零下30度での演習

 1919年6月24日、木下市郎は富山県魚津市鴨川町に生まれました。旧制魚津中学卒業後、慶應義塾高等部の入学に伴い、上京します。私が慶應義塾大学に問い合わせて卒業証明書を取り寄せたところ、市郎が卒業したのは、あくまで「慶應義塾高等部」でした。これは現在の高校とも大学とも異なる教育機関で、旧制の「大学専門部」と呼ばれ、実学を中心とした短期課程を設けていました。

 3年間の課程を終えた市郎は、1940年、東邦電力に就職し名古屋勤務となります。しかしそれから丸1年も経たず、1941年2月10日、召集令状によって金沢に向かいます。この時、友治は金沢まで市郎を見送りに行きました。前日までは大雪でしたが、10日は打って変わって快晴であったと友治は記憶しています。

 市郎は金沢東部第52連隊に入隊しました。2週間ほど金沢におり、それから満州へ渡ります。初年兵として配属されたのは、満州第453部隊(樺林453部隊)でした。名取政登編『元満州第453部隊第4中隊戦友会名簿』(津金日出吉、1969-71年)には、市郎と同じ第52部隊から満州第453部隊へ集結した兵士たちの様子が記されています。その記述を参考に、市郎の体験を辿ってみます。

 神戸港を経て当時の朝鮮全羅南道麗水港に上陸した一行は、朝鮮半島を鉄路で縦断、満州の牡丹江省寧安県樺林の西兵舎へとたどり着きます。入営直後に市郎が満州で撮った写真には、戦友と並んで穏やかな表情でこちらを見つめている1枚があります。この後に撮影された初年兵時代の写真は、どれも表情が曇って見えます。それもそのはず。第453部隊では1941年7月の時点で、対ソ戦に備えての猛訓練が始まりました。兵器・物資・食糧のすべてを著しく節約したなかでおこなわれる厳しい演習に、兵士たちは飢餓状態に陥り、ある兵士は馬のエサである赤大根をかじり、またある兵士は草の実や松傘の実を食べて飢えをしのぎました(「空腹演習」という名の訓練さえありました)。

 石炭輸送、木材輸送の訓練を経て夏が終わると、短い秋を挟んで、満州の大荒野が雪と氷に閉ざされる極寒の冬がやってきます。第453部隊は、市郎と同じく寒さに慣れた北陸人や長野県人の集団でしたが、さすがに連日の零下30度を下回る寒さは身に応えました。ペチカが焚かれた室内から一歩外に出ると、吐く息が睫毛や眉毛に真っ白に凍り付き、人糞は排出と同時に凍り、鉾(ほこ)形になりました。その中でおこなわれる耐寒演習は、広大な密林を戦場に仮定して、凍てつく森林を駆け抜けなければなりません。また、夜間湿地通過演習では、軍馬とともに突き刺す冷たさの泥にまみれたといいます。あまりに苛酷な演習が続くことから、兵士たちの中には、「早く実戦になって欲しい」と願う気持ちすら生まれました。こうした演習の日々を送る兵士たちを勇気づけ慰めたのが、連隊記念日の演芸会でした。懐かしい祖国の唄や踊り、芝居などが愉快な芸人たちによって演じられたのです。

 市郎はこの第453部隊で約1年半を過ごし、1942年の秋、戦車第1師団戦車輜重(しちょう)第1中隊(牡丹江119部隊中村隊)に転属します。輜重隊とは、兵站(戦闘部隊の後方)において、物資の輸送を担う部隊のことです。戦車第1師団の師団司令部は寧安に置かれ、勃利に設けられた第2師団と並び、いつでも「満・ソ」国境に出動できる体制が整えられました。戦車第1師団で防空隊副官の任にあたった鈴木博詞は、戦後に刊行した手記で次のように記しています。「この時(1942年)編成された戦車師団は、わが陸軍機械化部隊の精鋭をすぐったもので、海軍の戦艦大和・武蔵に匹敵する強豪な新設兵団であった」(鈴木博詞『戦乱のさなかに』安間仁一郎、1970年、333頁)。市郎が転属したのは、少なくとも軍の内部からは「精鋭」とみなされている師団だったようです。

