フィリピンへの途上
1950年、市郎の母・木下むら(1892~1976)の元に、厚生省未帰還調査部から「特別審査による死亡認定所見」と呼ばれる文書が届きました。これによると、市郎は満州で無線通信の技術を修得していたことを理由に、戦局が悪化するフィリピン方面へ、航空部隊の補充要員として移転されることになりました。
市郎は1944年6月に満州を出発、7月3日、釜山から「吉野丸」に乗船します。この吉野丸には市郎と同じく、フィリピン方面に派遣される通信技術修得者たちが乗り込みました。一旦、北九州の門司へと戻った吉野丸は、ここで内地から直接フィリピン方面へ向かう兵士たちを乗せました。そのなかに、軍医の井上悠紀男がいました。井上は戦争体験を綴った自伝的著作『海没部隊:駆け出し軍医のネグロス戦記』(井上悠紀男、1987年)において、吉野丸における一連の出来事を綴っています。
1944年7月12日、吉野丸は軍人5,063名、船員153名を載せて門司港を出港します。11隻の輸送船団が6隻の護衛艦艇に守られ、台湾の高雄へ向けて南下するのです。吉野丸は1906年にドイツで客船として建造され、第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、賠償として日本に引き渡されました。1937年、日中戦争が勃発すると陸軍が徴用し、軍隊輸送船としての運用が始まります。吉野丸のように客船が軍隊に徴用されるのは、ごく普通のことでした。
市郎や井上を乗せた吉野丸は内地を離れ、7月21日、台湾の高雄に到着します。ここで燃料や水の補給を済ませ、兵隊たちは10日ぶりに水浴びをして生気を取り戻しました。待望のバナナや氷砂糖に舌鼓を打ち、7月29日、吉野丸は高雄を出港します。ここからは7隻の油槽船(石油類を輸送する船)と合流し、合計18隻の輸送船団が6隻の護衛艦艇に守られ、「ミ11船団」(日本本土とボルネオ島ミリとの間で運航した護送船団「ミ船団」の一つ)としての航海が始まります。
しばらくすると、輸送総指揮官から命令伝達がありました。「本船団は明朝バシー海峡に入る予定。各員一層厳戒態勢の万全を期すべし」。台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡は、「魔の海峡」と呼ばれていました。ここで米軍によって次々と日本軍の輸送船が沈められ、のちに「輸送船の墓場」として名高い海域になるのです。31日午前3時40分、フィリピンのルソン島の北方、ダルビリ島の西方20kmを通過していたときのことです。吉野丸で当直中の航海士が、黎明の薄明りのなかに間近に迫る2本の雷跡を発見します。次の瞬間、ズシーン、ズシーンという大きな衝撃が2度走ります。魚雷が2本とも船倉に命中したのです。
命中箇所の船倉内は、兵員の居住区域に改造されており、そこには木製のカイコ棚がギッシリと組み上げられていました。当時の輸送船は「昭和の奴隷船」と呼ばれ、すべてのカイコ棚の上で、船員たちが寝返りも打てないほどの状態で就寝中だったのです。魚雷の衝撃でカイコ棚は木端微塵に飛散し、そこで寝ていた兵員のほとんどは吹き飛ばされて絶命してしまいました。吉野丸は直ちに救難信号を発信、同時に僚船や護衛艦隊に救援を求める汽笛を鳴らしました。隊長らしき人物の声がして、「大丈夫だ!落ち着け!本船は沈まんぞ!」と怒鳴りましたが、その声が終わるか終わらないうちに、ものすごい噴流が足首を洗います。井上が「送水管でも破裂したのでは?」と思っていると、数秒もしないうちに両ひざまで水が上がってきました。
このとき吉野丸は、魚雷によってできた巨大な穴から大量の海水が一気に流れ込み、二番・三番船倉をあふれ出し、破壊された隔壁からボイラー室や機関室に流れ込み、船首方向から急速に沈み始めていました。「船尾へ行け!」と叫ぶ誰かの声に従い、押し合いながら船尾に向かいかけた井上は、白い波頭が目に入りました。自分の目の高さに、浮き沈みする兵隊の頭が点々と見えることから、「間違いなく船首から沈んでいる」と判断し、早く飛び込まねばと思ったのです。
ところが、すし詰めで身動きが取れず、僅か2メートル先の舷側の手すりまでなかなか近づけません。やっと順番がきて手すりをつかみ、いざ飛び込もうと桟に足をかけた途端、上から襲い掛かる荒波に頭から吞まれてしまいます。しばらく渦潮に翻弄されて気を失い、サロンデッキの天井裏に頭を支えた状態でいると、吉野丸はどんどん沈んでいきました。
