釈尊当時の疫病

 下火になってきたとはいえ、コロナ禍が続いていますので、伝染病と仏教の関係について述べておきましょう。実は、釈尊の時代にも伝染病が流行したことがありました。釈尊がマガダ国の都に滞在していた際、隣国で疫病が広まり、釈尊が出かけていってそれを終息させたとする伝承が、複数の経典に説かれています。

 その隣国とは、ガンジス川北岸からネパールにかけての地を占めていた部族連合国家のヴァッジ国です。その諸部族の中でも有力であったリッチャビ族の都であって、商工業が盛んであったヴェーサーリーで伝染病が発生し、多くの死者が出たのです。リッチャビ族の代表がマガダ国の都にやって来て、都のラージャガハ(王舎城)で雨安居(うあんご、雨期の間、一箇所に定住して修行に励む期間)に入ろうとしていた釈尊に救いを乞うと、釈尊は恐れることなくヴェーサーリーへ旅立ったとされます。

 釈尊がガンジス河を船で渡って北岸に着くと、迎えに来た多数のリッチャビ族の商人たちに歓迎され、傘蓋(さんがい)と呼ばれる日傘などの供養を受けて説法をおこないます。インドは暑い国ですので、貴人が外出する際は、おつきの者が後ろから豪華な傘蓋をさしかけるのです。この傘蓋は、後には土饅頭型の仏塔の上に供養として何本も刺されるようになり、それを仏塔の上に縦に重ねる形にした装飾化が進んでいきます。その部分が東アジアで変化したのが、五重塔などの先端に避雷針のように建てられている相輪(そうりん)です。

 商人たちとともに都におもむいた釈尊が、城門の敷居石を踏んだとたん、町にとりついて病気を引き起こしていた悪鬼たちは逃げだします。さらに人々がブッダを讃える頌(じゅ、詩句)を唱えると、都の全域が浄化され、疫病は終息したと伝えられています。

 この話がどこまで史実を反映しているかは不明ですが、釈尊の在世時にヴェーサーリーで疫病が流行ったこと、釈尊がヴェーサーリーにおもむいたこと、その結果、ヴェーサーリーで仏教が広まったことは事実のようです。

 この伝承は、様々な派が保持する経典によって少しずつ異なっています。パーリ語の注釈では、釈尊に指示されてアーナンダが仏鉢から水を撒き、仏法僧の三宝こそが真理であるとして称える『ラタナスッタ(宝経)』を終夜唱えたため、疫病がおさまったとされ、『ラタナスッタ』の由来話となっています。

 『ラタナスッタ』は、除災のためのパリッタ(護身呪)として広まり、現在でもパーリ語仏教圏では日常唱えられている経典です。また、ヴァイシャーリー(パーリ語表記であるヴェーサーリーの梵語形)の富裕な居士であるヴィマラキールティ(維摩詰)が、病気となった姿を示してみせ、見舞いに派遣された仏弟子たちに説法する大乗の『維摩経』その他の経典の源泉ともなりました。

仏教と医療

 釈尊は呪術を禁じたとされ、また僧侶が医療によって収入を得ることを禁じたと伝えられていますが、古代にあっては医学と呪術は分かちがたく結びついていました。上記の『ラタナスッタ』や、生き物すべてに慈悲の心を抱いていることを毒蛇に対して語りかけ、その害から逃れようとするパリッタなどは、例外として早い時期から教団で認められていたようです。

 また、僧侶は旅をして修行しますので、医学の知識は必須なものでした。そうした知識に富んだ僧侶が信者たちに衛生上の助言をすることもあったようです。仏教は体を痛めつけるだけの極端な苦行を否定し、中道を尊びますので、身心を整えることには注意を払っていたのです。そのうえ、仏教教団では、病気になった人や動物たちに医療をおこなうことを、功徳のある行為として信者たちに勧めていました。動物たちにも、という点がインドらしいところですね。

 経典には「一切衆生(いっさいしゅじょう)」という言葉が頻出しており、これは東アジア諸国では「すべての人々」の意と受け取られることが多いのですが、「衆生」の原語は sattva であり、命あるものを指します。輪廻の思想が根付いていた古代インドでは、動物や鳥や虫たちなど命あるものは、人間と同様に輪廻を繰り返しており、人間であった時期もあったとみなしていました。今でもインドでは、猿や牛などが町中を我が物顔で歩き回っていることが多く、動物たちは本当に身近な存在となっています。