ハルビンにて

 戦車師団に転属してから半年ほどが経過した1943年3月29日、一枚の写真が撮影されました。

松花江鉄橋に立つ市郎(カラー補正)

 これこそ、生前の友治がもっとも気に入り、拡大コピーして額に飾っていた一枚です。市郎は軍事演習でハルビンへ行き、松花江鉄橋の上で写真を撮りました。「ハルビンに来ており、演習が終われば牡丹江へ帰る」と友治への手紙で綴っています。市郎は同じ写真を、姉にも送っていました。本人もお気に入りの一枚だったのでしょう。柔和に微笑みながらこちらを見つめる市郎の表情が印象的です。横の看板には、この鉄橋や軍関係の建造物、艦船、航空機が撮影禁止である旨が日本語とロシア語で併記[注1]されています。

 ハルビンは、日本の旧陸軍731部隊が人体実験や細菌戦に使用する生物兵器の実験をおこなった本拠地でもあります。この史実は極めて重要ですが、今回は市郎にとって、より身近であっただろう日本軍の加害の史実に目を向けたいと思います。本筋からはすこし外れますがご容赦ください。

 2013年5月22日(水)、朝日新聞のオピニオン「声」欄に、「慰安婦は多民族蔑視の制度」と題された投稿が掲載されました。投稿主は、トイビトでもインタビューに答えている民俗学者の酒井卯作です。

 日本維新の会の橋下徹共同代表が、旧日本軍慰安婦が「必要だった」とする発言を取り消そうとしない。「世界各国の軍隊が女性の活用を必要としていた、ということを僕は言った」と弁明した。だが、橋下氏は、慰安婦を「活用」した戦時中の日本人の意識の底に、朝鮮人らへの蔑視があったことに、もっと目を向けるべきではないか。
 私は戦時中、旧陸軍の2等兵だった。一番驚いたのは、階級が上の朝鮮人兵士が、我々日本人新兵のふんどし洗いなど、身の回りの世話をしてくれたことだった。そうしないと、日本人の古参兵から殴られるのだ。
 そうした民族差別の究極の表れが、朝鮮人女性や中国人女性を慰安婦にしたことだろう。中国戦線で戦った私の義父は日記をつけていた。そこに「支那(しな)ピー 一円」「朝鮮ピー 一円五十銭」という記述がある。南方戦線にかり出された漫画家の水木しげる氏によると「ピー」は慰安婦を指すという。女性たちは民族ごとに値段がつけられた。まるでレストランのメニューで、女性蔑視もはなはだしい。
 西村真悟衆院議員は「韓国人の売春婦はまだうようよいる」と述べた。政治家たちが過去や現在の他民族への蔑視について無神経な発言を繰り返せば、日本は世界で孤立してしまうのではないか。

――『朝日新聞』(2013年5月22日付朝刊)

 慰安婦の料金の違いが民族の違いに根差していたというのです。この甚だしい民族差別は、政治家たちの愚昧な発言に見られるように、現在でも消えることがありません。そして市郎が所属する戦車第一師団が拠点にしていた牡丹江にも、慰安所は点在していました。この地で初年兵を過ごした兵士の証言を読んでみたいと思います。

 6ヵ月の経験も積み、衛兵の勤務も勤めた。一通りの苦労も経てきたことでもあり、林口街も見たい、饅頭、ゼンザイも、満州支那料理も食べたい。戦友の房野君とともに外出の届をする。許可が下り、…週番下士官の訓辞を受け外出する。「禁止区域には入らぬよう。門限は守ること」。「突撃」と書いた紙袋を一個ずつくれる。「病気だけはもらうなよ」。南門を出るまで先任者の引率で、外出票を提示。

――木和田武司『わが青春の迎春花 山砲と兵隊』(出版記念祝賀の会実行委員会、2000年)

