インドでは、何らかの苦行をともなう修行生活をブラフマチャリヤと呼んでおり、この語は狭い意味では性に関して禁欲を守ることを意味します。ヒンドゥー教徒であったガンジーが、まだ36~37歳の男盛りの頃、妻に自分は「ブラフマチャリヤを保つことにする」と宣言し、以後守りとおしたのは、まさにその意味でした。古代に誕生した仏教も、そうしたインド宗教の伝統を受け継いでいたため、男性出家者は女性に対する愛情や性的な欲望から離れるよう求められました。仏教では男女の間の愛情は、業を生む執著とみなされていたのです。

 ところが、戒律がゆるい日本では、僧侶が恋の歌を詠むのはしばしば見られることでした。それを非難しないどころか、恋ごころを歌にするのは人間であれば当然だとし、僧侶が恋情に流されて女性とあやまちをおかしたとしても無理ないことだとして容認した有名な人物がいます。なんと、仏教を排撃する国学を確立した本居宣長です。

 道徳や戒律で欲望を抑えつけようとする儒教や仏教を偽りの教えとして非難する宣長は、『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』では、法師とて人情は俗人と変わらないため、恋をして恋歌を詠んでもとがめるべきことではないと述べます。それどころか、たとえ女性と間違いをおかしたとしても、凡夫なのだから仕方ないとし、法師は妻を持たず、日頃は欲望を抑えているため、俗人よりも恋ごころが高まるのであって、俗人以上に「あわれ」深い歌が生まれる道理だと説くのです。

 これは、何よりも「もののあわれ」を尊重した宣長ならではの主張ですが、実際、僧侶が恋歌を詠む例は非常に多く、しかも天皇の命によって編まれた勅撰集などにもたくさん収録されています。前田雅之氏の研究によると、勅撰集の最初である『古今集』では恋部 360首のうち、僧侶の作は6首であって1.6%にとどまっていますが、『詞花集』では恋部 85首のうち11首であって13%、『千載集』では恋部 318首のうち36首であって11%、最後の勅撰集となった『新続古今集』に至っては、恋部 553首のうち87首で16%にもなっている由。

 なぜ、こうした事態が起きるのか。むろん、実際に恋して詠んだ歌は稀であって、『古今集』の恋部に収録されている素性法師の次の歌にしても、女性の身になって詠んでいることが示すように、想像上の作です。

 今来むと言ひしばかりに長月の
  有明の月を待ちいでつるかな

 「百人一首」にもとられていて有名なこの歌は、「あなたがすぐ来るよとおっしゃったばっかりに、九月の秋の夜長が明けて有明の月が出るまで、あなたを待ちとおしてしまったことですよ」と恨んだ風情で詠んだものです。

 素性は和歌の名手であったため、宮中や貴族の歌の会などに招かれ、題を与えられて詠むのです。ただ、それにしても僧侶が恋の歌を詠み、その歌が勅撰集に収録されるといった事態は、世界の仏教国の中でも日本でしかありえないでしょう。しかも、この歌は、天台宗で初めて僧正となった父親の遍昭の次の歌を踏まえており、あるいは遍昭も同席する場で詠まれたかと推測されている歌なのです。

 いま来むと言ひて別れしあしたよりおもひくらしの音をのみぞ泣く

(訳)すぐ来るよとおっしゃって別れた朝以来、あなたを思い続けてくらしており、悲しい声で鳴くひぐらしのように、私も一日中声をあげて泣いてばかりいます

 これも、女性の立ち場になっての歌ですね。儒教の制約が強かった中国では、男性の知識人は恋の詩など作ることはできなかったため、六朝期になると女性の立ち場に身を置き、妻が旅から長らく帰ってこない夫を恋しく思うとか、若い女に愛情を移した夫を恨めしく思うといった「閨怨(けいえん)詩」を詠むようになりました。遍昭はそれにならっているのです。

