――『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国)の中でも書かれていましたけど、アフリカン・アメリカンとイスラームが結びついたのはなぜなんでしょう。メンバーたちはネイション・オブ・イスラームのどんなところに惹きつけられたのでしょうか。

 僕も当初は本当にそれが疑問で研究を始めたようなものです。ネイション・オブ・イスラームの運動を見ていくと、年代によって何度かすごく盛り上がるが時期があるんですね。まず一つは、さっきも言った通り、1930年代のデトロイトの黒人街で広まっていったタイミング。その後イライジャが基礎をつくって地道に活動していくのですが、50年代から60年代にかけてそれが花開きます。マルコム・X(1925年-1965年)という強力なパートナーを得て、世間から大きな注目を集める。そしてもう一つ、先取りして言ってしまうと、80年代から90年代にかけてもまたすごく盛り上がる。

――30年代、50~60年代、80~90年代という3つのピークがあると。

 まず30年代に関して言うと、29年には大恐慌がありました。その時のデトロイトの黒人街では、相当な数の人が職にあぶれていただろうことは容易に想像できます。イライジャ自身も仕事がなく、酒ばかり飲んでいるような毎日でした。そんなときに現れたのがマスター・ファードです。

 彼は、劣悪な環境のなかで職も希望も失っている黒人たちに、彼らの起源であるアフリカの歴史や暮らしについての知識を提供し、白人のことを「青い目をした悪魔」と呼んで、その残忍な人種差別や聖書の悪用を非難しました。それはイライジャを含めた黒人たちにとって、これまでの認識を180度転換させられるような経験だったと思います。

――過酷な現実に絶望している黒人たちに、生きていく「力」を与えたわけですね。

 50~60年代にも似たようなことが起きています。50年代には公民権運動が大きく盛り上がりますが、公民権運動は、さっきも言った通り、ユダヤ=キリスト教の伝統の下に展開していった協調路線の運動です。黒人もユダヤ人も白人も一緒になって、一つのネイションをつくり直していこうという救済の思想だった。

 それは素晴らしいことに思えるわけですが、でも、どうしてもそこから零れ落ちる層が出てくる。キリスト教の言葉が届かなかった人たち、教会が受け止められなかった人たちです。あるいは、教会を素直に受け入れることができない人たち。それが、北部の都市で差別と抑圧のターゲットになっているような人たち、マルコム・Xに関連させて具体的に言うと、ハーレムの貧困層であり、スラム街にいるような若者たちです。

 キリスト教の言語が染み付いてる南部州の黒人たち、日曜日ごとに教会に通い、歌をうたったりダンスを踊ったりしていた人たちは、きっと公民権運動に入っていきやすかったでしょう。北部州でも、教会に行けるような人たちはよかったかもしれない。

 でも、そこからこぼれてしまう人たち、刑務所あがりだったり、路上生活を余儀なくされたり、絶望感にさいなまれたりしている人たちにも届くようにして語りかけたのがマルコム・Xであり、その受け皿となったのがネイション・オブ・イスラームだったわけです。これは、先ほど挙げたタラル・アサドの論文などから僕が勝手に類推していることですが。

――なるほど。

 キングとマルコムの違いについては、すでに多くの論点が提出されていますが、一般的な理解では、非暴力主義で友愛と人種統合を語るキングと、暴力も辞さない分離主義のマルコム、というものではないでしょうか。ですが、先ほどのアサドの議論が興味深いのは、そのような一般的な理解を超えるだけでなく、マルコムの失敗を、「すべての人に人権(human rights)を」という普遍的なメッセージを国連に持ち込んだ彼の戦略に見ている点です。

 特にネイション脱退後の晩年のマルコムのメッセージは、一般的な理解に反して、暴力を煽るものでもなければ、偏狭なものでもなく、全人類を含むすばらしく普遍的なものだった。しかしそれがゆえに、そしてそれをアメリカ国内で権限を持たず、したがって国家が独占する法の暴力を執行することができない国連に訴えてしまった。それに対し、キングのメッセージは普遍的に見えながら、じつはユダヤ=キリスト教の言語の特殊性によってたち、国内で法の暴力を執行できる公民権(civil rights)の法制化を目指した。これがアサドの論点です。

――普遍的なメッセージを国連に訴えたマルコムに対し、キングはユダヤ=キリスト教の言語に基づいたメッセージをそれらが支配的な影響力をもつアメリカの中で訴えた。その点で、キングの戦略の方がより実効的だったわけですね。

