薬としての牛乳
前回は伝染病と薬の話であって、維摩詰(ゆいまきつ)が病気となった姿を示す『維摩経』にも触れました。その『維摩経』では、釈尊がちょっとした病気になった際、弟子の阿難が釈尊に命じられ、牛乳を布施してもらいに出かけたところ、皮肉屋の維摩詰に出会います。
すると維摩詰は、如来は金剛のような体であって病気などないと叱ったため、阿難は釈尊の言葉を聞き間違えたかと思い、恥ずかしく思って立ち去ろうとします。すると、天の声があり、「釈尊は、天災や疫病などが多い劣った時代の人々のために、敢えてそうした姿を示すのだ。乳を取れ。恥ずることなかれ」と語ります。
この話は、牛乳が薬として用いられたことを示しています。実際、苦行で痩せ衰えて死にそうになった釈尊が、苦行は無意味であると知り、体調を整えて正しい修行に努めようとした際、村の娘のスジャーターがさしあげた乳粥を食して元気を取り戻し、菩提樹のもとで坐禅して悟った、という逸話は有名です。乳粥というのは、牛乳で米を煮た甘い食べ物であって、消化に良い健康食です。
乳の仏教学
釈尊については、後代には他にも乳に関わる伝承がいくつも語られています。そもそも、若くして結婚した相手は、ヤショーダラーという名の美しい娘でした。ガンダーラ地方の僧侶で大詩人として知られたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)は、釈尊の伝記を美しい韻文で述べた『ブッダ・チャリタ(仏の行い)』では、ヤショーダラーについて、「チャール・パヨーダラーヤーム、ヤショーダラーヤーム、スヴァ・ヤショーダラーヤーム」と韻を踏みつつ述べています。
ヤショーダラーというのは、ヤシャス(名声・美麗)をダラ(保持)する女性ということですので、無理に日本風な名にすると、栄子とか誉子(たかこ)といった感じでしょうか。「チャール」は可愛いという意味であって、「パヨーダラー(乳房)」というのは「パヤス(乳)」を「ダラ」するものということで乳房を意味します。スヴァは「自らの」という意味です。
つまり、アシュヴァゴーシャは、太子時代の釈尊の若い妻のことを、「愛らしい乳房を持ち、自らの(美しいという)名声を保っている、ヤショーダラー」と賞賛したのです。『ブッダチャリタ』はインド全国で老若男女が朗唱したと伝えられていますので、インド人はこうした表現に違和感を持たなかったのですね。
スリランカのシーギリヤ遺跡の壁画では、下女たちは上着を着ているのに対し、貴女たちは上半身裸であって、たわわな乳房を見せており、大きな首飾りや腕輪で身を飾っています。南方アジアでは、魅力的な乳房は、髮や肌や目の美しさと同様に賞賛されるものだったのであって、だからこそ、『ブッダ・チャリタ』のような表現がなされたのです。
ところが、儒教道徳がしみこんでいる中国では、『ブッダチャリタ』を『仏所行讃』という名で漢訳した際、ヤショーダラーに関する上の記述を「賢い妃の耶輸陀羅(やしゅだら)」としています。これはひどいですね。「愛らしい乳房」はどこへ行ってしまったんだ!という悲痛な思いで、私は「仏伝文学に見えるエロティックな記述を中国人はどう受け止めたか-Buddhacarita(仏所行讃)の漢訳が示すもの―」という論文を書いた次第です。
以後、国による仏教の違いを解明するということで、こうした研究を「乳の仏教学」と称することにしました。専門を尋ねられて「ちちの仏教学です」と答えると、「母は扱わないんですか?」などと聞かれるのですが、すました顔で「いや、ちちなんです」と答えるのです。
母乳の威力
乳で面白いのは、釈尊の母である摩耶夫人(まやぶにん)が乳を飛ばす場面です。摩耶夫人は、釈尊を生んで一週間ほどで亡くなってしまい、天に生まれます。仏伝によれば、悟った後の釈尊は、恩返したのめに母親を教化しようとして天まで上っていくのですが、日本で中世から近世にかけて流行した『釈迦の本地』と題する仏伝では、摩耶夫人は成人した釈尊の顔が分からなかったとされています。