 また、遍昭の上の歌は、中国南朝の民歌を洗練させた「子夜歌(しやか)」や「子夜四時歌(しやしいじか)」などと呼ばれる類の歌を踏まえたものと私は推測しています。こうした歌には、「自従歓別来(歓[あなた]と別れて以来)」といった言い回しで始まり、「蓮子(蓮の実)」に「憐子(あなたを恋しく思う)」を掛けるなどの掛詞を用いた恋歌の例がたくさんあるのです。実際、この歌では「思ひくらし」と蝉の「ひぐらし」が掛けられていますね。

 つまり、僧侶の恋歌と言っても、中国の漢詩文の教養に基づいた知的遊戯の面が強い作なのです。そもそも、遍昭の父は、百済渡来の貴族の血を引いた賜姓(しせい)貴族であって、勅撰の漢詩集である『経国集』の編纂を担当し、「子夜歌」などを含む詩歌も演奏する宮中の楽頭(がくのかみ)、つまり音楽監督を務めていた良岑安世(よしみねのやすよ)でした。安世は、詳細な戒律を否定して理念的な大乗戒だけで僧侶になれるとした最澄を支援していた人物です。

 それにしても、僧侶が恋の歌を詠み、それが高く評価されて勅撰集に入集するくらいなのですから、古代の日本では、実際に僧侶が恋して恋歌を詠んでも、その歌がすぐれていれば非難されるどころか、共感を呼んで評価されたであろうことが推測されます。その実例も早くからあります。

 たとえば、『万葉集』巻二の「久米禅師、石川郎女(いしかわのいらつめ)を娉(よば)う時の歌五首」では、久米禅師が、「私が、信濃の弓を引くようにあなたの気を引いたら、貴人ぶっていやと言うでしょうか」と詠みかけると、石川郎女は「引きもしないで言われるのですか。御存知ないのに」と答えるといった冗談まじりの歌の応答が続いた後、禅師は最後にこう詠んでいます。

 東人の荷前(のさき)の箱の荷の緒にも
  妹(いも)は心に乗りにけるかも

 この歌については、久米禅師の出家前の作とする説と出家後とする説があります。最近では出家後と見る説の方が優勢のようですが、大事なのは、いずれであっても、『万葉集』の編者は「禅師」という名で呼ぶのみであって、出家前の作とするような説明をつけていないということです。そうしたテキストが、以後も変更されないまま、今日まで伝えられてきたのです。

 「久米」というと、神通力で空を飛んでいた際、川辺で洗濯物をする若い女の白いふくらはぎ(太ももとも)が見えたため邪念が起こり、神通力を失って墜落し、以後、その女と夫婦となって暮らしたという久米仙人の話が思い起こされますね。この話は、様々な形に変えられながら民間で好んで語られてきました。非難するというより、人間らしい話として受け取られてきたのです。そのような土壌が、僧侶の恋歌を許容する伝統を支えてきたことは疑いありません。

 しかも、仙人と呼ばれていますが、伝承ではこの人物は吉野の龍門寺の傍らに住んでいたとされ、東大寺の大仏殿の建設を手伝い、後に久米寺を建立したとされています。純然たる仙人ではなく、仙人の力を得た修験(しゅげん)僧のような存在とされているのです。

 この伝説を大正10年(1921)に「久米仙人」と題する文学作品に仕立てたのは、少し後の昭和9年(1934)に人間らしく悩む釈尊を描いた『釈迦』を発表し、ベストセラーとした武者小路実篤でした。魯迅の弟である文人の周作人は、「久米仙人」刊行の翌年に、これを「好色のいましめ」というよりは人間的で趣きのある作品と評価して中国語訳しています。

 中国では、目をあげて女性を見ることすらなかったといった僧が戒律堅固な清僧として尊重される一方で、明代・清代になると、悪い僧尼が荒淫にふけって罰を受けるという勧善懲悪本(実質は、好色本)が出回っており、実篤の「久米仙人」のような人間味のある作品はなかったからです。

 日本の場合、中世になると、僧侶が美しい稚児に恋心を訴えかける類の和歌や漢詩も登場しますが、こうした風潮も近代以前は、海外からやってきたキリシタンの宣教師以外には非難する人はいませんでした。

 このように、日本の仏教には、仏教史の本には書かれておらず、知られていない面がたくさんあるのです。