 しかし、もうひとつ付け加えるとすれば、キングとマルコムとの違いは、その語り口からも明らかです。キングはゆったりとしたスピードで、アメリカ全体の大衆に向かってコンセンサスを得るようにして「I have a dream」と謳っていく。キリスト教で使われるシンボリズムが何度も出てくるし、アメリカの建国の父祖を引き合いに出します。

 それに対してマルコムの語りは、圧倒的にストリートの言語です。ものすごい速さで言葉を繰り出し、相手をののしり、挑発し、告発していく。権威におもねらない。自分たちを同調させようとする一切の力を拒否する。それが、ストリートで暮らす人たちに響いたと思うんです。自分たちと同じ言語を持った人がいる、と。

 マルコム・Xはもともと優等生だったみたいですが、幼いときに牧師をしていた父が殺害され、母は精神を病んで施設に送られてしまう。すさまじい差別の中で生きていくうちに、ギャンブルにのめり込み、ドラッグを売り、売春婦をつかってポン引きをし、強盗をはたらき、刑務所に何度も入れられて……。そういう絶望の淵から救い上げてくれたのが、イライジャ・ムハンマドだったわけです。

――マルコム自身が、アメリカ社会の底辺を経験していた。

 そういうことですね。ネイション・オブ・イスラームの活動に話を戻すと、3つめのピークである80~90年代というのは、組織ができた30年代とも、マルコムが活躍した50~60年代ともちょっと違うニュアンスがあります。

 30年代、50年代はいずれもイライジャの元でネイションが運営されていたのに対し、80年代以降はルイス・ファラカーンにリーダーシップが移る。というより、ネイション自体はイライジャの死後、息子のウォレス・ディーン・ムハンマドが引き継ぎ、組織名を変更し、よりスンニ派に近いかたちで運営していきますが、そのことに不満をもった層とともに、ファラカーンが新しく創設し直したのが現在のネイションです。

 公民権運動やブラックパワー運動の成果で黒人の社会的地位が少しずつ上がってきたのに、80年代になると共和党の時代がやって来て、一気に逆風にさらされる。社会保障の予算なんかがどんどん削られるなか、だったらもう自分たちでやろうというので、黒人学校をつくったり、独立も視野に入れたような動きが出始めたりする。アメリカのなかで、リベラルでありながら分離や分裂を危ぶむ人たちが出てきて「多文化主義論争」が起こるのも、このころです。そういうなかでまた、ネイション・オブ・イスラームの黒人中心主義的な教義が注目を集めていく。

 メンバーにはならないけど支持してみようとか、リーダーのルイス・ファラカーンに会ってみようと思うアフリカ系アメリカ人の思想家や活動家が出てきました。そんな矢先、1992年にスパイク・リーの映画『マルコムX』が公開され、若者たちを中心にさらに支持を集めていく。そのピークと言えるのが、95年にワシントンDCで実施された「100万人の大行進(Million Man March)」でした。

――ネイション・オブ・イスラームに注目が集まるのは、黒人たちがより過酷な状況に追い込まれたときなんですね。

 もうひとつ付け加えると、同じころに思想や人文・社会科学の領域では、いわゆるポストコロニアル批評が大流行し、白人中心で編纂された歴史や価値意識がするどく問い直され、アフロセントリズムが脚光を浴びます。そうした流れ自体は、60年代からありましたが、それがさらに深まり、たとえば黒人奴隷のなかの三割はムスリムだったとする研究が発表されるようになります。

 それと、ネイションばかりが目立って取り上げられますが、先に述べたとおりイライジャの死後は、息子であるウォレス・ディーン・ムハンマドが、よりスンニ派に近いかたちで別の組織を設立し、イスラームの普及に尽力していきました。今では、ネイションに所属するムスリムよりも、非ネイション系のアフリカン・アメリカン・ムスリムのほうが数としては多いです。

キリスト教とイスラーム

――1950~60年代には、教会に通うような人びとがマーティン・ルーサー・キングJrに率いられて公民権運動に参加していく一方、教会にも行けないようなストリートの人びとはマルコム・Xを介してネイション・オブ・イスラームに共感していくという動きがあったわけですね。