 「突撃」(正確には「突撃一番」)とは、コンドーム(当時の「サック」)のことです。軍は性病予防の名目で配っていますが、これは慰安所で慰安婦と性交することを容認・推奨していたと見ることもできるのではないでしょうか。軍が慰安所の設立や慰安婦の斡旋に関与した史実については、吉見義明の研究(『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年など)が明らかにしています。

 もう少し具体的な兵士の証言を読んでみます。

「遠藤、綏芬河の街は初めてだろう、連れて行ってやるから一緒に来い」と、言われて、兵長の後にくっついて営門を出たが、兵隊が公用でない単独外出となれば、行く先は大体決まっていて、慰安所か食べ物屋であった。…渡辺兵長について行くと、行き先はやはり慰安所(兵隊はぴー「婢?」屋と呼び、満人の慰安婦を満ぴー、朝鮮人の慰安婦は朝鮮ぴーと呼んでいた)であった。慰安所は綏芬河の街に大小合わせて数軒はあるらしいが、行ったのは其の中の1軒で木造2階建てだった。…2階は中央が廊下になっていて、両側には幾つかの部屋が並んでいた。…又待合い室に戻ると、渡辺兵長はまだ仲間と雑談に熱中していた。私は少しそわそわした気分で近くの椅子にそっと腰を降ろして居たが、顔を上げてみると丸顔で小柄な朝鮮服の女が近づいて来た。

――遠藤三衛『兵士たちは何処に 私の太平洋戦争』(私家版、1994年)

 この証言によれば、古参兵に誘われて行く外出先は、慰安所か食べ物屋であったといいます。慰安所では、「満ぴー」「朝鮮ぴー」と呼ばれる慰安婦たちがいました。「声」欄の投稿にあった酒井の義父が赴いたのは中国中部の戦線なので「支那(しな)ピー」ですが、牡丹江は満州国ですので「満ぴー」という呼称です。どちらにも「朝鮮ピー」がおり、慰安所自体は「ぴー屋」と呼ばれていたのです。

 続いて、牡丹江の慰安所に強制連行させられた慰安婦の証言を読んでみます。

 14 歳の時、地主の家に日本人警官と憲兵隊長が来て連行されました。中国黒竜江省に着くと「明月館」という慰安所で、30人位の朝鮮人娘のほかに日本女性もいました。「春山峰山」という日本名で呼ばれました。部隊長が襲い掛かってくるので抵抗したら歯が2 本折れました。翌日には陰部が肛門まで裂けてしまいました。それいらい犬畜生の扱いを受けました。1 年半で48 人中6 人が死にました。チチハル、牡丹江、北京をめぐりました。急に兵士がいなくなり、残された7 人の朝鮮娘は中国人の助けにより、帰国できました。

――証言者:崔奉仙/出典:西野瑠美子「朝鮮民主主義人民居和国 元「慰安婦」の被害報告」(『季刊戦争責任研究』(5)日本の戦争責任資料センター、1994年)

 朝鮮中部に住んでいた崔は、日本人警官と憲兵隊長によって強制連行されます。鉄路で中国黒竜江省に連れてこられ、牡丹江市に存在した「明月館」と呼ばれる慰安所で強制的に慰安婦にさせられます。そして強姦されて重傷を負うのです。1 年半で慰安婦の48 人中6 人が亡くなったというのですから、あまりにも酷烈な環境です。

 牡丹江で軍隊生活を送った以上、市郎も慰安所の存在を知っていたことでしょう。外出するときに「突撃」を渡されたり、古参兵から慰安所へ誘われることがあったとしても不思議ではありません。容姿が色白の初年兵は、古参兵から「慰安婦の代わり」として強制性交させられたという証言も存在します。市郎の周囲にそのような被害にあった仲間はいなかったでしょうか。

 日本軍が犯した多種多様な戦争犯罪のうち、一般の兵士たちに身近でありながら、非常に語られにくかったのが、「性」をめぐる問題ではないでしょうか。女性たちを強制連行し、「慰安所」で強姦・暴行した史実について、私たちはさまざまな立場からの証言を聞き、読みながら、絶えず問題を見つめ続ける必要があります。そうしなければこれと似た出来事は、これから先、何度でも繰り返し起こり続けることでしょう。