酒屋といえば、現代では酒を売っている店を意味しますが、古代には酒を造る建物のことを酒屋と呼んでいました。奈良時代初期に編纂された『播磨国風土記』では、「酒殿を造りし処(ところ)を、即ち酒屋の村と号(なづ)け」たと記しています。そうした酒屋は、実は大きな寺院にも置かれていました。
神々には酒を捧げるのが日本の伝統であるため、春日大社や香取神社など大きな神社には酒を造る施設がもうけられ、専門の神人(じにん)が作成にあたっていましたが、神仏習合が日本仏教の特徴ですので、東大寺や醍醐寺のような大寺にもそのような施設があり、鎮守神のために酒を造っていたのです。
酒を捧げて鎮守神を祀る以上、終わった後の直会(なおらい)では、僧侶たちもお下がりの酒を皆で飲むことになります。また、朝廷のための大がかりな法会をおこなった際などは、派遣された勅使から慰労の酒が下賜(かし)されました。鎮護国家の寺院としては、そうした酒を断ることはできませんし、朝廷や幕府などから派遣されてきた貴人については酒宴で接待するのが礼儀とされていました。他にも大がかりな儀礼の後は酒宴となる場合が増えていったようです。
そうなれば、湧き水や井戸の水がきれいな地に建立され、上質の米が献上される大寺院で造る酒の質が向上していくのは当然でしょう。しかも、身分の高い僧侶が中国に渡る際は、おつきの者たちも同行しますし、医学書を初めとする様々な技術書ももたらされますので、中国の進んだ酒造りの技術が大寺院に導入されることになります。
その結果、室町時代になると、僧坊酒、すなわち寺院で造られた酒が名酒と称されるに至りました。中でも天下一の美酒として名高かったのが、河内長野に位置する天台宗の名刹、天野山金剛寺の酒です。「天野酒」と称されたこの寺の酒は、毎年、将軍に献上されており、豊臣秀吉もわざわざ朱印状をくだし、丁寧に造って献上するよう命じているほどです。
ここまで来れば、きまじめな僧が寺院内での禁酒を命じたり、幕府が寺院に対してしばしば禁酒令を出したりしたにもかかわらず、僧侶が日常的に酒を飲む機会が増えていったのは無理ないところです。そもそも、釈尊の時代から病気治療のために酒を飲んだり傷に塗ったりすることは、薬酒として認められていました。
そうしたインド以来の仏教と酒の関係の歴史については、村田みお氏との共著、『教えを信じ、教えを笑う』(臨川書店、2020年)後半の「酒・芸能・遊びと仏教の関係」で概説しましたので、本稿では、そこで取り上げることができなかった事柄を紹介していきましょう。
禅僧に酒飲みが多いわけ
中世から近世の日本において、諸宗の僧侶の中で最も公然と酒を飲んでいたのは、禅宗の一部の僧侶たちでした。鎌倉時代に戒律を復興させて厳しく守り、肉食が普通のこととなっていた中国から来た僧たちを感心させた律宗の僧侶と同様、日本の禅僧には戒律を厳守して修行に励む者たちもいたものの、正反対の僧も少なくなかったのです。
そもそも、臨済宗の開祖とされる臨済義玄(?~866/867)は、常識に縛られることを嫌い、「様々な経典などは、不浄(糞)を拭う古紙にすぎぬ」と言い切り、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し……それでこそ始めて解脱(げだつ)を得、物にとらわれることがなく、自在に突き抜けられるのだ」と説いていました。
臨済は、こうした境地は達人のものであるからうかつに真似してはならぬと戒めていましたが、臨済を気取り、細々とした規律などに縛られないことを誇る禅僧たちの中には、大酒を飲んで釈迦や達磨や高名な僧たちを罵り、高歌放吟(こうかほうぎん)し、冗談を好み、贅沢な品や風流を楽しむなど、世間の顰蹙を買うようなことをわざとやってみせる者も少なくなかったのです。
