――先生は2002年から2004年にかけてニューヨークのハーレムに滞在し、アフリカン・アメリカン・ムスリムのフィールドワークをされたそうですが、文献や資料からではなく、現地で暮らすことで見えてきたのはどのようなことですか。

 いくつかありますが、ひとつ決定的に重要だと思ったものを挙げると、個々人におけるアイデンティティの複数性というか複雑性でしょうか。アイデンティティは「自分/自分たち」というものを形作るうえで必要な要素ですし、特にアメリカは個人主義の強い社会なので、自己アイデンティティについて自ら言及することが非常に重要な意味を持っています。

 でも、だからこそ難しい。ここまで話してきたようなアフリカン・アメリカンの運動やネイション・オブ・イスラームの話だけをしてしまうと、一人ひとりの人間が消えてしまう。個々人が「ネイション・オブ・イスラーム」という集合的なアイデンティティに回収されて、みんなが同じように考え、まとまった見解なりゴールなりを持ち、同じ方向を向いて動いていると思ってしまうけど、実際は当然そんなことはないわけです。

 個々人に複数のアイデンティティがあるということと、そうした多重のアイデンティティ自体が変化するということだけじゃなく、時にはそれを裏切る。「裏切る」というと聞こえが悪いですが、その枠からはずれて、当てはまらないようなことをいくつもする。

――全員が「ネイション・オブ・イスラーム」という一つの意思で生きているわけではない。

 フィールドワークで意識させられたのは、僕が出会っているのはあくまでも個々人で、それがたまたまアフリカン・アメリカンのムスリムだったというだけだということです。それらは、いくつかの可能性のなかでの選択であり、可変的でもあり得る。

 そう言うと、黒人であることは逃れようがないじゃないかと思うかもしれませんが、別に「黒人」というカテゴリーが普遍的/不変的である必然性なんてないはずです。世界に「黒人」しかいなかったら、「黒人」というカテゴリーは必要ないし、そもそもそんなことを思いつかない。

 目を凝らせば「日本人」というカテゴリーに帰属すると思っている人にだって、肌の黒い人はいくらでもいるし、「日本人」より肌の白い「黒人」だっている。だから本当は、人種も含め、アイデンティティにかかわるいくつもの恣意的なカテゴリーによって生を規定される必要はないはずです。

 ですが、分析したり解釈したりする者が、自分だけがそうしたカテゴリーから自由であるふりをして、「人種や民族、宗教的アイデンティティはすべて構築されたものだからこだわる必要ないんだ」と言ってのけるのも傲慢だと僕は思います。

――アイデンティティがたとえ「人工的」につくられたものだとしても、そこから自由になることはできないと。

 私たちは今のところ暫定的に、そういうふうに不均衡に「区切り」をつけられた関係のなかを生きざるを得ないし、所与のカテゴリーを使ってなにかを語るということは、やはりそれが持つ不均衡さに加担することでもあるだろうと思います。なにかを認識したり表現したりする際には、あらかじめ社会的な意味を満載し、不均衡な権力を配分されたカテゴリーに頼るしかないからそうしているけど、そのカテゴリーはつねに暫定的で、当該の人物なり集団なりのある部分だけにしか光を当てないし、別の部分を覆い隠してしまう。だから、そういうカテゴリーの構造に頼っていることを忘れると、人を生き物として見ることができなくなる。

――だからこそ、「この人は黒人だ」「ムスリムだ」から入るのではなく……

 なるべく個を見ようと。口で言うほど簡単ではありませんが、なるべくその人自身を見た上で、たまたまアフリカン・アメリカンと名指された範疇のなかで、彼・彼女がどう振る舞うのか、そのカテゴリーをどう生きるのかを見るように心掛けました。

 そこが「エスノグラフィー」の難しいところだと思うんですけど、「民族」を記録することの危うさは、あらかじめそういう民族集団がいるものだと思ってしまうことなんです。「アフリカン・アメリカンのムスリムたちの声」と書くと、そういう人たちが無条件に無前提に確固として存在していて、かれらに共通の声があるかのように前提してしまうのですが、それは実はすごく危ういことのような気がするのです。

――なんとなくわかる気がします。

 具体的な例をあげると、かれらのなかには自分はムスリムだと言っているけど、親と会うときは元の名前に戻り、ある意味ではクリスチャンとして会うという人がいます。ネイション・オブ・イスラームでも、教義の上ではキリスト教を否定しているにもかかわらず、とてもキリスト教的な語り方をしていることが多々あります。

 1999年にシカゴのネイション・オブ・イスラームのヘッドクォーターで行なった調査で驚いたのは、キリスト教のミニスター(牧師)がムスリムのところにやって来てスピーチしたり、その逆にイスラームのイマーム(指導者)が教会に出掛けていって話をしたりってことがあるとわかったことです。そうなってくるといよいよ、クリスチャンとムスリムの違いはなんだろうかと考えました。もちろん違いはあるのですが、生身の人間は、別にずっとひとつの範疇に縛られながら生きてるわけではありません。

