――仏教にはいろいろな経典があって、言っていることも少しずつ違うと思うんですけど、その中で「唯心」とか「唯識」といった考え方はどのようにして出てきたんですか。

 仏教というのは最初から心の観察だったわけです。ここで大事なのは、心というのは体の対立概念ではないということです。魂は清らかで肉体は汚らわしいというのはヨーロッパの発想ですから。お釈迦様は五蘊(ごうん)といって、人間の構成要素は色・受・想・行・識の5つだと説いたわけですけど、そこでは心と体という区別はできないんです。

 たとえば苦しみという現象がある。その場合は、身心全体がつらいわけですね。仏教はこの現象全体を観察し、展開順序で分析していくので、肉体と心の対立という発想はないんです。

――肉体的な要素も含みこんだ心っていうわけですね。

 口はしゃべる、目は見る、舌は味わう、体は感じる、心は思うわけですけど、思う働きは全身に行き渡って動作する。決してどこか一カ所にあるわけではない。だから仏教は最初から、心に注意しなさい、すべては心から始まるんだというふうに言ったわけです。

――根本にあるのは心だと。

 それがだんだん理論化され、すべては心に基づくということになる。すると、心が根本なのは分かるけど、じゃあ気絶しているときなどはどうなのか。そうした問いに対し、奧にずっと続く心があるんだと言って、唯識思想が出てくるんです。奥深くにすべてを支えている心があると。

――そのすべてを支えている心というのは、怒りとか安らぎといったものより、もっと下層にあるものだということですね。

 奥深くにあって形ははっきりしない。そして、私たちのやったことの業はすべてそこに貯め込まれ、何かがあるとまたぱっと出てくる。

――西洋風に言うと「無意識」ということですか?

 そうです。無意識の発見はヨーロッパでは19世紀でしたけど、仏教はもっとずっと早かった。

――唯識というのは唯心と同じようなもの?

 唯識説はすべては心に基づくとする唯心説をもっと細かく分類していったものです。一方、先ほどお話した仏性説があるでしょ?

――すべての人には仏性=仏の本質が備わっている。

 これは仏性説・如来蔵説と呼ばれますけど、これだとあなたの体の中に仏の要素がある。一方で唯心・唯識説では心がすべてを生み出す。この二つの系統が後に、「人にはもともと清らかで汚れない心がある」とする説を媒体にして合体するんです。

 そうしてできたのが『勝鬘経(しょうまんきょう)』や『楞伽経(りょうがきょう)』といった経典で、これがさらに中国で展開して『大乗起信論』が作成されます。そこから、すべての根源は心であり、世界そのものも奥深くて清らかな心から発生するんだという、ちょっと異なる方向へ向かいます。

――心から世界が生まれるとは、壮大というか、なんというか。

 仏教は本来、そういう奥深いものは扱わないんですよ。これが本当の私だとか、世界はこの根源から生まれるなどとは言わなかった。ところが『大乗起信論』がきっかけで、中国、韓国、日本、ベトナムでは、この奥深い「一心」がすべての基礎になっていきます。

 原始仏教では心を信用していなかった。心は跳ね回る。だから、しっかり押さえないといけない。暴れる馬を押さえつけるように、心を制御しなさいという立場です。「つなぎとめる」という意味の「ユッジュ」っていう動詞があるんですけど、これの名詞が「ヨガ」なんです。心を無くせとは言わない、制御するんですね。

――心を「すべての根源」と捉えるのか「制御すべきもの」と捉えるのかでは大きな違いですね。

空(くう)とは何か

――仏教には「空(くう)」という概念がありますよね。「色即是空」とかは誰でも聞いたことがあると思うんですけど、これはどういうものなんですか。

 仏教は最初から「無常」ということを言っていました。すべてのものは移ろいゆく。固定的なものはどこにもない。『般若経』はこれを「空」という言葉で強調していきましたが、それを龍樹という人が哲学化というか、理論化したわけです。すべては空であるからこそ、縁起が成り立つと。

 ただ、空を強調すると、空というものがあるみたいじゃないですか。だから初期は、永遠の実体はないという言い方をしていたんですけど、だんだん「空性」とか、「空たること」みたいな言い方をするようになってきた。

――うまくイメージできないんですけど、要は「何もない」ってことですか。

 たとえば「空き家がある」「空の家がある」と言った場合、家はありますよね。いないのは人なんですよ。じゃあ仏教では何がないかというと、何に関しても永遠の実体がないんです。

 野球でたとえると、巨人と阪神というチームがある。メンバーはそれぞれ9人です。そのうちの1人をトレードで取り替えました。まだ巨人と阪神ですね。じゃあ、今度は5人取り換えました。監督も、本拠地もユニフォームも取り換えます。原監督が甲子園で胸に「タイガース」と書かれた巨人のユニフォームを着ている。

――こんがらがってきました……

 じゃあ、阪神というチームの本質、巨人というチームの本質はどこにあるのか。仏教は、そんな永遠の本質なんてそもそもないと言うわけです。本質とは言葉であり概念に過ぎない。結局それは空なるのものであると。

――なるほど! そうすると、空は無常と同じことを言っているんですね。

 そう、無常は時間的な概念ですが、空と無常は矛盾しません。

――でも、空と仏性説、すべての人に仏の本質があるというのは……

 ぶつかる。

――ですよね。

 ぶつかるんです。だから空を主張する派は、仏性とか如来蔵というのは、人びとの修行を励ますためのものであり、本当に実在すると思ってはいけないと言ったり、あるいは、仏性の本質もまた空であると言ったりして、なんとか調和させようとするわけです。