すんでのところで意識が戻った井上は、自分がまだ船内にいると把握、手に触れた配管らしきものを反射的につかみ、力いっぱい水平方向に押してみます。途端に渦流に乗せられ、猛烈な勢いで船外に吐き出されました。すると偶然、長い丸太が身体に当たります。反射的にしがみつくと、グングン浮力を増して海面にぽっかりと浮かび上がりました。このとき吸った空気のおいしさを、井上はハッキリと記憶しています。それから12時間以上にわたって海面を漂い、翌日の夕闇が迫るなか、井上はようやく救助艦に引き上げられます。
結局吉野丸は、魚雷の命中から7分間で全没しました。乗船していた部隊将兵は5063名、搭載されていた軍需品は4000立方メートルでしたが、このうち兵員2,460名、乗員35名が死亡しました。そしてこの船団の犠牲は吉野丸だけではありませんでした。吉野丸を攻撃した米潜水艦群は、立て続けに船団の4隻を撃沈し、2隻を大破航行不能にしました。吉野丸以外の撃沈によって、将兵3,980名と乗組員83名が命を失っています。
市郎はこのときの攻撃によって生死不明になり、その後フィリピンに到達した記録もないことから、吉野丸と運命をともにしたと考えられます。魚雷の爆破によって死んだのか、脱出できずに溺死したのか、脱出したあとに溺れたり衰弱したりして死んだのかは分かりません。吉野丸の沈没による2,495名という犠牲者数は、アジア・太平洋戦争中の日本の輸送船の撃沈時の人的被害として、10番目に位置づけられています。
「戦争=戦闘」ではない
バシー海峡でアジア・太平洋戦争中に亡くなった日本人は、10万人以上[注2]と推定されています。長崎原爆で亡くなったのは約7万4千人と推定されていますから、この数が示すことの重大さに改めて気が付きます。アジア・太平洋戦争の後半、バシー海峡にアメリカ軍の潜水艦が多数配備され、南方の戦線に送られる日本軍の輸送船団を魚雷で次々攻撃し、それがことごとく成功しました。この史実は、果たしてどれほど広く知られているのでしょう。
日本人論や『「空気」の研究』で知られる山本七平は、フィリピンで米軍捕虜となった小松真一の指摘する「敗因21ヵ条」を紹介していますが[注3]、その第15条には、「バアーシー(著者注:バシー)海峡の損害と、戦意喪失」が挙げられています。小松はミッドウェーやレイテ島、硫黄島など、日本の敗戦に直結した戦場の地名は一つも挙げず、バシー海峡を挙げているのです。この姿勢に山本は強く共感しています。
「戦争=戦闘」ではないと山本は強調します。食糧と石油だけによる戦争もあり得るのだと(物価上昇が止まらない今日の経済状況が思わず想起されます)。
日本軍は人と物資を輸送する航路の安全性を確立する努力を怠りました。その上で、やみくもに大量の兵士を「死へのベルトコンベアー」に送り続けました。50万人送ってダメなら100万人、100万人送ってダメなら200万人というように、米艦隊が魚雷を携えて待ち構えるバシー海峡に、徴用した非軍用艦に兵士と物資をすし詰めにして、やみくもに送り続けたのです。それによって甚大な損害を被り、戦意喪失につながったのは言うまでもありません。兵站を軽視し、兵士と物資が不足すれば、「戦闘」を続けることはできません。
山本はバシー海峡における日本軍の精神を、「機械的な拡大再生産的繰り返し」と指摘し、これによって目先の危機を乗り越えるメンタリティーは、戦後も続いていると論じています。山本は具体的な例を挙げていませんが、たとえば2021年、コロナ禍で追加予算をつぎ込んで強行された東京オリンピックを思い出せば一目瞭然でしょう。2025年に開催が決まっている大阪万博も、同じ発想に立ってはいないでしょうか。前世紀には経済復興をもたらしたものの、いまでは環境も経済も著しく破壊する巨大なイベントを「機械的な拡大再生産的繰り返し」の発想で強行することは、負の遺産の増大をもたらします。バシー海峡における日本軍のメンタリティーは、今日においても踏襲されてはいないでしょうか。
戦死者としてではなく
市郎の乗船していた吉野丸が沈没してから約一か月後、バシー海峡で12日間漂流した末、奇跡的に助けられた通信兵がいます。中嶋秀次(1921~2013)です。彼は戦後、バシー海峡で死んでいった多くの仲間たちを慰霊するため、この海が見渡せる台湾南部の猫鼻頭に、慰霊施設を建設しようと尽力しました。戦時中、近くの海岸には大量の日本兵の遺体が打ちあげられていました。中嶋の純粋な熱意は、当時のことを記憶する地元の人々から支持されます。そして1981年、中嶋の私財と日本各地からの寄付により、「潮音寺」が建設されました。落慶法要では曹洞宗の総本山である永平寺から副貫主の丹羽廉芳が訪れ、導師を務めます。現在は地元台湾の人々の善意によって支えられており、日本人の参加者を募って毎年慰霊祭もおこなわれています。