 このため、仏教信者となったアショカ王などは、支配下の国々に対して、人間と動物の病院を設置するよう命じていました。また、釈尊の誕生を祝う期間、特に5年おきに開催される大会(だいえ)の際は、裕福な者たちは都市に治療所を設置して無料で医療をおこない、貧しい人たちに食事を供したりしたのです。

 日本では、四天王寺が医療をおこなう施薬院と療病院、病人や困窮者などのための福祉施設である悲田院(ひでんいん)を設けていたことが有名ですね。盲目となった鑑真も医学に通じており、匂いで薬草をかぎわけ、病人に薬を処方したことで知られています。

 それが伝統である以上、日本の疫病流行に際しても、仏教側が祈祷するばかりでなく、薬を提供する場合もあったのは当然でしょう。修験道(しゅげんどう)の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)は疫病流行に際して陀羅尼助(だらにすけ)という名の薬を作ったとされており、これは後代の伝説ですが、現在でも関西の複数の薬品会社が役行者由来と称する「陀羅尼助丸」といった名の胃薬などを販売しています。

疫病から救ってくれる経典

 日本では、仏教伝来期を初めとして、疫病が何度も流行しました。特に有名なのは、天平7年(735)から9年(737)にかけて九州で発生し、日本全国に広まった天然痘の大流行です。この時は、政治を牛耳っていた藤原氏でも、南家の開祖の無智麻呂、北家の開祖の房前、式家の開祖の宇合、京家の開祖の麻呂という四兄弟が次々に感染して亡くなっています。

 その四兄弟に代わって皇親の橘諸兄が権勢を振るうようになると、朝廷から遠ざけられて太宰府の長官となっていた宇合の息子、広嗣が天平12年(740)に反乱を起こし、聖武天皇の軍勢によって鎮圧されます。自分の兄弟たちの相次ぐ病死に加え、親戚から反乱者を出してしまったことに衝撃を受けた藤原氏の光明皇后は、父の不比等に与えられていた膨大な封戸(ふこ)の返上を申し出、それがきっかけで諸国に国分寺が建立されます。

 大和国分寺である東大寺に聖武天皇が書き与えた寺額(じがく、寺院の門や金堂などに掲げられる額)に「金光明四天王護国之寺」とあることが示すように、それらの国分寺の任務は、読誦(どくじゅ)すれば「一切の疫病」と諸悪を除くと説いている『金光明経』や『金光明最勝王経』を日夜読誦し、講説することでした。

 そもそも、藤原氏の祖先である中臣鎌足は、重病となった際、百済から来た尼の勧めにしたがって『維摩経』を講経させたところ、病がたちまち治癒し、それが興福寺の維摩会(ゆいまえ)の由来とされています。長らく中断していたその維摩会を復興したのも、光明皇后でした。

忍性の疫病救済

 疫病が大流行した時期の一つは、13世紀後半です。この時期は、モンゴル来襲に加え、飢饉と疫病の流行が続いた多難な時期であって、困窮者や病人が多数苦しんでいた時代でした。まさにこの時期に鎌倉の極楽寺を中心として医療を含めた社会福祉事業に邁進したのが、真言律宗の忍性(にんしょう、1217-1303年)です。

 難所に道を作り、また川に橋をかけて通行料金をとり、それを事業に回すなどしていたため、非難もなされました。しかし、忍性はそうした声には耳をかさず、57歳の時には、「衆生に代わって私一人で苦しみを受けよう。乞食、病人、捨てられた牛馬などに哀れみをかけよう。薬草などを植え、すべてを十方の衆生に施与しよう」などの十大願を立てます。

 ここで注目されるのは、インド以来の伝統に基づき、「衆生」に牛馬などの動物をも含めていることです。弘安6年(1283)の疫病流行の際は、施薬院、悲田院、療病舎、福田院、癩病舎(らいやど)、薬湯湯などの施設を作っており、永仁6年(1298)には、極楽寺の坂下に「馬病屋」を建てています。そして、80歳を超えた身で常にこの施設を訪れ、馬に語りかけ、撫でさすり、祈り、薬を与えたと伝えられています。

 『極楽寺縁起』によれば、20年間で施療した人は数万人、施療した牛馬は「一千有余疋」に及んだ由。鎌倉時代は、新仏教と言われる諸宗派が勃興した時期であるものの、「貴族的な旧仏教、民衆重視の新仏教」という図式は実状に合わないことが指摘されていますが、そうした通説の見直しがなされた要因の一つは、「旧仏教」に属する忍性らのこうした活動でした。