――時代を一気に下って、現代のメディアとしてはやはりインターネットの存在が大きいと思うのですが、これまでの新聞・ラジオ・テレビといったメディアとインターネットのいちばんの違いは何だと思われますか。

 決定的に違うのは、やはり、誰でも発信できるということでしょうね。しかも匿名で。ただ、幕末から明治の初めにも、一時期それに近いメディアがありました。匿名で特定の人物をけなしたり、秘密を暴露したりする「悪摺(あくずり)」と呼ばれる出版物が大量に出回ったんです。それと、江戸時代に流布した「かわら版」もネットと似ている所があって、いつ誰がどこで発行したのかがよくわからないんですよ。

――そうなんですか。

 中にわかるものはあるのですけど、多くはないです。普通は本でも新聞でも、いつどこで誰が発行したかが記載してありますよね。それは出版法なんかで規定されているからですけど、「かわら版」には基本的にそれがない。だから当時の人びとは、いつ誰がどこで作ったのか、その内容が本当かどうか、次はいつ出るのか、どこに行けば手に入るのかがよくわらなかったのです。いまのネットの情報とすごく似ています。

――なるほど、面白いですね。

 なので、いまみたいな状況がなかったわけではないのですが、ネットも普及しはじめて20年以上たつので、社会としてこれをどう使っていくのかについては、そろそろ整理する時期が来ているのかなと思います。

――とおっしゃいますと?

 つまり、ネットが公共性というものを持てるかどうかということですね。それにはやはり、作り手と受け手の信頼性に基づいたある種の「共同体」をつくっていく必要があると思います。それがいわゆる「サブスクリプション」のような関係性になるのか、それとも別の形になるのか、マスメディアがそこにどう接続するのかはわかりませんが、少なくとも一部の人が言っているように、マスメディアがなくなればいいとは思えないですね。

――最近は「マスゴミ」とかって言われますし、メディアによっては実際にどうかなと思う報道もありますが、個人的にはマスメディアのもつ取材力や組織としてのチェック体制、そしてジャーナリズム精神にはもう一度期待したいという思いがあります。

メディアの役割

 メディアはコアなユーザーだけじゃなく、いろんな人が出入りできる「隙間」がないと発展していかないと思うんですよね。ある政党の支持者だけが読む新聞や、ある宗教の信者だけが見るサイトというのも、それはそれでいいのですけど、それだけだと無数の島宇宙が個々に存在しているだけになってしまう。

 メディアの公共性を、誰もが自由に出入りでき、平和裏に世論を形成していくことだとするのなら、どうすればそれが実現できるのか。私にも答えがあるわけではないのですが、一つはさっきも言った信頼性をどう担保するかにかかってくるように思います。

――いまの特に若い世代ってネットの動画ばかり見ているみたいですね。よく言われることですけど、ネットって自分の好きなものだけを見続けることができるので、たとえば本屋でたまたま目に入った本を買うみたいに、意図してなかった出合いというのが起きにくい。だから興味が広がることもなく、自分だけ、あるいはごく少数の中だけで通じる世界観・価値観のままで大人になる、なんてことになっちゃうのかなと。

 そうですね。やっぱり同じ社会集団として共有するものがないと、話も通じないし、やがては共感もできなくなってしまうと思います。今の若者は既にそれに近づいている気もしますが、自分がすごく好きな歌でも、他の人に話すと知らない、みたいな状況ですから。

――同じ世代なのに共通の話題がない。

 メディアには本来、いろいろな人とコミュニケーションをとるための媒介項という側面があったと思うのですが、ここまで細分化してしまうと、単に個人が「エサ」を食べているというか、情報を消費しているだけで、社会とのつながりがなくなっているように感じます。もちろん、趣味の世界で気の合う者だけが集まるのはいいのですが、共同体なり社会なりをつくっていく上では、閉じるだけではなく、多様性の交流へと開いていくことが必要なんです。

――インターネットも、元々はそっちを志向していたはずですよね。境界を越えてやりとりができるようになり、世界が広がると思ったら……

 逆にタコツボ的になってしまった。かつて丸山真男が『日本の思想』で「日本はタコツボ型社会だ」と論じたことがありますが、今ではインターネットがそうですよね。

 ちょっと思うのは、ネットはオンとオフがピシッと分かれる。やってるときとやってないときがはっきりしているのですが、その中間ができないのかなって。たとえばテレビだったら、見てるような見てないようなことってありますよね。新聞も、電車で隣の人が読んでいるのをちらっと見るとか、昔の紙芝居なんかだと、お菓子が買えなくて遠くから指くわえて見てるとか。そういう、周辺の人もちょっと参加できるような、ぼやっとした広がりみたいなものがつくれないのかなって。

――なるほど、面白いですね。どうしても今は手元の、スマホの中だけの世界ですもんね。

 近代のメディアは時を刻んできました。つまり日刊紙が出るようになったことで、今日は何月何日だというのを誰もが意識するようになった。それ以前には恐らく、今日が何日だろうが何曜日だろうが大した違いはないという人も大勢いたと思います。そしてラジオ放送が始まると、今度は何時何分まで意識するようになる。そういった時流というか、その時代の価値観・世界観をメディアは映してきたと思うんです。

――それこそ、なんとなくつけてるテレビでいま流行っているものを知るみたいな。

 そうそう。でもネットでは自分の好きなものだけを選んでいるから、どうやって時流を感じているのかが、私にはちょっとわからない。

――好きなユーチューバーを見てて、ふと、「年とったな」って思ったときとかですかね。

 うーん……ネットでは秒単位で時が刻まれているけれど、逆に大きな時の流れが感じられにくくなっているのかもしれない。

――最初に、人の移動とメッセージの移動がメディアによって分離したっていうお話がありましたよね。そのときのメディアって本当に公共のものというか、新聞はもちろんですけど、手書きの文字が活字になっただけでも、属人性が消えて、「公共物」のように感じられたんじゃないかと思うんです。

 だからこそ個人の、たとえば福地桜痴という人の書いた記事であっても、それがある種の一般性を持って、世論の形成に関与してきた。でも今はだれもが発信できるようになったことで、個人的なものが個人的なままネットに上げられ、ごく限られた人の中だけでやりとりされる。個人から離れたところにあるはずのメディアが個人と一体化してきてるのかなって。

 戻ってるのかもしれないですね。肉体から離れて発達してきたメディアが、スマホによって個人に同化され、そのうち腕とか頭とかに装着できるようになったら、もう肉体と変わらなくなるのかもしれない。

――そうやって、メディアが「場」として認識されなくなり、単なるテクノロジーになってしまうと、ますます自分の好きなものだけを見て、気の合う人とだけつながっていればいいということになってしまう気がします。

 趣味とか娯楽だったらそれでもいいけれど、やはりそれだけではありませんからね。人は一人では生きられないという原則に立ち戻るなら、社会をつくり、そして動かしていく世論は不可欠だし、その世論の形成過程においては自分と同じ考えの人だけでなく、自分とは異なる考えの人とも接触するがことがどうしても必要です。そこにこそ、メディアの存在意義があるのではないでしょうか。

(取材日:2020年2月4日)