そこでどうしたか。釈尊が「あなたが乳を飛ばして、それが口に入ったのが息子です」と言うと、摩耶夫人が乳房をしぼって乳を飛ばし、それが見事に釈尊の口に入ったのであって、親子の証明となったというのです。この場面は、絵にもなっています。
先ほど、皆さんがヤショーダラーの乳房の描写を読んだ際は、「日本では考えられない」と思われたことでしょう。しかし、私が子供の頃は、電車の中で赤ちゃんが泣き止まないと、母親が乳房を含ませて母乳を与える場面をしばしば見かけました。そうした日本だからこそ、絵入りの『釈迦の本地』が違和感なく受け入れられていたのです。
欧米ではありえないと思われるかもしれませんが、こうした仏伝の国ごとの違いを明らかにした小峯和明さんは、これとそっくりの構図の絵がキリスト教にもたくさんあることを指摘しています。母を亡くしたベルナルドスという中世の聖人が、教会の聖母マリアの像に対して、「あなたが母であることをお示しください」と祈っていると、聖母マリヤの像が乳を飲ませるのです。幼子イエスを膝に抱えた聖母マリアが右の乳房をしぼって乳を飛ばし、それがベルナルドスの口に入る様子を描いたアロンソ・カーノの「聖ベルナルドゥスと聖母」の絵が有名ですね。
親子を証明する母乳
飛ばした母乳が子の口に入ることが母と子の証明となる例は、興味深い因縁物語や譬喩(ひゆ)物語を集めた『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』の「蓮華夫人縁」にも見えています。この話では、ヒマラヤ近くの山中で修行する仙人が毎日小便をかけた岩をなめた雌鹿が女の子を産みます。仙人が自分の娘であることを知って育てたところ、この娘はきわめて美しくなり、しかも歩いた足跡に蓮華が生ずるという奇跡を起こします。
以下、面白い要素満載なのですが、残念ながら割愛して簡単な筋だけ紹介します。見初められて国王の妃となった蓮華夫人、つまり仙人と鹿の娘は、500人もの皇子たちを卵の形で産んだところ、他の妃たちが嫉妬し、小麦を練った500の団子にすり変え、卵の方は箱に入れて河に流してしまいます。下流でその箱を見つけた隣国の王の500人の妃たちが、それぞれ卵を一つづつ引き受けると、卵からは男の子が生まれ、500人の屈強な青年に育ちます。
一方、蓮華夫人は、団子などを産んだということで王から遠ざけられてしまいますが、その国に痛めつけられていた隣国では、かの500人の青年たちが武装し、軍勢を引き連れて上流の国を打ち倒すために進軍してきます。恐怖におののいた国王が先の仙人に助けを求めると、仙人は、あの精兵たちはお前の息子たちなのだから、蓮華夫人を白い象に乗せて軍の先頭に立たせれば、相手は屈服すると教えます。
そこで、そのようにしたところ、500人の青年たちは弓で妃を射ようとしますが、手が硬直して射ることができません。そこへ仙人が空を飛んできて、あれはお前たちの母だと告げ、妃が両方の乳房を絞って乳を飛ばすと、それぞれ250条に分かれて青年たちの口に入ります。青年たちは愕然として懺悔し、仏教修行の道に入り、悟りを得ました。
めでたし、めでたし、ですね。「だから、親にはつくさないといけない」という教訓が語られて終わります。いかがでしょう。ディズニーかジブリに、ぜひアニメ映画にしてもらいたい話ではないでしょうか。
私は大学在職中は、この話を仏教漢文の授業で教材に用いていました。この話は日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』にも影響を及ぼしているものの、まったく違う話になっています。「乳の仏教学」は意外で楽しいものなのです。