2000年代のはじめ、日本社会では「ジェンダー・バックラッシュ」と呼ばれる現象が起こりました。大雑把に言うと、保守派の政治家たちが、かれらの重視する家制度や戸籍制度といった価値観に基づき、女性の人権を擁護するフェミニズムを攻撃する運動です。そのきっかけとなったのは、1999年に施行された「男女共同参画社会基本法」(以下、「共同参画法」)でした。
この運動で「バックラッシュ派」が槍玉に挙げたのが「ジェンダー」という概念です。彼らの言い分をそのまま書くと「『共同参画法』をつくった者やそれに賛成する者はすべて共産主義者である――共同参画の「共参」とは「共産」のことである――。この共産主義者たちが使うジェンダーという言葉には、性差は存在しないという意味が含まれている。つまり『共同参画法』とは、社会から性差を抹殺しようとする『ジェンダー・フリー法』である。よって、性差があることが科学的に示されれば、この法律や共産主義者の言うことが誤りであることが証明される」となります。
このような前提のもとでバックラッシュ派は、後述する『ブレンダと呼ばれた少年』の事例を持ち出し、「ジェンダー・フリー派」の言い分は完全に否定されたと主張しました。しかし、はたしてこの主張に正当性はあるのでしょうか。そもそもジェンダーとは、かれらの言うように、性差を否定するような概念なのでしょうか。このことを考えるために、まずはフェミニズムの歴史から見ていくことにしましょう。
第一波と第二波
女性の権利や社会的地位を擁護するフェミニズムの出発点は、フランス革命に代表される西洋の市民革命だとされることが一般的です――あくまでも一般論であり、フェミニズムに通ずる考えがその他の国や地域にもあったことはつとに指摘されています――。市民革命は、身分差別が常識だったそれまでの社会とは異なり、「人間」は生まれながらに平等であるということを社会をつくる上での基本原理としました。フランス革命に参加した女性たちの中にも、オランプ・ド・グージュ(1748-1793)のように、人間に貴族や平民といった身分の差はないとするフランス革命の思想を用いて、それと同様に男性と女性も平等であるはずだという議論を展開した女性もいました。またイギリスの社会思想家メアリ・ウルストンクラフト(1759-1797)も、『女性の権利の擁護』という本を書き、同様の考えを主張しました。けれども、グージュは断頭台で処刑され、ウルストンクラフトの著作も世間から忘れ去られました。ウルストンクラフト再評価の動きが起きたのは、第二波フェミニズム運動台頭以降のことです。
「人間」は生まれながらに平等であるということから生まれたのが民主主義です。しかしながら当初はこの「人間」の中に女性は入っていませんでした。そんな状態が100年以上続きました。なぜ? と思われる方も多い(そうあってほしい)と思いますが、これはその後生まれた「市民権」についての考え方と関係しています。
政情が不安定な革命後のフランスは、領土の拡大をめざすヨーロッパの国々にとって格好の標的でした。これに対抗するために革命政府は義勇軍を募ります。さらに、軍事力を強化するために徴兵制をしき、世界初の「国民軍」を結成します。それまでの戦争は職業軍人である傭兵同士によるものが普通であり、彼らには国のために戦うという意識はありませんでした。そんな中、時に自分の命よりも国を重んじる国民軍を率いて連戦連勝を遂げたのがナポレオンです。こうした経緯から、フランスでは徴兵制を「市民権」と結びつける考え方が生まれます。すなわち、市民とは国のために命と金(税金)を差し出す者であり、兵役につかず、税金も納めない女性――納税している女性もいましたがごく少数でした――はその限りではない、と考えられたのです。
やがて、フランス以外の国々でも議会が開設され――その本音はどこも国民軍がほしかったからですが――民主主義が広まる一方、女性はその政治の場から完全に除外されていました。こうした状況に異を唱え、女性が政治に参加する権利を要求したのがフェミニズムのはじまりです。
フェミニズム運動が実を結び、世界で初めて婦人参政権が認められたのは1893年のニュージーランドです。フランス革命から実に100年以上の年月が費やされました。議会先進国のイギリスでは1918年に戸主の女性に限って参政権が認められ、1928年には男女平等の選挙権となります。フェミニズムに思想的基盤をもたらしたフランスはそこから大きく遅れ、1945年になってようやく成立しました。ちなみに日本でも、同年の敗戦後に、女性の国政への参加が認められています。こうした婦人参政権の実現を主な目的とする運動を「第一波フェミニズム」と呼びます。
こうして20世紀の中頃には多くの国で法の下での男女平等が実現しました。当時書かれたものを読むと、運動に参加した女性たちはこれで十分だと思ったようです。あとは自分たちが実力をつけさえすればいい、と。ところが、実状はそうではありませんでした。参政権が認められても、女性を男性より劣ったもの、能力のないものとする社会の風潮や態度は変わらなかった――このことは、当時の医学や生物学など科学が、女性を男性よりも劣っているとしていたことにも影響を受けています。また、欧米で広まっていたフロイトの精神分析等の精神療法が、男女の身体や精神を全く異なるものと定義し、それゆえ女性は「家にいて子育てをすることを幸福だと感じる」のが通常であり、そうでない女性は異常だと主張していたことにも、大きく影響を受けています――。
こうした状況を変えていこうとする動きが1960年~70年代のアメリカを震源地として起こります。彼女らは家庭内での権力関係や性暴力、人工妊娠中絶をめぐる身体的自己決定権といったプライベートな領域における問題を明るみに出していきます。そして、「参政権」という、男性によってつくられた人権を求める運動を第一波フェミニズムと定義し、自分たちを「第二波」としました。第二波は「そもそも人権とは何か」ということを女性の立場から考え直していく運動だったと言うことができるでしょう。そして、そのキーワードの一つが「ジェンダー」だったのです。