――先ほど38億年前に初めての生きものが生まれたというお話がありましたけど、それはどのようなものだったのでしょうか。

 最初に生まれた生きものは、今でいえばバクテリアのような単細胞生物でしょう。それが無性生殖、つまり分裂を繰り返して生きていたのですが、今から20億年くらい前に、大きな細胞の中に小さな細胞が入ってミトコンドリアなどをもつ「真核細胞」が生まれました。

 やがてこれが多細胞になって体を構成し、オスとメスができて、有性生殖で子どもが生れるようになる。と同時に、個体の死というものが生まれた。つまり、性が生まれなければ死もなかったわけです。

――もともと死はなかったんですか!?

 単細胞生物は、ほぼ無限に分裂する能力を持っています。乾燥して死ぬということはありますが。

――自分と同じものが分裂によって増え続ける。それはつまりゲノムが同じということですか?

 そうです。でも、オスとメスができたことにより、それぞれのゲノムが合わさって、唯一無二の個体が生まれるようになった。そこが面白いですよね。つまり命の続き方が、自分が分裂する方法から、自分は死んで次につなぐ方法へと変わった。なぜそうなったのかは知りませんけど、生きものの世界ではそういうふうになってきたんです、たまたまね。

――面白いですね! 自分が分裂するんじゃなく、子どもに自分のゲノムを託す。

 そのときに、細胞として続くのは卵細胞です。精子はそこに入って自分のDNAを渡すけれど、細胞としては卵。だから女性は、分裂した自分の細胞が子どもになる。本当に続いてるんです。自分は死んでも、自分の細胞は続いてる。つまり、生物の世界はメスでつながってる。それは別にオスが駄目だということではなく、仕組みとしてそうなっています。

――その受精卵の細胞が分裂を繰り返して体を作っていくわけですね。

 DNAは変異しやすいので変わった細胞があちこちにいたりもしますが、もともとは受精卵の細胞です。だから私たちの体は、父親から半分、母親から半分もらったもので出来上がっている。親子というのはそうやってつながっています。

――生きものの定義のひとつに「進化する」ということがあるということでしたが、その進化はDNAが変わることで起きるんですよね。

  DNAという物質はいろんな条件、たとえば紫外線が当たったりすると変化する性質を持っています。変わっちゃ困るよっていっても変わっちゃうわけです。

 だから、体の中でも変化していて、時にはがん細胞になってしまったりもするし、卵になるときに変化して、それが進化につながりもする。DNAという物質が環境の影響によって変化するのだから、誰の意図でもありません。だから予測なんかできない。進化はこれからどうなりますかといわれてもNo one knows.です。

――進化というのはあくまでも結果であって、起きているのは物質の変化だってことですね。

 そうです。DNAの変化が現象の変化につながったときに、進化として認識される。だけど、どう変わるかはわからない。進化学という学問がありますが、それは地球上で「事実、こういうことが起きました」という話で、必ずこういうことが起きるということではありません。たまたまそうなりましたという話。

――DNAが変化しても生きものの形質は変化しないということもあるんですよね? 

 DNAが変わったってなにも起こらないことはいくらでもあります。

 ――それがちょっと意外というか、そうなんだ、と思いました。 

 DNAにはA・T・G・Cという4つの塩基が並んでいますが、そのAがTに変わることで性質が変わることもあれば、そこが変わったところでどうってことないというケースもたくさんあります。ひとつの経路だけではなく、ものすごく複雑な経路でできているので、ここが駄目になったら、こっちが働くといったことも起きるわけです。それ故になかなかわからないのですが、この複雑さはコンピューターの中のことよりもはるかに面白いですよ。

「ふつう」とは何か

――今さら基本的な質問になっちゃうんですけど、DNAとゲノムっていうのはどう違うんですか?

 ゲノムというのは一つの細胞の中に入ってるDNAのすべてのことです。私たちはだれもが自分のゲノムを持っています。ヒトとしてはほぼ共通なんですけど、ちょっとずつ、ぜんぶ違う。

 一卵性双生児は生まれたときは同じものですけど、生きていく間に変わっていくでしょうから、まったく同じゲノムの人はいません。78億人のうち、自分と同じゲノムを持つ人間は一人もいない。これはとても大事なことです。

 以前『「ふつうの女の子」のちから』という本の中で、「ふつう」という言葉を使うのはとても難しいということを書きました。「ふつう」という言葉から、みなさんはよく自動車のような規格品をイメージします。自動車工場から組みあがった自動車が出ていく。それは全部同じ物、「ふつう」の物です。もしも他と違っていたら不良品にされてしまう。それが自動車です。でも、人間はそうではありません。

 ヒトゲノムの配列解析が終わったのは2003年ですが、ヒトのゲノムを調べましょうというときに一番問題になったのは「誰のゲノムを読むのか」でした。誰のを読んでも、誰のとも同じではない。自動車だったら1台調べれば全部同じだけど、人間の場合は全部違う。

――それは確かに問題ですね。

 でも逆に言うと、誰のを調べてもいい。自然のものはだいたい正規分布するので、生きものの性質を決めるゲノムも正規分布の山を描きます。背の高さでもなんでも。そしてそれは日本人、アメリカ人、中国人、フランス人、肌の黒い人、黄色い人、白い人……、誰でやろうと変わらない。本当は、このことを「ふつう」と言うわけです。その性質の中にはもちろん、障害を持つということも入ります。

 DNAの中に本来の働きと違うものを持ってない人は一人もいません。それがたまたま具合の悪いところにあたると、たとえば目が見えないということになって、生活がとてもしにくいですよね。だからその方たちが暮らしやすい社会をつくっていく。すべての人にうまく働かないところがあるという事実を踏まえて、社会はそういうみんなが生きていく場としてつくらなければいけない。私が言う「ふつう」はこれなんです。

――DNAで見ると誰もが欠陥を持っているんですね。

 みなさんはそれこそ機械の世界に毒されているから、工場から出てくる規格品がふつうで、欠陥のあるものはふつうじゃないとお思いになりますが、そうではありません。欠陥があることが生きもののふつうなんです。だから、欠陥のある人はいけないと言ったら、全員消えなきゃいけない。欠陥のある人は存在する価値がないという言葉を発する人は、その人自身も消えなきゃ。

 目の見えない方、足の不自由な方がいない社会を考えるのが機械の発想です。もちろん病気や障害をなおす医療は必要ですけれど、本来それはあってはならないという考え方は生きものの世界では許されません。つまり、社会をつくることは面倒なんです。だけど面倒なことに意味があるんだし、それをやることが生きることと言ってもよい。手を抜いてどうするんですか。手を抜いて生きる意味なんてあります?と聞きたい。

 もちろん、赤ちゃんが泣いてるときにかまどでご飯を炊くのは大変ですから、炊飯器のスイッチを押して赤ちゃんの面倒を見る。そういうのは助けとしてはいいし、機械を否定はしません。使うのはいいけど、機械の見方で自分たちの生活を捉えるのはやめましょう、ということなんです。

 しかも、障害と言われるのは「状態」であること。つまり、「特定の誰々さんが障害者」ではないんです。私が、明日、自動車にぶつかって歩けなくなるかもしれない。そうならない保証なんてありません。だから社会として対策しておいてもらわないと困る。私もなるかもしれないから、私の税金を使って、「福祉」という特別のことではなく、人間が生きる社会として対策してもらいたい。

 これはとても当たり前のことでしょう? 人間は生きものであると考えると自然にこのような考え方になるのです。誰もが生き生き暮らす社会になることを願っています。