また、世間もそうした禅僧を尊んだことは、風狂な振舞いで知られ、酒を好み女性を愛してそれを詠った濃艶な漢詩を多く残した一休禅師が、型破りの自在な禅者として今日に至るまで親しまれていることが良く示しています。
「菩提の泉」
さて、寺院で造られる僧坊酒の品質を支えたのは、発酵をうながす菩提酛(ぼだいもと)と呼ばれる酒母でした。この菩提酛で造った酒で先述の天野酒とならんで早くから名高かったのが、一条天皇の勅願によって正暦3年(992)に奈良の南東に創建され、15世紀に興福寺大乗院の末寺となった菩提山正暦寺(しょうりゃくじ)の名酒、菩提泉(ぼだいせん)です。「菩提(悟り)の泉」とは、酒を「般若湯(智恵のスープ)」と呼ぶのと同様、洒落た名前ですね。
私は仏教文化史の授業でこれらについて紹介した際、学生たちにもこうした酒の名を考えさせたところ、「仏の涙」とか「極楽水」とかいった傑作がいくつも出てきました。焼酎で「達磨」という案があったので尋ねてみると、「強くて腰が立たない」という理由でした。さすがに仏教学部の学生だけに、達磨大師が坐禅に励みすぎて足が腐ったという伝承や、足のない張りぼてのダルマさんなどを考慮した命名をしたわけです。
その菩提泉が有名になったのは、平安末頃に奈良の寺院で開発されたと言われる製法によるものです。それまでは、日本人は玄米を用いた灰色の濁酒(どぶろく)を飲んでいましたが、麹米と掛け米の両方に精白した米を使うことによって、今日の清酒に近い酒が生まれたのであって、その製法とそれによって生まれた酒が「諸白(もろはく)」と呼ばれました。
その諸白の本場は、「南都諸白」という言葉があったことが示すように奈良の寺院であり、そこで用いられた酒母が先述の菩提酛だったのです。この菩提酛を用いた諸白を創り出したのは正暦寺と言われており、これには異論も出ていますが、正暦寺が酒造りの技術革新において大きな役割を果たしたことは広く認められています。
実際、正暦寺が本寺である興福寺に上納する酒税は「菩提山壺銭」と呼ばれ、興福寺の貴重な財源となっていました。上納が遅れると興福寺は僧兵を派遣して強要したほどであり、時には武力による抗争もあったと伝えられています。
再現された名酒
その正暦寺の菩提泉については、作成法が昭和になって知られるようになりました。中世産業史研究で知られる小野晃嗣博士が秋田の佐竹藩の文書を調査していたところ、酒造りの方法を記した「御酒之日記」と称する写本があり、なんと菩提泉の造り方も書かれていたのです。博士がこれを翻刻して『日本産業発達史の研究』(至文堂、1941年)に掲載したため、大いに注目を集めるようになりました。
戦後になって、この伝統ある醸造法の再現に挑み、最初に成功したのは、奈良ではなく、意外にも岡山の酒造メーカーでした。その製品は、昭和60年に濾過しない「菩提酛にごり酒」として発売されています。むろん、本家となる奈良の醸造家たちも奮闘しており、正暦寺に最も近い場所にある安川酒造では、少し遅れる昭和63年に菩提酛造りに基づく清酒の「菩提泉」を発売し、商標登録を許してくれた菩提山正暦寺にその酒を奉納したのです。
ちなみに、「菩提泉」は「ぼだいせん」と発音しますが、「菩提山」も仏教語の通例である呉音での発音は、「須彌山(しゅみせん)」などと同様であって「ぼだいせん」であり、「菩提泉」はそれに掛けた名なのです。中世にそうした名をつけた上質の酒を売り出して大成功した正暦寺は、すぐれた醸造家であっただけでなく、名コピーライターでもあったと言えるでしょう。