれは、特殊な状態からよくある状態へ移行することの方が、その逆よりも自然だと感じるので、エントロピーが増大する向きに時間が流れると感じるわけです。

――なるほど。エントロピーのことを「散らかり具合」と表現している本を見た記憶がありますが、住み始めた時はきれいに片付いていた部屋が徐々に散らかっていくのも、いわば「エントロピー増大の法則」ですね(笑)

 散らかり具合というのは、たしかにいい表現かもしれません。

――宇宙のエントロピーが増大していくというのはわかりましたが、生物というのはそれ自身のなかに秩序をもった自律的な構造体ですよね。こうした存在が(少なくとも地球で)誕生したというのは、エントロピー増大の法則に反するようにも思うのですが、いかがでしょう。

 おっしゃる通り、生物はエントロピーが減少したことで誕生しました。ではなぜそんなことが起きたのかというと、太陽から地球に大量の光と熱が降り注いだことが原因です。

 太陽は自ら光を発する恒星で、その表面温度は約6,000℃です。一方、現在の宇宙の温度は零下270℃くらいなので、惑星は冷え切っています。そのため、恒星から惑星へは巨大な熱の流れが生じ、エントロピーがものすごい勢いで増大する。するとその一部で、エントロピーが減少するような過程が見られるわけです。

 熱の流れを、水の流れに置き換えるとイメージしやすいかもしれません。水は必ず高いところから低いところに流れますが、滝のように大量の水が流れ落ちる場合、途中に岩棚があったりすると、そこで跳ね返されて上昇する水滴もある。しかしこの水滴もやがては落下に転じるわけなので、全体として見れば、重力の法則が破られているわけではありません。それと同じように、ある惑星の表面で一時的にエントロピーが減少するような過程が見られたとしても、全体としては、エントロピー増大の法則が破られたわけではないんです。。

――生物の誕生というのは、エントロピー増大の法則のなかで起きた特異な出来事だったんですね。