――第二次大戦におけるメディアと軍部の結びつき、もっと言うと日本の軍国主義化へのメディアの「貢献」は多くの人の知るところですが、自由民権運動のきっかけとなり、日露戦争の前には開戦の是非を論じていた新聞が、なぜ、軍部の暴走に追随してしまったのでしょうか。

 これは簡単ではないし、私もよく分かってない部分がありますが、一つは1925年に「普通選挙法」が成立しますよね。それまでの選挙では高額な税金を納めている「エリート」にしか投票権がなかったのですが、普通選挙法によってすべての男性に投票権が与えられ、さまざまな階層の人が政治に目を向けるようになりました。加えてヨーロッパからは労働運動の思想などがもたらされ、民衆の主体性が喚起されていたところに、世界恐慌による不況の波が押し寄せてくる。政府はもちろん対策を講じるけれど目立った効果はなく、出口の見えない状況が続く中で、次第に民衆も、そしてメディアも言論統制を受けて強く抵抗するのではなく、「頼れるのは軍部だ」という方向に行ってしまったのではないでしょうか。

――軍が海外に侵出して、力で分捕ってこいみたいな「世論」になっていったと。

 あまりそうは考えたくないけど、富を蓄える財閥の一方で、生糸の暴落などで疲弊した農民たちが他方にあり、貧富の差がすさまじく、政党政治がうまく機能しなくなって、貧すれば鈍するみたいなところがあったのではないかと思います。

――そういえば第二次大戦のとき、開戦の報を聞いた人びとは、悲嘆するのではなく歓喜したという話を聞いたことがあります。

 近代国家ではそもそも、戦争が悪いことだなんて思っていませんからね。実際に力で領土の奪い合いをしてるわけですから。でも、西洋諸国では第一次世界大戦後にそれを翻したわけです。国際連盟をつくり、軍縮をはかって、なんとか戦争をしないですむように、平和に共存していけるようにしようとした。この戦争があまりにも悲惨だったから。ところが日本は改心せずに、そのまま来てしまったわけです。一流国家になったということで国際連盟には入るけど、西洋諸国の思想の変化には追いついていけなかった。

――日本は第一次大戦ではいい思いしかしていませんもんね。

 そうなんですよ。軍縮なんていうのは、特に軍部にとってはあってはならないことでした。それで軍部は国民からの支持をとりつけるため、1920年代から軍事思想の宣伝教育に力を入れていく。その一つが「軍事教練」といって、大学や学校に陸軍現役将校を派遣し、ほふく前進とか射撃とか軍事的な訓練を指導させる。これに対して大学では反対運動が起こるのですが、ではメディアもそれを否定したかというと、否定しきれなかった。

――なぜですか。

 『朝日新聞』のリベラル派などは反戦を掲げて否定したかったんだと思いますけど、では国家のための軍隊を否定するのかと。軍隊は近代国家の礎の一つであり、特に当時の日本帝国軍は栄光に包まれた存在で、軍人になり大将になることは男性の出世コースの一つに考えられていました。だから、軍を否定すること自体が、一般国民には支持されない考え方でした。いまは多くの人が平和思想を重んじていると思いますが、当時はそうではありませんからね。

――なるほど……。

 少しさかのぼると、1918年からの「シベリア出兵」が一つのポイントではないかと思います。このシベリア出兵は七年も続き、三万人以上の戦病死者を出し、当時で七億円という巨額をつぎ込んで、何も得るところがなかったという戦争であり、これをメディアがちゃんと否定していれば、もしかすると世界の潮流と一致した、つまり戦争を避ける方向の世論を築けていたかもしれない。実はシベリア出兵の報道は最初から報道統制下におかれ、メディアの弾圧事件として有名な「白虹事件」と繋がっています。しかし、シベリア出兵報道そのものの研究はまだ十分にされていないので、一度ちゃんとやりたいと思っています。

玉音放送

――戦前・戦中に民衆が接していたメディアには、新聞と並んでラジオがありますよね。『日本メディア史年表』(吉川弘文館)を見ると東京放送局がラジオ放送を開始したのは普通選挙法の成立と同じ1925年。そのときの受信者数が920とあって「少なっ!」って思ったんですけど。

 そうですね。ただ、日中戦争以降、政府は一家に一台ラジオを持たせるように奨励しました。ラジオで戦況を聞かせることによって国民を統合しようしたのです。戦中の1943年には実際、700万世帯以上が聴取していたという記録から考えると、一家に一台とまでは行かなくとも、二、三世帯に一台ぐらいに近いところまで普及していたのではないでしょうか。

――いわゆるプロパガンダですね。ラジオで何を流すかは政府が完全に決めていたと。

 当時の放送局は日本放送協会(NHK)しかなくて、放送する内容はすべて逓信(ていしん)省が検閲していました。満州事変以降はそこに軍と情報局からの圧力が加わりました。ラジオ放送の検閲は戦後の占領期にも米軍によって行われましたが、当時の体験者の証言によると、戦時中の検閲に比べたら占領軍の検閲なんて「ラクなもの」だったそうです。

――そして1945年の8月15日には玉音放送が流れるわけですが、天皇の肉声を国民に聞かせるって、いま考えてもかなり思い切ったことですよね。だって、「神」なんですよね。

 玉音放送については以前NHKのドキュメンタリーでもやっていましたけど、すべての国民を納得させて戦争を終わらせるには、もう天皇が出るしかないとなったようですね。しかもそれは天皇の言葉、詔勅(ちょくし)を誰かが代読するのではなく、天皇本人の肉声が必要だった。「現人神」の肉声なんて一般民衆は聞いたことがなかったけれど、指導層を納得させるためだったと思います。

 昭和天皇は皇太子時代に欧州へ行った時の姿がニュース映画で映されたり、二・二六事件の時に反乱軍兵士に対する自らのメッセージがビラやアドバルーンに掲げられたり、新しいメディアに登場することに次々と挑戦した天皇だったと言えるでしょう。

――玉音放送はラジオというメディアがあり、国民に普及していたからこそできたわけですね。

 そうですね。台湾やオーストラリア、ニューギニアといったところで戦っていた部隊も、玉音放送が流れたとたんに戦闘をやめたという記録があります。録音盤を流した可能性もあるので、多少の時間差はあったかもしれませんが。

――天皇を崇敬させることで戦争のための国民統合や挙国一致が進められてきたことを思うと、その戦争を終わらせるために天皇の声を流すことには、たしかに必然性があったように思えますね。