 文献を一つ挙げると、黒崎真さんが『アメリカ黒人とキリスト教』(ペリカン社)という本の中で、黒人文化におけるキリスト教の二つの解釈を扱っています。

 一つは白人による抑圧から解放してくれた、救済してくれたという見方。一般的にはこれが主流だと思いますが、他方でネイション・オブ・イスラームが主張するように、キリスト教自体が抑圧の道具だったという見方もあります。黒人たちはキリスト教を押し付けられて、同調していかざるを得なかった。反乱は許されない。それが、「統合integration」という名のもとでの同化政策へと結び付いていったんだという解釈です。これはマルコム・Xが主張していたことでもありました。

 恐らくそれが、アフリカン・アメリカンのなかの一部の人たちが、イスラームを選んだ理由だと思うんですね。キリスト教自体に抑圧や差別の機能があったかどうかは議論が分かれるけど、そのキリスト教に入っていけなかった人たち、あるいはクリスチャンとして育ったけれど、過酷な現実を突きつけられたり、意識を覚醒させられるきっかけがあったりして、なにか違うのではないかと思った人たちの一部が、教会とは異なるネイション・オブ・イスラームのような組織を選んだのではないかと。

 恐らく90年代になるくらいまでは、アメリカ市民の多くにとって「イスラーム」は、遠い存在で、ある意味ではエキゾチックで、よくわからないものだった。そのことがむしろ、たたかいの途上にあるアフリカン・アメリカンにとっては、オルターナティヴを考えるうえで重要だったのではないかと思います。

――イスラームの教義に感化されたというより、キリスト教ではないものとしてイスラームを選んだ。

 それは大きかったと思います。現に、ネイション・オブ・イスラームの持つ独自のルールは、厳密に言うとイスラームの教義そのものではありません。もちろんかれらにとって、ムスリムであることはとても重要なわけですが。

――ネイション・オブ・イスラームは、過酷な環境で生きる黒人たちに「ムスリム」というアイデンティティを与えたわけですね。たとえそれがクルアーンに厳密に則ったものではないにしても。

 キリスト教ではなくイスラームだったというのはとても重要だったと思います。それはまず、名前が新しくなることを意味します。従来のラストネームにかえて、「ムハンマド」や、50~60年代であれば「X」という名を名乗るようになる。マルコムの場合だと、マルコム・リトルからマルコム・Xとなったわけです。

 そして言葉遣いや振る舞い、あいさつの仕方が変わる。「How are you doing?」とか「What's up?」だったのが、「ア・サラーム・アレイクム」になる。服装も変わります。男性はネイション・オブ・イスラームのユニフォームかスーツを、女性はドレスを着用するようになる。ネイション・オブ・イスラームには、自分たちのアイデンティティを改変するための儀式と儀礼があふれているのです。

――それは今まで抑圧され、理不尽な差別と暴力にさらされてきた人にとってはすごく魅力的ですよね。新しい自分になれる。

 刑務所から出てきた人なんかは特にそうですよね。ネイション・オブ・イスラームは、人生に絶望し、出所してもまた犯罪に手を染めてしまうような人たちの受け皿となりました。リーダーやメンバーに元受刑者が多かったことも、うまく作用したと思います。それは当時、多くの他の団体にはできなかったことです。

――マスター・ファードの教えに反応したアフリカン・アメリカンたちが、自分たちの起源であり、「祖国」であるアフリカの話を聞きたがったというエピソードもすごく印象に残っています。

 研究を始めたばかりのときは驚いた、と言うと少し語弊があるのですが、なぜそこまで自分たちのルーツにこだわるんだろうというのが正直ありました。しかし、調べて考えていくうちに当然だと思うようになった。

 アフリカン・アメリカンの人たちは、自分自身や親はアメリカ生まれですが、かれらの祖先は訳も分からないまま連れてこられたわけです。そしていま、自分たちも、ひどい差別と暴力にさらされている。そんな境遇だったら、そしてそれは必然でもなんでもないし、他でもあり得た可能性があるのだということがわかれば、では一体どうしてこんなことになっているのだろうかと思いますよね。

 今の境遇にそこそこ満足して、ほとんど無意識に自己肯定感とか、すでに与えられている集合的範疇への安定した帰属意識をもって暮らしている人は、自分たちの歴史とかルーツにそこまで興味を持たないんじゃないかと思うんです。

 でもそうではない人たちは、生きていくうえでの何かしらの参照軸のようなものを欲するのではないでしょうか。「私」あるいは「私たち」という存在がなにによって成り立っているのか、「私(たち)」に至るまでに、なにがどういうふうに記憶継承されてきたのか、知りたくなるように思うのです。

――アイデンティティが危機に瀕している人ほど、アイデンティティを意識するようになると。