私の母は、市郎の姉・梅子から聞いた手紙にまつわる話を記憶しています。市郎は戦地から母・むらへ送った手紙に、「もし私が助からなかったとしても、遺族年金が支給されるので安心してください」と書いていました。姉・梅子への手紙には、「どうか私の分も生きてください」と書いていたといいます。梅子はその言葉を守るように97歳の生涯を全うし、2010年に逝去しました。
もし市郎がバシー海峡を無事に通過し、南島の激戦を奇跡的にくぐり抜け、生きて敗戦を迎えていたら、どんな心情だったでしょうか。敗戦を内地で迎えた酒井卯作は、その日のことを次のように語っています。
8月15日は日本晴れでした。焼け跡に僅かに芝生が残っていました。帯剣を外し、鉄砲を捨てて大の字になって空をみました。もう逃げ回らなくていい、もう死ななくてよいのだ、と思いました。戦争が終わって良かったと思いました。実感としてそう思いました。憲法9条をみて涙が出ました。
――講座「戦争の民俗学~無名人の力」での酒井卯作の発言
(2014年12月6日 於:NPO法人東京自由大学)
平和を愛した市郎も、やはり酒井と同じように、晴れ晴れとした気持ちで、大の字になって空を見上げたかもしれません。
市郎の戒名は「眞朗院釈善祥」。1950年の戦死公報を受けた後で付けられているため、「烈」や「忠」の字が含まれることの多い戦時戒名ではありません。市郎は靖国神社に祀られていますが、当然のことながら、家族墓でも祀られています。現在は富山から移動して東京西部に存在するその墓には、「やすらぎ」と彫られ、市郎が戦死した翌年に62歳で亡くなった父の源吾、母のむら、兄の友治、兄嫁のきぬと共に埋葬されています。日本各地には戦死者だけを集めた共同墓地が存在し、それらには軍服姿の戦死者像が立てられて戦歴が記されているケースもあります。各地で戦死者の墓の実態を見つめてきた民俗学者の岩田重則は、次のように指摘しています。
戦死者たちに対しては、その人生のすべてが兵士であったかのような表象が行われていた。戦死者たちも、その個人性を保存しようとする。しかし、そこで表象された戦死者たちの個人性は、戦死の一点に集中され、他は脱落していた。戦争の非人間性とは、人間の死における個人性においても、戦死者たちを兵士であったことに限定し表現するところにあるのではないだろうか。
――岩田重則『日本鎮魂考』(青土社、2018年、193-194頁)
市郎の場合、国から送られてきた「砂だけが入った骨壺」が埋葬されている家族墓は、市郎を「兵士」に限定するものではありません。しかし靖国神社において、市郎は戦死したゆえに、「神」として祭祀されています。やはりこの祭祀のあり方に、私は強い違和感を抱きます。
私が忘れたくないことは、市郎が家族想いで気立ての優しい末っ子でありながら、海が好きで、タバコが好きで、友達とはしゃぐのが大好きな青年であったということです。市郎も私たちと同じようにさまざまな面を併せ持つ一個人であり、平和を愛し、戦争には行きたくないと母・むらに漏らしていました。
社会を構成している私たち一人一人は、それぞれが個人の物語を生きています。それが、国の作り上げる強大な物語に吞み込まれ、犠牲となる最たる例が、「戦争」なのです。読者のみなさんのご家族や親戚・縁戚、身近な方の中にも、戦争を体験された方がいらっしゃることでしょう。戦争でお亡くなりになった方もいらっしゃるかもしれません。その頃のお話を、ぜひお聞きになってみてください。そして、少しでも当時の手がかりをつかめるアルバムや日記、資料などが残されていたら、ぜひ覗いてみてください。当時を生きた一人一人の物語に光を当て、「戦争」という強大な物語に呑み込まれる過程を振り返ることが、バシー海峡に代表される日本の負のメンタリティー、「機械的な拡大再生産的繰り返し」から脱却する一歩につながるのです。
今回の調査では、以下の方々のお世話になりました。心より感謝申し上げます。(敬称略・名前順)
雨池勇、雨池昌子、イ・ヒョンナン、大岡聡、木下一郎、木下克彦、澤田怜子、彭浩、屋代宜昭、吉田裕
※写真はすべてカラー補正しています。