――面白いですね。

 よく言われることですが、誰もが複数のアイデンティティの範疇を生きているわけです。アメリカ人であり、黒人であり、ムスリムであり、あるいはクリスチャンであり、男性であり……といった具合に。ですが、それらが単に、ひとりの人間の内に雑多に付与され生きられているというだけじゃなく、それぞれの役割をこなしながらも、時にはそれにそぐわないこと、その役割を「裏切る」ような行為をすることがある、ということだと思います。

 結果的に、アメリカ人でありながら黒人であるというだけでなく、アメリカ人でありながら非アメリカ人であり、黒人でありながら非黒人であるという存在のあり方が、観念的にではなく具体的に見えるようになる。ムスリムでありながらクリスチャンであるというだけでなく、ムスリムでありながら非ムスリムであること(アブラハムの信仰系譜の外にあること)の可能性、男性でありながら女性であるだけでなく、非男性/非女性であることの可能性が見えてくる。

アイデンティティを「裏切る」

 いちばん強烈にそれを感じたのは、マーシャル・アーツの道場を開いている「アリ」という人物です。彼の場合は行為だけでなく言葉の上でもアイデンティティを裏切っていく。

 アフリカン・アメリカンであり、ムスリムであるにもかかわらず「宗教には関心がない」として「ムスリムはどうしようもない」と言ったり、すごく肌の色の黒い黒人なのですが「黒人たちにはなんの力もない。俺はなにも期待しちゃいない」と言ったりする。それなのに、いつもみんなの世話を焼いていて、まわりからの信頼も厚い。言行不一致というか、理解を求めはするけど、理解されることを拒絶する。あらゆる意味で、アイデンティティの範疇に収まらない人です。

 『黒人のたましい』という本の中で、W.E.B.デュボイスは「二重意識」ということを言っています。それは、アメリカ人であるということと黒人であるということの両方が自身の内で分かち難く結び付いていて、その間で引き裂かれながら生きる苦しさから出てきた表現だと思いますが、アリの場合はそれがさらに多重になっていて、その時々でしのぎながら、たたかって折り合いをつけようとしているように思いました。

――そのアリさんが「俺たち」という言葉で指しているものが場合によって違う、というのもすごく面白いと思いました。

 アリだけに限らず、ストリートや床屋で話を聞いていると、そういうことが度々ありました。「俺たち」と「奴ら」の中身がその時々で違っているのです。それは聞く側からすると分かりにくいし、書くのも難しい。ひとつに固定されて収まってくれたほうが書きやすいし、読む側も理解しやすいはずです。たとえば、対立の図式が「俺たち黒人」と「白人」とか、「ムスリム」と「非ムスリム」といった二項対立で出てくるほうがわかりやすいですよね。しかし、そのわかりやすさこそが危ういのかもしれません。

――とおっしゃいますと?

 アイデンティティをあらわすときに用いるカテゴリーは、確かに私たち一人ひとりのなかに抜け難くあるんですけど、それは相当問題含みの概念でもあります。「アメリカ人は」「日本人は」っていうのもそうですし、「男は」「女は」っていうのもそうですが、それを主語にして何かを述べると、ものすごく呪術的な作用がある。かと言って、アイデンティティなんてつくられたものだから幻想に過ぎない、無視しろ、自己同一性なんてないんだというのも乱暴で、そう主張している人たちだって縛られているのだから、アイデンティティにまつわる呪縛がない社会というのは今すぐにはできません。

 そもそも「私」という現象もそうですよね。体内の細胞は何年かで全部入れ替わるはずなんですけど、記憶がある限りにおいては、ゆるやかにではあれ誰もが自己同一性を前提にしてしまうし、これだけ「近代的自我は幻想だ」と言われても、「私がなにかをしている」という意識を消すことができない。

――いくら幻想だと言われても「私」がない状態というのは想像できませんし、それが消えてしまうことには恐ろしさも感じますね。

 きわめて乱暴にまとめてしまうと、アイデンティティはつくられたものではあるけど、そこからは逃げられないという前提で、アイデンティティがどういうふうに構築されるのかを批判的に検討してきたのが、ここ何十年かのアイデンティティ論だったと思います。人種的アイデンティティについても、人種は生物学的な現象ではなく、文化的構築物である、だから批評を通じて脱構築することが可能で、そうすることで人種的範疇のもつ磁場から離れることができる、そう信じてやってきた。僕もそう信じてきたわけです。

 でも、ハーレムのストリートで実際に人種的アイデンティティがどう生きられているかを見ると、アイデンティティはもっと肉体的でありながら、もっと繊細なダイナミズムのなかで駆け引きされている。単純にテクストのうえで脱構築可能な文化的構築物ではなく、論理と感性によって身体的に感受され応答可能な生物的・社会的存在(biotic-social entity)とでも呼べそうななにかです。

 具体的には、僕の出会った人たちは、きわめて人種主義的なレトリックをバンバン平気で使う。だけど、そうやって明確に構築しつつもそれからずれていく。単にあいまいに揺らいでいるのではなく、つくってはずらし、つくっては壊し、というアイデンティティの生き方、アイデンティティとのつき合い方です。そういう生き方もあるのだということを、アリや他のストリートで出会った人たちに教えられた気がします。